安定的な皇位継承のあり方を検討する政府の有識者会議が「整理に方向性」を呈示した事や眞子内親王の結婚問題もあり、このところ皇室のあり方について論ずる記事が立て続けにあがる。
「石ぐらい投げられてもいい」歴代天皇として初めて戦地・沖縄を訪問した上皇陛下の覚悟
2021年08月13日 10時15分 PRESIDENT Online
この記事は元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー による『日本人の愛国』(角川新書)の一部を再編集したものだそうだ。
マーティン・ファクラー「慰霊の旅は戦争の反省から生まれた『現代にふさわしい皇室の在り方』を体現するものではないか」
確かに「戦没者慰霊の旅」は悪くなかったと思う。
1975年に続き、1993年4月沖縄。1994年2月硫黄島。1995年7~8月長崎、広島、東京都慰霊堂。2005年6月サイパン。2015年4月パラオ。。
天皇による戦没者慰霊の旅が終わって、大東亜戦争も終わったのでしょう。
しかし、「慰霊」て思い切り宗教的な行動です。所謂「機能派」は右派が「天皇は宗教的存在」だと言うと目の色変えて否定するが、天皇による「慰霊」や「祈り」は歓迎する。不思議なことです。
<前略>
■「石ぐらい投げられてもいい」という覚悟だった2人が初めて沖縄県を訪問したのは、皇太子時代の1975年7月。昭和天皇の名代としてであり、皇族では第二次世界大戦後で初めてのことだ。本土を死守するうえでの捨て石にされた、という思いが戦争中から沖縄にはあった。1941年に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」を出した昭和天皇の戦争責任を問う厳しい声が飛び交っていた。明仁皇太子は当時、「石ぐらい投げられてもいい」と語っていたという。不測の事態が起こることも覚悟したうえでの訪問だったと考えられる。火炎瓶は献花台を直撃して炎上したが、幸い2人に大きなけがはなく、犯人たちは現行犯で逮捕された。明仁皇太子は事件を非難するどころか、事件が起こった夜に「沖縄の苦難の歴史を思い、これからもこの地に心を寄せ続けていく」とする談話を発表。その後もスケジュールを変更することなく、慰霊の旅を続けた。即位後に初めて行われた記者会見で、明仁天皇が言及した「現代にふさわしい皇室の在り方」とは、おそらくは初めて沖縄を訪れた1975年7月の延長に位置づけられていたのではないだろうか。
<後略>
「石ぐらい投げられても」と覚悟していたら、飛んで来たのは火炎瓶だった。
上皇(当時皇太子)はどんなに驚いたことか。当時のニュース映像は、呆然とした皇太子が落ち着いた様子の美智子妃と慌てふためく周囲の者に支えられ引きづられるようにしてその場を去る様子を伝えていました。
(その動画がネットに無いか探してみたのですが見当たりません。ネットの動画には直後の部分が抜けているのです。)
皇太子は呆然自失という感じでしたが、美智子妃は少しもたじろがず落ち着いてしかし素早く皇太子を庇っていらっしゃいました。後年、老境に入っても壇上で素早く陛下を庇う場面がありましたが、当初から皇太子より美智子さまのほうが肝は据わっていらっしゃったのでしょう。
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恐怖のあまり撃たれた夫を他所に慌てて逃げ出す大統領夫人。
火炎瓶と銃撃では恐怖の度合いが違うでしょうから、一緒にはできませんが。
昭和34年(1959)皇太子御成婚パレード中に少年が投石
この時は、美智子さまは皇太子のほうへ大きく身を投げ出されされています。皇太子に助けを求めるように。
御婚約内定の記者会見から御成婚。なよなよとしたイメージを演出されていた美智子さまですが沖縄ひめゆりの塔事件では根性が座ったところを見せるようになられて・・・。
平成の天皇が示された「天皇のありかた」は美智子皇后の誘導によるものと見る識者は一人二人ではないが、私もそう見ています。