西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

蟻に訊きたし 8

2006年01月08日 00時10分38秒 | 小説
 そしてボールは、繁の指先を離れた。センターのスコアボードには、繁が今までに記録したことのない一五三キロというスピードが電光表示されていたが、繁も、そして繁の父も、そのスピードを知る由もなかった。
 その直後、パコーンという乾いた音がして、ボールがフラフラッと舞い上がった。「キャッチャーフライか?」と繁が思った次の瞬間、今度はドサッという鈍い音がした。やがてボールは、仰向けに倒れたバッターのすぐ脇のファールグラウンドに落ち、ツーバウンドしたあと、小さく転がって止まった。デッドボールであった。パコーンというその乾いた音は、バットがボールを捉えた音ではなく、バッターのヘルメットにボールが当たった音だった。一五三キロの速球が頭を直撃したにもかかわらず、バッターに怪我がなかったのは奇跡的で、まさしく不幸中の幸いであった。が、その幸いが、繁に次なる不幸を招いた。
 ボールを当てられて逆上したバッターはすぐさま立ち上がり、マウンド上の繁に向って突進してきた。そのバッターの形相にすっかり恐れをなしてしまった繁は、二、三歩後退りをしたが、すでにその繁の動きよりも素早く、相手の拳が繁の顔面に迫っていた。繁は咄嗟に避けた。そしてそれとほぼ同時に、繁の左肩に激痛が走った。バッターの怒りの鉄拳は、繁の顔面を逸れ、左肩に突き刺さっていた。突然の激痛に耐える繁に追い打ちを掛けるように、両軍の選手たちが津波のように押し寄せ、マウンド上に人の渦を作った。そして繁は、その大勢の人間が作る激しい渦の中をしばらく彷徨(さまよ)い、やがて渦の中に飲み込まれていった……。

 その後試合は、繁のあとを受けて急遽ウォーミングアップもままならず、肩ができていないままリリーフ登板したピッチャーが、連打を浴び火だるま状態となり、あっさり逆転されてしまった。その結果、繁のプロ初勝利も、永遠に幻のものとなったのだった。

(続く)