西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 3

2006年01月15日 03時17分43秒 | 小説
「お前らこれでほんまに中三か? 情けない奴らやなあ」
 と、心の中で呟いた。本当は怒鳴りつけてやりたい気分であったが、それはしなかったし、できなかった。先輩づらをしたくなかったのだ。
 実のところ浩人は留年していた。このクラス唯一の中学四年生だった。昨年、原因不明の胸の苦しみに悩まされ、大事な三年生の二学期の大半を欠席した。義務教育の公立中学校だから、出席日数に関わらず卒業はできたが、言うに及ばず進学の可能性はゼロに等しく、結局、希望留年をしたのだ。
 元来学校嫌いの浩人は、この留年で、なおも学校が嫌いになってしまっていた。考えてみれば当然のことである。同じ教室にいるのは皆後輩ばかりで、言葉を交わす友達が一人もいないのだ。しかも浩人は、過去三年間クラブ活動もやったことがなく、縦のつながりがないので、顔見知りもほとんどいない。知っている顔と言えば、小学校の頃同じそろばん塾に通っていた、大山(おおやま)という名の女子一人ぐらいであったが、彼女とは口を利いたこともなかったし、向こうも浩人のことを知っているかどうかも分からなかった。あとは、そういえば校内のどこかで見たような顔だな、と思う程度にしか知らない連中ばかりだった。そんな学校が、好きになれるわけがない。だからまた学校が嫌になり、行かなくなる。そうして中学三年生をやり直すための留年は、全く意味のないものになりかけていた。
 口を利くこともできず、着ける席もなく、だからと言って今更家に帰ることもできず、暗い教室で、一人途方に暮れて動けなくなってしまっていた浩人を、ようやく動かしてくれたのは、担任の白川福子(しらかわふくこ)先生であった。歳はもう五十を過ぎていようか? 大柄で独身で、噂によると、組合運動バリバリという、張り切りオバチャン先生である。
 ホームルームで出席を採るためにやってきた白川先生は、教室に入るや否や、その扉のすぐ傍(かたわ)らに突っ立っていた浩人に、満面皺だらけの笑顔を見せた。だか久しぶりに学校に姿を見せた生徒に対して、別段驚いた様子ではなかった。多分、先生は浩人になるべく自然に接してやろうとしたのであろう。それだけ先生にも気をつかわせてしまっていた。余談になるが、後に「二回も行く必要はない」と行かなかった修学旅行の際にも、白川先生は、お土産に買ってきた信州高原のキーホルダーを、わざわざ浩人の自宅まで届けてくれたりもした。

(続く)