眞子さまと小室の御結婚まで余すところ6日になった。
今週号の『週刊文春』『週間新潮』は眞子さまと小室の結婚を記事にしているものの、両誌共に秋篠宮殿下の対応を批判する片方で、週刊文春は愛子天皇への期待を書き、新潮は今回の結婚に際しての今上の姿勢を褒めあげているのが気になった。
ミスった秋篠宮への批判の眼が天皇へ及ばないように、先手を打って天皇を持ち上げるよう、どこからか指示があったのか。
それとも結婚寸前に強烈な天皇家押しと秋篠宮家の没落予想記事を書くことで、眞子さまに最後の覚醒を期待しているのか。まさかね。
▼小室圭さん 散髪は「雅子さまゆかりのサロン」
▼眞子さま “超法規的”措置で秋篠宮家への不信
▼姉2人は「自由になりたい」悠仁さま帝王教育危機
▼重大証言「女性天皇は上皇のご意向だった」
▼12月に20歳 愛子さま積極的社交術と思い出の花火
▼眞子さま “超法規的”措置で秋篠宮家への不信
▼姉2人は「自由になりたい」悠仁さま帝王教育危機
▼重大証言「女性天皇は上皇のご意向だった」
▼12月に20歳 愛子さま積極的社交術と思い出の花火
😒 「雅子さまゆかりのサロンの件」
秋篠宮殿下と面会前、小室が自宅マンションへ呼んだ美容師は、南青山の「T」の女性店長。小室は渡米前から「T」を利用。
「T」の支店には以前、雅子さま、雅子さまの母と妹が通っていた。
・・・だから何?小室はセレブ志向の金食い虫だと言いたいのでしょうか。
強い御意志で”超法規的”措置を勝ち取られた眞子さま。そして、異例の結婚をお認めになった秋篠宮。だが秋篠宮家のなさりように対して国民の不信感が膨らんだ結果、例えば毎日新聞の世論調査では「祝福したい」と「祝福できない」が僅か3ポイント差で拮抗するような、国論二分の常態を招いてしまった。かって悠仁さまの将来を憂えたある人物が、秋篠宮に「天皇としての御覚悟や信念を養うような教育が必要なのではないでしょうか。」と進言した。しかし秋篠宮はこう返したという。「そういうのが良いとは限らない。」御自身の皇位継承を巡っては19年4月朝日新聞でこんな御発言が報じられた。<兄が80歳のとき私は70歳。それからではできないです。>高齢を理由に即位の自体を示唆する父と、自由を追い求める二人の姉。だが唯一人悠仁さまにだけは「天皇になる」という重責が待ち受けている。
と、秋篠宮殿下は天皇になるには不安要素がある。そして、思春期を迎えた悠仁さまには性格に難があると示唆する一方で、愛子さまと天皇家を持ち上げる。
数々の難題を抱える秋篠宮家とは対照的に、溌剌とした様子を見せているのが天皇御一家の長女・愛子さま(19)だ。
不登校、激やせという試練を乗り越えた愛子様は、今や、性格円満、誰にも好かれる社交的な性格。学業成績は優秀。天皇ご一家は家族団らんの場に職員もお招きになって一緒に楽しまれる等々。
言外に尖っている悠仁さまや秋篠宮家とは正反対だと言わんばかりのエピソードと共に書きつらねているが・・・。
思い出の花火、とは、愛子さまは東宮御所から見える神宮球場の花火を楽しみにされていて、花火が始まるとご両親と職員をお呼びになって一緒にご覧になったというエピソード。
▲重大証言「女性天皇は上皇のご意向だった」
生前退位を強行した上皇は女性天皇・女系天皇を制度化することも考えていた。
05年当時を知る関係者が明かす。「このころ、雅子さまは適応障害を発症され、第二子を臨むのが難しいという雰囲気が広がっていた。当時の天皇陛下は『皇統が断絶するのではないか』と睡眠中も呻吟するほど悩んでおられました。そこで相談役である宮内庁参与に、女性・女系天皇の是非を検討してもらった。参与たちは最終的に『容認やむなし』と結論付け、それが陛下のご意向となりました。」小泉政権下05年11月。「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大総長)が女性・女系天皇を認め、長子優先とする報告書をまとめたのだ。つまり、政府が愛子さまを次代の天皇とする方針を固めたのである。愛子さまが三歳のころのことだ。ただし、制度を変えるには皇位継承者を男系男子と定めた皇室典範の改正が必要になる。小泉首相。06年1月26日、吉川氏ら有識者会議のメンバーを公邸に招いた夕食会で「審議して頂いた内容は三月十日までに必ず法案にする。そして皇室典範を改正する!」有識者会議のメンバーは「よろしくお願いします。」と頭を下げる中、八木秀次麗澤大学教授から男子継承の重みを説かれていた安倍晋三官房長官は一人浮かない顔。06年2月7日 NHKが紀子さまの御懐妊の兆候を報じる。安倍晋三小泉首相を説得 ”もしも新宮が男子であれば、皇室典範改正はそのお子さまから皇位を奪うことになりかねないーー”小泉首相皇室典範改正をあきらめる。06年9月6日悠仁親王誕生。20日後、安倍内閣発足。皇室典範改正への機運は一気に萎んだ。だが、この結果を誰よりも悔やんでいたのが天皇だったという。「雅子さまに男子が望めない状況の中、三十九歳の紀子さまが第三子を持たれることをお認めになったのは、他ならぬ天皇陛下御自身です。しかし、そのことが女性天皇の議論を頓挫させることになるとは、露ほども考えておられなかったのです。」(前出当時を知る関係者)11年10月5日羽毛田信吾宮内庁長官、官邸に野田佳彦首相を訪ねる。「羽毛田長官から皇族方の減少について憂慮されているお話を聞き『われわれの代で何とかしなければ』と思った。宮内庁長官がわざわざ官邸に来るのは珍しかったし、羽毛田氏の口ぶりには切迫感があった。そういう空気が宮中に出ているのだろうなと」(19年野田氏、文春の取材に答えて)「女性宮家創設の次に女性・女系天皇の議論をするというイメージだった。拙速は禁物。二ついっぺんにやると、自民党は乗ってこず、バラバラになってしまうと思った。」(同前)12年2月安倍晋三『文藝春秋』に女性宮家は女系天皇を認める入り口になると明確な反対論を寄稿。旧宮家復帰案を提唱。「民主党政権に皇室典範改正は任せられない。」12年10月野田政権は論点整理を公表。女性宮家創設案と女性皇族が結婚して皇籍から離脱しても皇室の活動を続ける案の二案を併記。12年12月政権交代、安倍晋三再登板。女性宮家創設に反対の立場から民主党政権での議論を引き継がず。小泉政権下と同様再び「皇室の悲願」に立ち塞がる。
😇 皇室の悲願?どうみても天皇(現上皇)の悲願だろう。
14年、安倍政権下で天皇は依然として、議論の前進を望んでおられた。当時の安倍首相の関係者「天皇陛下に近い人物が『女性天皇の議論を進めて欲しい。安倍首相に進言して欲しい』と水面下で伝えて来たことがありました。」「将来のことを長い目で見たら、選択肢は広くしておくべきだ。何か不幸があれば、皇統が途絶える。陛下はそれを心配しておられる。」
😐 天皇(現上皇)は本当に皇統が途絶えることを心配したのだろうか。
八木秀次麗澤大学教授に学んだ安倍首相は旧宮家復帰案を提唱したが、男系男子による皇統の継承という観点からみれば、この提案は正しく、皇統が途絶えることは原則として無い。
天皇(上皇)は皇統について理解していないか、理解しても自分の子孫が男女に関わらす未来永劫皇位を継承して行って欲しい、という極めて人間的な欲にかられていたのだろう。
17年生前退位特例法成立。付帯決議に安定的な皇位継承策として女性宮家の検討などが盛り込まれた。安倍政権下では議論が行われることなかった。21年3月菅義偉政権下で安定的な皇位継承策を議論する有識者会議初会合。皇位継承には踏み込まず皇族数を確保する方策を議論。女性皇族が結婚後も皇室に残る案、旧宮家の男系男子が養子縁組して皇籍復帰する案の二案がまとめられた。21年10月4日岸田内閣発足。有識者会議の検討結果報告は衆院選後に先送りになっている。
😐 「女性天皇・女系天皇の制度化という上皇の悲願」or「上皇の悲願を錦の御旗にしている人々の願い」は、05年(それ以前?)から、悠仁殿下が誕生しても消えること無くずっと燻り続けて今日に至っている。
その燻りが秋篠宮家が国民から信頼を失った今、パッと燃え上がろうとしている?
女性天皇、女系天皇の制度化に血道を上げるのは自由だが、マスコミに秋篠宮を叩かせておけば、天皇御一家は批判から免れて安泰ということでもないだろうと思うが。