晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

兄の死・・・母の無念を晴らす。

2014-09-25 05:20:18 | 暮らし
 親父より5年も短い命だった。しかも突然死、周りのものは大変だっただろう。70代で大動脈瘤の手術をしたが、今回命を落すことになった動脈瘤は新たにできたものだと思う。年齢が75歳を過ぎると体力的なものとあわせて危険を伴う手術は医者自身が嫌うのではないだろうか。10月1日が予約日だったらしいのだが、間に合わなかった。これが寿命というものかもしれない。

 3年前に父の23回忌と母の17回忌をあわせて執り行った。この辺は長男らしく時期が来ればきちっと法事をやってきたのだが、私は気に入らなかった。なぜか?それは案内客の選別にあった。近くに住む弟は感じるのか感じないのか聞いたこともないが、自分の所の孫は案内するが外孫には知らん顔なのである。自分たちの家族を中心に要は法事にかまけた家族全員の顔合わせみたいにしか見えないのだ。他の兄弟はいつも夫婦だけ、その子供たちは留守番役にしか過ぎない。これをずっと続けてきたのだ。おそらくはこの風習は変わることがないだろう。案内を出すのは主催者だ。事前にこういうメンバーでとか言う相談でもあれば、意見できるのだがそんな相談はあったためしがない。日取りも自分たちの都合と坊さんの都合で決められる。そんな兄弟ってあるのか!昭和一桁生まれでこんな自己中心的なやつは見たことがない。兄弟だがそう思う。

 前回の父母の法事が最後としたいといっていたが、実際そうなってしまった。今度は自分が主役となってしまった。私は母から預かった日記帳の処理に悩んでいた。どうしたらいいのか。当初は兄が死んだら棺おけに入れてそれで全巻の終わりとしようと思っていた。それが一番だと思っていたが、それまで待てなかった。両親の法事のときに母の願いだといって兄に直接手渡し仏壇に飾るよう依頼したのだ。母の恨みつらみ、悩み苦しみ、自殺まで考えざるを得ない生き地獄などなど、これを読んだ当人は相当ショックを受けるはずだ。受けなければ人間ではない。死にたい、食事を取るのを控えた、或は嫁から幼稚園生に教えるようなイタダキマス、ご馳走様を言えといわれたとか。それを見過ごした兄がにくいのだ。母は地域ではちょとした存在だった。地方の第一高女を出て、婦人会の会長を長年勤め、町内における個人相談役を果たしていた。尊敬されることはあってもけっした悪口を言われたり、馬鹿にされるような人ではなかった。その人に対してなんて傲慢な態度か。母の悔しさが頭を離れることはない。それも体が不自由になってから特にひどくなったというから赦せない。片方は死んだ。次はお前の番か?

 私の感覚は異常かもしれない。遠く離れていたために母の苦しみを知りえなかった。どうやって償えばいいのか、常に頭の中にあった。母に大事にされて育った子供の恩返しがしたいが、間に合わなかった。ただ、母が65歳のときに長命を祈って亀の皮でできたぞうりとハンドバッグをプレゼントした。お陰で?91歳まで生き永らえたが、決して幸せな人生ではなかった。

 もう少し続けよう。次回に。


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