晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

兄の死。

2014-09-23 05:03:26 | 暮らし
 この18日に兄が突然この世を去っていった。大動脈瘤破裂による即死状態だった。あと一ヶ月で86歳となる一ヶ月前の出来事だった。畳の上ではなく、コンクリートのたたきの上だった。少しも悲しくない、最後の予科連出身だが、本当のどんぱちはやってないと思う。どこで任務についていたか聞いたことがないが、家族が合流できたのは家族6人が北朝鮮から引き上げてきた時より6ヶ月遅かったように記憶している。

 虫の知らせかどうか分からないが、私のブログ写真を兄の出征時の写真に今年切り替えたばかりだった。既に両親と同じ墓に眠っているが、果たして仲良く、むつまじく過ごしているだろうか。快く迎えてくれているだろうか。手足もなく、口もないもの同士がどうやって喧嘩するのだろうか。まさか仏になってからまで喧嘩するはずはないだろう。安らかに眠ってくれればそれでよい。

 本当に仲のよい家族愛に満ちた家族だった。父は朝鮮府庁に勤務していたが、引き上げ後は仕事についていない。引き上げ時55歳だったのでおそらくは平均寿命に近く、既にわが人生は終わったと思っていた節があるが、府庁にいたものが片田舎の村役場などで働きたくなかったのだろう。役場からの勤務要請を簡単に断ってしまっている。以後40年近くを素浪人で生きていた。

 勿論、家族は収入のない大黒柱に頼ることはできない。母は得意の針仕事でせっせと稼いでいた。当時は嫁入り前にお茶はともかくとして、お花と和裁は必須の素養だった。その二つを家で教えて家族を養ってきた。兄は帰国後町の製造メーカーに就職少しは家に貢献していたのだろうが、お金にこだわる人間で、すべてを母に任せていたようには思えない。以来ずっと月々いくらと決めて手渡していたように思う。貧乏だったが、楽しかった。一日一日が夢のように過ぎていった。

 しかし、夫婦喧嘩もしばしばやっていた。そのときだけは子供心にもいやだった。聞きたくなかった。父は元々その地区の大地主の次男坊で若かりし頃は、若殿様のような時代をすごしている。勿論高等学校を卒業している。(ここははっきりしないが、地方大学の前身のような存在らしい)だから、雰囲気には出さないが自意識は高く、品性を重んじ、風流をよしとしていたようだ。金さえあれば晩酌をし風呂で詩吟なり、謡などを一ひねりしたいところだっただろう。そんな時代ではなかった。気の毒な世代であろう。

 兄が結婚してしばらくは平穏無事のようだった。ようだったというのは私自身が大学へ行き始め家を出ているので当時のことは分からなくなっている。家族みんなで頑張ったのだろう。嫁は教員をしていて少しは家の負担もしていたのだろうが、どの程度やってくれていたか分からない。ただ二所帯別々の金銭処理をしていたはずだ。

 自分たちの子供三人は、じいちゃん、ばあちゃんによって育てられた。それこそおしめの洗濯から、昼ね、散歩、送り迎え、時には勉強の手伝いもしたのだろう。年老いてから、これらはの仕事は決して楽ではなかったはずだ。みんなようがんばったと思う。三人とも大学を出て、結婚していった。しかし、孫たちの感謝の気持は伝わってこない。ましてや、兄夫婦も感謝などしていない。当然のこと養ってやっているのだから当然ということか。

 兄夫婦も定年を迎えるときがきた。自分の子供たちも独立していった。それからが、母と兄夫婦の戦いの始まりだったようだ。母と書いたのは父は物事に関与しない、鳥たちと会話できる仙人のような人だった。この辺のことは今回書ききれない。父の看病に際して眼にしてびっくりしたことは、ベットに手を縛りつけていたことだった。導尿の管をはずしてしまうからということだが、おしめだってあるだろう。母が軽い脳梗塞を起こして動けなくなってからの嫁の仕打ち、絶対に赦せない。もっと早く気がついていたらこんな惨めな思いをさせなくてすんだのだが、母が死を意識し始めて渡された日記帳によって知ることになった。

 いま、兄の葬儀で見た兄嫁の姿は母の姿と重なるものがあった。杖をつき腰は曲がり余命はいかばかりかと思う姿だった。そのようなときに母はお前からいじめられたのだぞと一言二言いいたかったが、言葉を飲み込んだ。

 人は兄のことをやさしかったという。確かにそのような性格は持ち合わせていたようだが、優しいということは、その反面無責任であり、人を騙しているからだろう。自分にやましいことがなければ、時には親族に対してくらい強いことを言ってもいいはずだ。私などはきついことばかりを言ってきらられているが、かまわない。言葉を飲み込むことは健康によくない。

 続きは次回にしよう。妻が闘病中なので通夜にはいけなかったが、姉の心配は納棺のときに兄の足でもへし折るのではないかと気遣ったようだが、そんな馬鹿ではない。死人に鞭打つようなことはしたくないが、遺骨からは喉仏は出てこなかった。父も母も立派な喉仏を残して逝った。
 
 今日はお彼岸の中日、だが父母と一緒に入っている墓には行きたくない。この墓だって母が立てたものだった。その資金の大元は、兄にはない引揚者への残してきた資産保障も含めた一時金が使われているのだ。お前はそれを知っているのか、やがて兄嫁も入るだろう。いやなことだ。私に故郷がなくなったような気がしてきた。南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏













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