球団の寮を引き払い、久しぶりに帰ってきた我が家には、もうあの神様の写真は一枚もなかった。繁が幼い頃から、家中あちこちに貼ってあった小林投手のポスターは、繁の入院中に父が全部剥がして、一枚残らず燃やしてしまったのだそうだ。その父はあの日以来、繁とあまり顔を合わそうとはしない。
「すまんかったな……」
同じあの日、病院のベッドに横たわる繁に、父は言った。
「それはこっちの台詞やで」と、繁は返事をしたかったが、言葉が出なかった。言葉の代わりに、大粒の涙が溢れ出た。その涙の向こうにある父の顔面には、青痣(あおあざ)とバンソウコウが見えた。あとで母に訊けば、繁がグラウンドから担架で運ばれていく際、スタンドから、「引っ込め! この人殺しのへぼピッチャー!」と野次を飛ばした男に父が詰め寄り、結局取っ組み合いの大喧嘩をしたらしい。乱闘は、グラウンドの中だけではなかったのだった。
繁は父の夢であり、またその父の夢は、繁の夢でもあった。そして父と繁その二人の夢は、あの日、互いに乱闘の中に消えた……。
「繁、あんたまた爪伸びてきてるんとちゃうか? ちゃんと切っとかな危ないがな」
あの日以来、俄然無口になってしまった父に代わって、心なしか最近は母が口うるさくなったような気がする。
知り合いからの縁談で見合いをしたという父と母は、西宮市甲子園町出身の母に父が一方的に熱くなり、そのまま父が押しの一手で結婚した。それから二十一年間続いた亭主関白も、今ここにきてようやく翳りを見せ始め、一方、いよいよ私の時代が到来したと言わんばかりに、母は妙に張り切っているように見える。
「お母ちゃんが爪切ったろか?」
「あほなこと言わんといてくれ、子供やないねんで。また真弓と若菜に冷やかされるやないか」
繁はもう十年以上、爪を切っていなかった。野球を始めた頃、指先を大切に扱わねばならないプロ野球のピッチャーは、皆爪を切るのではなく、やすりで丹念に研いでいるのだということを、テレビのスポーツドキュメンタリーで知って以来、繁もずっとそれを実践してきた。だが引退を余儀なくされた今となっては、もう爪を研ぐ必要もなくなった。しかしもう何年も爪を切ったことがなかった繁にとっては、当然ながら爪を切る作業が苦手で、その上繁の左の腕から肩にかけては、今まだギプスが覆っていて、思うように腕を動かすことができない。二週間ほど前、おぼつかない手つきでどうにか切ってはみたものの、思わぬ深爪をして痛い思いをしてしまった。それを見るに見兼ねての母の好意ではあったが、妹たちの目がある手前、そう甘えるわけにもいかず、女三人に囃(はや)されながら、繁は慎重な手つきで爪を切った。
(続く)
『蟻に訊きたし』は、次回にて完結します。
「すまんかったな……」
同じあの日、病院のベッドに横たわる繁に、父は言った。
「それはこっちの台詞やで」と、繁は返事をしたかったが、言葉が出なかった。言葉の代わりに、大粒の涙が溢れ出た。その涙の向こうにある父の顔面には、青痣(あおあざ)とバンソウコウが見えた。あとで母に訊けば、繁がグラウンドから担架で運ばれていく際、スタンドから、「引っ込め! この人殺しのへぼピッチャー!」と野次を飛ばした男に父が詰め寄り、結局取っ組み合いの大喧嘩をしたらしい。乱闘は、グラウンドの中だけではなかったのだった。
繁は父の夢であり、またその父の夢は、繁の夢でもあった。そして父と繁その二人の夢は、あの日、互いに乱闘の中に消えた……。
「繁、あんたまた爪伸びてきてるんとちゃうか? ちゃんと切っとかな危ないがな」
あの日以来、俄然無口になってしまった父に代わって、心なしか最近は母が口うるさくなったような気がする。
知り合いからの縁談で見合いをしたという父と母は、西宮市甲子園町出身の母に父が一方的に熱くなり、そのまま父が押しの一手で結婚した。それから二十一年間続いた亭主関白も、今ここにきてようやく翳りを見せ始め、一方、いよいよ私の時代が到来したと言わんばかりに、母は妙に張り切っているように見える。
「お母ちゃんが爪切ったろか?」
「あほなこと言わんといてくれ、子供やないねんで。また真弓と若菜に冷やかされるやないか」
繁はもう十年以上、爪を切っていなかった。野球を始めた頃、指先を大切に扱わねばならないプロ野球のピッチャーは、皆爪を切るのではなく、やすりで丹念に研いでいるのだということを、テレビのスポーツドキュメンタリーで知って以来、繁もずっとそれを実践してきた。だが引退を余儀なくされた今となっては、もう爪を研ぐ必要もなくなった。しかしもう何年も爪を切ったことがなかった繁にとっては、当然ながら爪を切る作業が苦手で、その上繁の左の腕から肩にかけては、今まだギプスが覆っていて、思うように腕を動かすことができない。二週間ほど前、おぼつかない手つきでどうにか切ってはみたものの、思わぬ深爪をして痛い思いをしてしまった。それを見るに見兼ねての母の好意ではあったが、妹たちの目がある手前、そう甘えるわけにもいかず、女三人に囃(はや)されながら、繁は慎重な手つきで爪を切った。
(続く)
『蟻に訊きたし』は、次回にて完結します。