昨年11月から宮内庁が発表する「ご活動」を拝読してきた限りでは、そんなに激務とも思われないのですが?
表題になっている署名、押印は週1日か二日。午後の4,5時間を当てれば事たれるようです。
ご執務が無い週も珍しくありません。
それに内容に責任を問われることのない書類に目を通し署名、押印することは、その内容に切実な問題意識を持っていれば別ですが、気楽な作業でしょう。
署名・押印だけでも膨大「天皇の仕事」激務な中身
憲法に規定されている「国事行為」だけじゃない
8/12(木) 14:01 東洋経済online
日本国憲法第1条に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定されている天皇。では、どんな仕事をしているのでしょうか。『教養として学んでおきたい日本の皇室』を上梓した西川恵氏が解説します。
■天皇のお務めは3つに分類される
<中略>
天皇のお務めは、憲法に規定された「国事行為」、憲法にも法律にも規定のない「公的行為」、「その他の行為」に分類されるというのが一般的な考えです。このうち国事行為は、憲法第6条、第7条、第4条2項に具体的に定められています。
憲法第6条・国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命すること・内閣の指名に基づいて、最高裁判所長官を任命すること憲法第7条・憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること・国会を召集すること ・衆議院を解散すること・国会議員の総選挙の施行を公示すること・国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること・大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること・栄典を授与すること
・批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること
・外国の大使及び公使を接受すること
・儀式を行うこと憲法第4条第2項・国事行為を臨時代行に委任すること
これらの国事行為は、天皇が国家機関として、内閣の助言と承認に基づいて行うとされています(憲法第3条)。「助言と承認」の意味は「内閣が実質的に決定すること…そして天皇はそれに形式的名目的に参加される」(1988年10月の参議院内閣委員会で当時の内閣法制局長官)と解釈されています。
では、天皇はその行為に対して拒否権をもつのでしょうか。これについて「内閣が助言と承認をしながら、天皇がその行為を行われない、つまり拒否されるということは憲法に認めていない」(1964年4月の参院内閣委員会での当時の内閣法制局次長)との解釈です。
国事行為の項目は多いですが、仔細に見ればどれも周囲が用意した書類に署名押印するか、周囲が設定した場へ出かけて用意された文章を読み上げるか、周囲が面会を設定した人物と面会するか、というものばかりです。
提出された書類に署名・押印するご執務は週一・二回、午後4、5時間。
宮殿での認証式、離任式を含めた面会は週一・二回。面会がある週のほうが少なく、面会が無い週が続くことも珍しくありません。
国会は通常国会は年に一回。その他臨時国会特別国会がありますがこれまでの例では年三回程度。これも出かけて用意された文書を読みあげるだけです。
国事行為の回数も言うほどには多くなく、内容も激務とは言い難いと、思います。
この国事行為は宮殿「菊の間」の執筆室でのデスクワークが中心となります。最高裁長官の任命、国務大臣その他の官吏の任免の認証、法律や条約の公布、大使の信任状の認証など、毎週、火曜日と金曜日の閣議で決定された書類は、毎回、天皇のお手元に届けられます。天皇はそれらを丁寧にご覧になってご署名やご押印をされます。今上天皇の場合、その数は即位された2019年5月から年末の8カ月間で約700件、翌2020年の1年間は995件になりました。
なるほど、それでご執務が週一、二回なのですね。
書類の数だけ見れば大変そうですが、1000件/12≒83 83件/3≒28(ご執務の無い週が毎月一・二回必ずあるので)
多く見積もっても週30件程度の書類、週一日か二日、ですから、一日当たりは10~20件?午後4、5時間で10~20件の書類に目を通すのなら激務とは言えないのではないでしょうか。
法律や政令、条例、批准書、外交文書は長文でしょうが、任命などはごく短文です。
それに内容に責任が無い(責任を持ってはいけない)のですから、読み飛ばしも可でしょう。
●「公的行為」と「その他の行為」 は憲法には規定されていない。●「公的行為」は「象徴としての地位に基づく行為」と解釈され、「象徴としての地位からにじみ出る行為」とも表現されている。●「その他の行為」は私的行為ともされている。
新年祝賀、全国戦没者追悼式などは「公的行為」
まず、公的行為です。皇居で行われる公的行為には「新年祝賀」「新年一般参賀」「天皇誕生日祝賀」などや、文化勲章や文化功労者、日本芸術院会員への「謁見」や「昼食会」、任地に赴任する大使夫妻などをお招きになって催す「お茶会」などがあります。「ご会釈(えしゃく)」というお務めは、皇居内の清掃奉仕のため全国各地から集まる人々とお会いになることです。皇居以外では、全国戦没者追悼式や日本学士院授賞式、日本芸術院授賞式などへのお出まし、毎年春と秋の2回、赤坂御苑で催される園遊会。さらに全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会などにご出席のため地方に行かれる行幸啓があります。行幸啓とは天皇・皇后がご一緒に外出されること、天皇だけのときは行幸、皇后だけのときは行啓といいます。また被災地のご訪問や、地方の福祉・文化・産業施設などもお訪ねになって、関係者を慰められ、また励まされるのも公的行為に含まれます。外国ご訪問もそうです。こうして見てもわかるように、公的行為はさまざまな分野におよびます。
政府は二言目には「公務が~公務が~」と言うが、天皇の公務も枝葉末梢をカットして整える必要がありそうです。
盆栽も枝葉や徒長枝を切り落とすからこそ天下の名品となります。
さしづめ平成時代に数が増えた公務は徒長枝かもしれませんわね。
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宮中の盆栽 五葉
平成になって明仁天皇の公的行為は拡大しました。例えば昭和天皇と明仁天皇がそれぞれ82歳だったときを比べると、行幸啓では昭和天皇は42件、明仁天皇は128件です。お茶会では昭和天皇4件、明仁天皇57件です。明仁天皇がいかに活動的、能動的だったかわかります。
平成になり雅子さまの御体調もあって、上皇上皇后が開拓した公務は激減しましたが、特に何の支障もありませんし、惜しむ声も聞かれません。
気品ある盆栽に伸び出した徒長枝だったのでしょう。
「その他の行為」は私的な行為ともされていますが、これは2つに分けられています。「私的なものでも公的性格や公的色彩を有するもの」と「純粋に私的なもの」です。例えば同じ音楽会へのお出ましでも、文化芸術を奨励する意味合いがあったり、チャリティーといった公的な趣旨があったりするものの場合は前者になります。純粋に個人的なご関心でのご出席は後者になります。大相撲の観戦や展覧会のご鑑賞は後者に入ります。
とは、言うものの<公的性格や公的色彩を有するもの>への意味づけなどいくらでも付けられますものね。
その気になれば私的な鑑賞を「公的な鑑賞」にすることなど簡単でしょう。
私は、「天皇、皇族は私的な活動をするな」と言うつもりはありません。
私的な活動をこそこそと公務と言い換えて称える欺瞞が嫌なのです。
「純粋に私的なもの」の中心は宮中祭祀(祭儀)です。宮中祭祀は皇居内の宮中三殿を使って行われます。
<中略>
天皇は祭祀を大切に受け継がれ、国家と国民の安寧と繁栄を祈られます。年間約30件の祭祀が行われています。収穫豊穣を祈願する「祈年祭」(2月17日)、春分の日に行われるご先祖祭の「春季皇霊祭」(春分の日)、賢所に新穀を供える神恩感謝の「神嘗祭(かんなめさい)」(10月17日)などがあります。宮中祭祀のなかで最も重要なものが11月に行われる「新嘗祭(にいなめさい)」(11月23日)です。新穀を皇祖はじめ神々にお供えし、神恩を感謝された後、天皇もお召し上がりになる祭りです。天皇自ら栽培された新穀もお供えします。宮中祭祀は政教分離の観点から、天皇家のプライベートなお金である内廷費から支出されています。新嘗祭ももちろんそうです。しかし天皇が即位した年に行われる新嘗祭は一世一度の祭祀として「大嘗祭(だいじょうさい)」と称され、これだけは私的なものながら公的性格も有するとして宮廷費で賄われています。
祭祀に掛かる費用を内廷費から出す、宮廷費から出すといっても原資はどちらも税金ですから、解釈上の問題だけです。
政教分離という観点から、宮中祭祀を「私的なもの」と位置づけるしかないのでしょうが、天皇を天皇たらしめているのは祭祀です。祭祀抜きには天皇は存在しない。つまり、天皇は宗教的存在だという理解なくては、天皇の存在意義も何もあったものではありません。
象徴天皇のあるべき姿に関する2つの論
象徴天皇のあるべき姿について、大きく存在論と機能論が対立しています。●存在論とは天皇は存在しているだけで十分で、国家と国民のために祈り、祭祀を執り行っていただければいいとする意見です。これは保守派、右派を中心に根強くあります。●機能論の立場は、天皇の行動に焦点を当てます。「象徴」として国民の信頼を得るためには、国民の苦しみ、悲しみ、喜びに共感し、寄り添っていることを行動で示す必要があるというのです。
上皇上皇后は存在しているだけの天皇では満足できなかった。
「天皇は祭祀だけしていればよい。と言うのか。」と声を荒げられた話が伝わっています。
で、彼方此方出歩いて国民に膝を折ってすり寄るパフォーマンスを繰り返した結果何か良いものが生まれましたか?
公的行為には明確な法律上の定義がなく、その時々の天皇の裁量や宮内庁の解釈に委ねられています。ただ先に述べたように昭和天皇と比べ、明仁天皇の公的行為は多岐にわたりました。そこには国民統合の象徴であるためには能動的でなければならない、という明仁天皇ご自身の明確な考えがあったことは間違いないでしょう。
明仁天皇は存在しているだけでは、国民から見放されてしまうという強迫観念に取り憑かれていたのかもね。幼少期の「敵に殺されるかも知れない。」という恐怖体験や、各国の王族が国民から否定されて地位を失っていった情報には王族では無い一般国民では感じることができない恐怖を感じていらっしゃったのでしょうか。
沖縄では爆弾も投げつけられているし。
*訂正 ×爆弾 〇火焔瓶
「祈り」と「公的行為」は深く結びついている
「祈り」って極めて宗教的なものでしょう?政教分離で宗教を排除した「公的行為」と宗教を両立させるならともかく、結びつけて矛盾は感じないのですかね?
一応私は「存在」に意義を見出す右派ですが、どこかの雑駁な政治家のように「祭祀だけしていれば良い」とは思っておりません。
存在論と機能論が対立するなか、明仁天皇が象徴天皇とはどうあるべきかをご自身の言葉で明確に語ったのが2016年8月のビデオメッセージでした。ここで明仁天皇は天皇の務めとして、「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」と「同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」の2つを挙げました。前者は「祈り」であり、後者は人々と交わり、声を聴き、人々の願いと思いを共有していくこと、つまり「公的行為」です。祈りと公的行為はどちらを優先するかの問題でなく、どちらも大切なのです。右派の言うように祈りだけをしていればこと足りるわけでなく、また公的行為だけで満足すべきものでもないのです。この2つは互いに深く結びついているとの認識が明仁天皇には明瞭にあります。
いやいや、「人々と交わり、声を聴き、人々の願いと思いを共有していくこと」を「公的行為」と位置づけるからおかしくなるのではないでしょうか。
明仁天皇の止むにやまれぬ私心から出た「私的行為」としたほうが、大御心に素直に共感できます。
すると天皇の「私的行為」に多額な税金と人を投入するのは如何なものか、という考えも出て来る。
現に昭和天皇の行幸は少ない。お出ましを勧めるひとに、
「出かければ皆に気を使わせることになるから。」と言われたそうだ。
昭和天皇のそのような見識を素晴らしいと私は思います。
強迫観念に取り憑かれたような止むにやまれぬ思いから出かけないと安心できない平成の天皇皇后の意に沿うために「公的行為」としたのじゃないですか?
平成の天皇皇后自身が「公的行為」とすることを望んだような気もします。
平成の天皇の「このまま何かしなければ、天皇は忘れられてしまう。」という御言葉も伝わっています。
公的行為も国民の支持がなければなりません。明仁天皇は手探りしつつ、人々の反応を見ながら、公的行為の地平を広げられてきたと思われます。皇太子時代、ご両親が実践されていた公的行為を間近に見られてきた今上天皇も、国民統合の象徴であるために公的行為がいかに大切か、十分にご存じでしょう。
「人々の反応を見ながら」って、それはつまり、「国民の顔色を伺いながら、」とは同義ではありませんでしょうか。
困ったものですね。日本国の象徴として日本人の高い精神性と道徳性を体現すべきかたが国民の顔色を伺って行動を決めるとは・・・情けない。
国民の反応を見ながら行動を決めるのであれば、国民の殆どが「不可」のジャッジを下している眞子内親王と小室の婚約内定を白紙にしてください。
一体誰の顔色を伺っていらっしゃるのでしょうか?