晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

兄の死・・・明治の残影はない。

2014-09-24 04:33:16 | 暮らし
 明治生まれの両親は、戦後も家父長制の名残か長男を大事に育ててきた。他の兄弟とは一味違う育て方をしていたようだ。甘やかしもしただろう。頼りにもしただろう。それがお家安泰と考えたのは当然のことだ。

 同じ屋根の下に住み、同じものを食べ、常に顔を引き合わせていればお互いの感情の行き違いも出て当然であろう。片や90歳代そしてもう一方は60代夫婦この4人の生活ぶりを思うと老老介護なんていう生易しいものではなかっただろう。こういう形で過去数十年を過ごしてきたのだ。

 それでも子供たちや孫たちが時々顔を見せれば賑やかになり気分も和んだ時もあるだろう。子供が多いということは、育てるときは大変でも将来は賑やかで楽しいものだ。我が家は三男二女、兄貴は一男二女だが、わが次女と母とは馬が合ってなんでも相談できる間のようだった。次女の嫁いだ相手もよかった。法務局に勤務していたが、先輩司法書士が亡くなった機会にその事務所を居抜きで引き取り独立した。客はある、立地はいい、時代背景もよかった。別荘ブームで仕事は処理できないほどあった。個人も企業も若くて仕事の速い義兄を頼っていた。

 金は湯水のように入ってきた。使い切れない、その当時流行ったキーセンパーティやら台湾ゴルフツアーやら仕事仲間とやっていたようだった。競輪競馬も好きで上着の袖が擦り切れるほど馬券、車券を買っていた。車も当時は相当斬新だったヒルマンミンクスに乗っていた。飲酒運転で事故も繰り返していた。それでも死亡することなく生き延びていた。だが、体は悲鳴を上げていたに違いない。連日の午前様である。ゴルフも相当のラウンドをしたはずだ。肝臓を壊して48歳の若さで死んでいった。最後は何か感じる予感のようなものがあったのだろう。母から頼まれて事務所を訪ねたのだが、一言も会話しなかった。要は酒をのんでいることがばれないように気遣っていたようだった。つまり既にアル中状態であり、一升瓶を机の脇に置いて仕事をしていたのだ。それからまもなくして召されていった。

 そんな義兄夫婦だったので、母に相当の貢もしただろうし預けていたお金も半端ではなかった。その姉もだんなのあとを追うようにして49歳で亡くなった。姉が生きてる間は意見もし、影響力もあったので静かにしていた兄嫁が俄然強い態度を見せるようになってきた。兄も義兄の相続問題に首を突っ込みなにやら怪しげなこともあった。トラブルもあった。金には汚い兄である。

 そういった経過の中、親子の間で大きな揉め事が起きてしまった。やはりお金にまつわる問題だった。今の家は兄貴が建てた家だが、そもそもその土地を手に入れたときに本家から購入したのだが、親父への贈与分として1/3ほどを無償でもらったというのである。ここにポイントがあった。

 道路拡張が行われた。通りに面して長方形の土地であるため相当の面積が買い上げられた。母から聞いたところによれば総額2、000万円に上るという。そのとき親父は考えた。その二千万円の1/3は俺のものだと。そして兄とのいさかいが始まったのだと聞いている。親父はこれまで子供たちに何もしてやれなかったので、この際自分の取り分をもらい、子供たちに平等に分け与えたかったのだろうと推測する。いわば相続のトラブルみたいなものであろう。

 親に守銭奴といわれるほどお金に拘りがあり、汚い兄貴である。渡すはずもない。親父は家に居ずらくなってしまった。60代後半のことだっただろうか。我が家に母からしばらく親父を預かって欲しいといってきた。勿論快く引き受けたのだが、その当時は理由がっはっきりしなく、自分も忙しくしていたので女房殿に任せきりで過ごしてしまった。そのときもう少し関心を示して事情を聞いていればよかったのだが、自分も企業の中で生きるのに精一杯だったのだろうか。それとも遊びに忙しかったのだろうか。双方ともありそうだ。  次回へ。


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