ご無沙汰すぎるほどのごぶさたでございました。
夏の間は、わたしはヒーヒー言いながら自転車をこいで、訪問介護のお仕事をこなしておりました。
夜はゼッタイ発泡酒とお酒をのんで疲れをいやしておりました。
奈良の家のまわりも、いまは虫の音がにぎやかなくらいによく聞こえ、田んぼの稲刈りももうじきです。
みなさんはおかわりありませんか。
ちょうど1ヶ月前、面白い息子の面白いともだちが、子猫をひろって、我が家に一人でいた息子に手渡し、帰ってしまいました。
息子からめずらしく(というかたぶんはじめて)仕事中に携帯に電話がはいったので、なにかとびっくりして聞くと、うちに猫がいるという。
手のひらサイズだというので、とりあえず死なせてはいけないと、赤ちゃん猫用の練り餌みたいなフードをいくつか購入してあわてて帰宅
すると後から帰った娘が、「この色の子猫は、今朝わたしの夢にでてきた」というので
なにかの縁でしょうねと3人で納得して、我が家で飼う事にしました。
名前は3にんで考えに考え?夢にでてきたものですから、夢ぅちゃん(むぅちゃん)とよぶことにしました。
むぅちゃんは、生後数週間で、まだ1ヶ月もたっていないということでしたが(獣医さんの推測)、ノミもしらみも、お腹の寄生虫もいました。
さらに、お外でなにを食べてすごしてきたのか、ひどい便秘でしたし、
我が家の台所やゴミ箱をさがしまわり、なんでも口に入りそうなもの(床に落ちた乾麺や、食べ物のにおいのするビニール袋や、こどもの食べこぼしたもの)を必死で食べようとしていました。
今までわたしは、野良も自由でいいじゃないか、と考えていましたが、野良猫たちはその日の食料を手にいれるためにどれほどの過酷な日々を送っているのだろうと、むぅちゃんをみて想像しました。
うちでフードをがつがつ食べたあとは、数日下痢をしてしまいました。
外国では、ペットショップでは人工的に繁殖させた動物ではなく、誰かが手放して飼えなくなった動物だけを販売するところがあるそうですね。
殺処分がまったく行われない国や、「みんなの宝物」といって野良猫や野良犬を駆除しない国もあるのだそうですね。
それをきくと、日本もそのようになればいいのになと思います。
いまよりもっと多くの人が、伴侶動物を飼うときにペットショップでなく、保護施設からや里親募集のところから譲ってもらうようになれば、数千、数万の殺される犬猫はいなくなるといいます。
むぅちゃんは1ヶ月たって、毎日元気に家のなかを駆けずり回っています。ピピにも興味をもって、捕ろうとするようになってしまいましたーー;
これはゆゆしきことです。注意がヒツヨーです。
当のピピは、のんきに近寄って、ひげをかじろうとしますが。
おなかがすくと両手両足のつめをばっちり全開にして、ふくらはぎから駆け上ってくるので、わたしも、こどもたちも、ひっかき傷だらけです。
夏の間は、わたしはヒーヒー言いながら自転車をこいで、訪問介護のお仕事をこなしておりました。
夜はゼッタイ発泡酒とお酒をのんで疲れをいやしておりました。
奈良の家のまわりも、いまは虫の音がにぎやかなくらいによく聞こえ、田んぼの稲刈りももうじきです。
みなさんはおかわりありませんか。
ちょうど1ヶ月前、面白い息子の面白いともだちが、子猫をひろって、我が家に一人でいた息子に手渡し、帰ってしまいました。
息子からめずらしく(というかたぶんはじめて)仕事中に携帯に電話がはいったので、なにかとびっくりして聞くと、うちに猫がいるという。
手のひらサイズだというので、とりあえず死なせてはいけないと、赤ちゃん猫用の練り餌みたいなフードをいくつか購入してあわてて帰宅
すると後から帰った娘が、「この色の子猫は、今朝わたしの夢にでてきた」というので
なにかの縁でしょうねと3人で納得して、我が家で飼う事にしました。
名前は3にんで考えに考え?夢にでてきたものですから、夢ぅちゃん(むぅちゃん)とよぶことにしました。
むぅちゃんは、生後数週間で、まだ1ヶ月もたっていないということでしたが(獣医さんの推測)、ノミもしらみも、お腹の寄生虫もいました。
さらに、お外でなにを食べてすごしてきたのか、ひどい便秘でしたし、
我が家の台所やゴミ箱をさがしまわり、なんでも口に入りそうなもの(床に落ちた乾麺や、食べ物のにおいのするビニール袋や、こどもの食べこぼしたもの)を必死で食べようとしていました。
今までわたしは、野良も自由でいいじゃないか、と考えていましたが、野良猫たちはその日の食料を手にいれるためにどれほどの過酷な日々を送っているのだろうと、むぅちゃんをみて想像しました。
うちでフードをがつがつ食べたあとは、数日下痢をしてしまいました。
外国では、ペットショップでは人工的に繁殖させた動物ではなく、誰かが手放して飼えなくなった動物だけを販売するところがあるそうですね。
殺処分がまったく行われない国や、「みんなの宝物」といって野良猫や野良犬を駆除しない国もあるのだそうですね。
それをきくと、日本もそのようになればいいのになと思います。
いまよりもっと多くの人が、伴侶動物を飼うときにペットショップでなく、保護施設からや里親募集のところから譲ってもらうようになれば、数千、数万の殺される犬猫はいなくなるといいます。
むぅちゃんは1ヶ月たって、毎日元気に家のなかを駆けずり回っています。ピピにも興味をもって、捕ろうとするようになってしまいましたーー;
これはゆゆしきことです。注意がヒツヨーです。
当のピピは、のんきに近寄って、ひげをかじろうとしますが。
おなかがすくと両手両足のつめをばっちり全開にして、ふくらはぎから駆け上ってくるので、わたしも、こどもたちも、ひっかき傷だらけです。
数ヶ月ぶりのごぶさたでございました。
みなさまお元気でしょうか。ありがとう
息子(中3じゅけんせい)がささっとかきました。絵だけがとりえ、というわけでもある
足がめちゃくちゃ速いのもとりえだね!
娘は通信制高校ライフを謳歌してます。
家にいるときはアクセサリーつくったりしてる。
わたしは相変わらず訪問介護従事者で、なんとかほそぼそ食いつないでおります。
ぴぴは今日も元気でおもろい。
「かわいらしいかぴーちゃん!たのしいかぴーちゃん!ウッフッフッフ」
みなさまお元気でしょうか。ありがとう
息子(中3じゅけんせい)がささっとかきました。絵だけがとりえ、というわけでもある
足がめちゃくちゃ速いのもとりえだね!
娘は通信制高校ライフを謳歌してます。
家にいるときはアクセサリーつくったりしてる。
わたしは相変わらず訪問介護従事者で、なんとかほそぼそ食いつないでおります。
ぴぴは今日も元気でおもろい。
「かわいらしいかぴーちゃん!たのしいかぴーちゃん!ウッフッフッフ」
前回よりだいぶあいてしまいましたが
皆様お元気でしょうか。
また今年もあたらしい1年が始まりましたね。
安倍政権の暴走はどこまで続くか、ここまで酷いとは、という声はあちこちで耳にしますが、
この政権に象徴される暴力的な側面こそ、日本という国の持つ体質の現われであって、
なにも劣化したわけではなく、今までのめっきが剥がれて本性をむきだしになりふり構わずの状態になっているのではないかと感じています。
年末からのウロコ玉ファミリー母子は、
大晦日は大阪市西成区釜ヶ崎三角公園、越冬闘争のステージで歌わせていただきました~^^
娘も息子もギターが上達しました。ベースとカホンをやってくれる友人らと一緒に、ビートルズをやりました。
お正月は、子ども達は二人とも風邪で発熱、しょんぼりしてました。
あ、でもベイマックスを3人で観にいった。久方ぶりの映画。これは意外と、とてもよかった。泣いちゃいました汗
北区扇町公園での越冬も無事に終わりました。野宿のおっちゃんたちは炊事の調理にもレクレーションにも参加してくれました。
平常運転に戻ってわたしは相変わらずぼちぼちと訪問介護員のお仕事
娘は高校
息子はちゅうがくせーライフ
を送っております。
いろいろ酷い話がなだれのようにやってきます。
圧政の被害者ともいえますが
戦前から戦後、現在において我々もまったく無辜ではなく、知らず知らずに加害を行っていたり、差別や排除を行う側だったりするわけです。
たとえば元「従軍慰安婦」の否定
たとえば歴史修正主義
たとえば沖縄の基地
たとえば外国人への差別
たとえば外国人の強制送還
たとえば生活保護受給者バッシング
たとえば自己責任論
たとえばたとえば。挙げればきりがない・・・・
自虐という言葉は、振り返ることを拒否するのに都合のいい言葉だね。
皆様お元気でしょうか。
また今年もあたらしい1年が始まりましたね。
安倍政権の暴走はどこまで続くか、ここまで酷いとは、という声はあちこちで耳にしますが、
この政権に象徴される暴力的な側面こそ、日本という国の持つ体質の現われであって、
なにも劣化したわけではなく、今までのめっきが剥がれて本性をむきだしになりふり構わずの状態になっているのではないかと感じています。
年末からのウロコ玉ファミリー母子は、
大晦日は大阪市西成区釜ヶ崎三角公園、越冬闘争のステージで歌わせていただきました~^^
娘も息子もギターが上達しました。ベースとカホンをやってくれる友人らと一緒に、ビートルズをやりました。
お正月は、子ども達は二人とも風邪で発熱、しょんぼりしてました。
あ、でもベイマックスを3人で観にいった。久方ぶりの映画。これは意外と、とてもよかった。泣いちゃいました汗
北区扇町公園での越冬も無事に終わりました。野宿のおっちゃんたちは炊事の調理にもレクレーションにも参加してくれました。
平常運転に戻ってわたしは相変わらずぼちぼちと訪問介護員のお仕事
娘は高校
息子はちゅうがくせーライフ
を送っております。
いろいろ酷い話がなだれのようにやってきます。
圧政の被害者ともいえますが
戦前から戦後、現在において我々もまったく無辜ではなく、知らず知らずに加害を行っていたり、差別や排除を行う側だったりするわけです。
たとえば元「従軍慰安婦」の否定
たとえば歴史修正主義
たとえば沖縄の基地
たとえば外国人への差別
たとえば外国人の強制送還
たとえば生活保護受給者バッシング
たとえば自己責任論
たとえばたとえば。挙げればきりがない・・・・
自虐という言葉は、振り返ることを拒否するのに都合のいい言葉だね。
大河原さん、10月に亡くなっていた。
神奈川にいたときは時折手紙をやりとりしていたけれど、奈良にきてからはお互い疎遠になっていた。もっとしつこく連絡すればよかった。
大河原孝一さんの過去の記事
大河原さんは、教育勅語、軍人勅諭を徹底的に叩き込まれ、競うように序列の上位に立とうとした。
命を投げ出して国難に当たるのが栄誉であると、侵略へと突き進むひとつの歯車になっていった。
「誰からもこの戦争がなぜ、何のために起きているの聞くこともなければ考えることもしなかった」
山ひとつ見当たらない広大な平野を行軍し、雨に濡れた古兵の軍服を乾かす為に中国人の家の箪笥、家の扉、大切な農具を奪って燃やすのを見てショックを受けたと言う。
「これが中国で続けていく仕事なのか」と考えたけれど、命令されるがままにありとあらゆるものの強奪に加担していった。
敗戦後、ソビエトを経て撫順戦犯管理所へ。
当時の中国の日本人戦犯への政策は
「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり殴ったりしてはならない。一人の死亡者、一人の逃亡者も出してはいけない」
「罵ったり手をあげてはいけない。医療の完全を期し、一人も死なせてはならない」
というものだった。
管理所で働く人の多くは日本人に家族を殺されていたので、中央には何度も転勤の要求や、極刑をという意見が出されたものの
「15年先、20年先に結果は出る」とそのつど要求は却下されたという。周恩来の政策。
極刑も覚悟していたけれど寛大政策によって全員起訴免除。
やっと懐かしい祖国の地を踏めば、今度は「中共帰り」という差別が待っていた。
「洗脳組だ」「アカだ」と誹謗され、公安にもつきまとわれ、歴史修正主義には中傷され続けた。それでも加害証言を死ぬまで続けてきた大河原さん。
奈良まで持ってきてた。-2007年の「自然と人間」から抜粋する。
『特集 戦禍の記憶 元兵士が加害を語るまで』
92年12月8日、札幌で開かれた「戦禍を語り継ぐ集い」で大河原さんは自らの体験を話した。大勢の前で証言するのは初めてのことだった。
この話を聞いた小学校の先生が、子どもたちにも戦争体験を教えてほしいと大河原さんに依頼した。
子どもたちにどう言えばいいのか自信はなかったが、自分の話でよければと引き受けた。
大河原さんの話を子どもたちはしーんと聞いていたという。
話は、1944年秋の討伐作戦、宿営していた農家の近くをうろついていた農民を捕まえる場面へと進んでいく。
年の頃は40歳前後の非常に身体のがっちりした、手の節もごつごつした丈夫そうな農民でした。
小隊長はわたしに「大河原、お前がこいつを殺せ」と命令しました。
私は、それまで軍隊に入ってから人を殺したことは一回もなかったものですから、非常に緊張しました。
しかし、命令だから、軍隊では聞かないわけにはいかないんです。それで、どうやって処理しようかと考えて、まず、私の部隊の初年兵に命じて、銃に剣をつけさせてですね、
「突く用意をしなさい」と言って、一方、別の初年兵には連れてきた男を、庭の一番隅にあった井戸の前に立たせました。
そして、初年兵に私は「お前、あの男を突け」と命じたんです。
二人の初年兵が代わる代わる突いたんだけど、恐ろしくて、とても突けないんです。
人をあやめる、人を殺すということは全くやったことのないことで、とても恐ろしくなるんですね。
それで、大きな声で「突け」と怒鳴って命令する。
そうすると初年兵は何とか命令に従おうと思って突く。突くけどね、やっぱりそばまで行ったら恐ろしくて突けないんだなあ。
だから銃剣の先がここにぶつかるんです。そうすると農民が着てる服、秋だからまだシャツです。
そのシャツにだんだんだんだん血が染みてくるんです。何回も突くから傷つくでしょ。
それを見ていた私は「これはいかん」と思って「その銃剣をオレによこせ」と、そして銃剣をもらって
「お前たちいいか、日頃言っているとおりにやれば突けるんだ。見てろ」と言って、その農民を初年兵に教えているように「えいっ」と動作して突きました。
初めてのことです。もちろん恐ろしかったです。
しかしわたしは逃げることも隠れることもできない。自分が教育した初年兵もいる。分隊長も見てる。
そこでは腹を決めて私はびっと刺した。
そうしたらねえ、体がね、あの重い体がぐうっと寄ってくるんです。重いんです。
そして、その農民は口から血をだあっと出しました。心臓を突いてますからね。口から血が出ました。
そして、これはまずいと思って、すぐ、その向こうにある井戸まで押していって突き落としたんです。
そして、私は分隊長に「大河原はあの男を処理しました」と報告しました。
報告が終わって、私は自分の気持ちがなかなか落ち着きませんでした。
しかし夕方になって皆といっしょにご飯を食べるとき、ご飯も食べられたし、夜眠ることもできたことを覚えています。
長いインタビューの中でのこと「何度も話をしている」と言いながらも、中国人殺害に話が及ぶと、大河原さんの目に涙が浮かぶ。
自らを問うことのどれほど辛く苦しかったことかが伝わってくる。
小学校での1時間ほどの話を終えたあとに、一人の子どもから「戦争をして一番つらかったことは」と尋ねられ大河原さんはこう答えたという。
「一番つらかったことは人を殺すことだよ。それがなければ、雨が降ろうが寒さが来ようがひもじい思いをしようがまだ乗り越えられるよ。しかし、人を殺すということは、やっぱり自分の心を殺すことだ」
抜粋終わり。
大河原さんの優しくて力強い声は今でも記憶に残っています。本当に寂しい。
侵略されている被害者の立場からすれば、勝手にこちらまで出張ってこられて、たとえ殺しはしなくたって略奪や連行や強姦をされて
「それがなければ、雨が降ろうが寒さが来ようがひもじい思いをしようがまだ乗り越えられるよ」なんていわれたって知ったこっちゃない迷惑な話なのだと、今読めば思うけど。
加害と被害がほぐれない、いばらのように複雑にからみあっている。
大河原さんたちは歴史修正主義者の跳梁を許すな、と中帰連を結成して訴えつづけてきた。
それなのに。いまのこの惨状だ。
わたしはこの国が本当におそろしい。大河原さんや、皇軍兵士たちに殺され、じゅうりんされてきた人たちの声は、どこにも届いていないのではないか。
大河原さん、わたしたちは本当に力不足ですね。
神奈川にいたときは時折手紙をやりとりしていたけれど、奈良にきてからはお互い疎遠になっていた。もっとしつこく連絡すればよかった。
大河原孝一さんの過去の記事
大河原さんは、教育勅語、軍人勅諭を徹底的に叩き込まれ、競うように序列の上位に立とうとした。
命を投げ出して国難に当たるのが栄誉であると、侵略へと突き進むひとつの歯車になっていった。
「誰からもこの戦争がなぜ、何のために起きているの聞くこともなければ考えることもしなかった」
山ひとつ見当たらない広大な平野を行軍し、雨に濡れた古兵の軍服を乾かす為に中国人の家の箪笥、家の扉、大切な農具を奪って燃やすのを見てショックを受けたと言う。
「これが中国で続けていく仕事なのか」と考えたけれど、命令されるがままにありとあらゆるものの強奪に加担していった。
敗戦後、ソビエトを経て撫順戦犯管理所へ。
当時の中国の日本人戦犯への政策は
「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり殴ったりしてはならない。一人の死亡者、一人の逃亡者も出してはいけない」
「罵ったり手をあげてはいけない。医療の完全を期し、一人も死なせてはならない」
というものだった。
管理所で働く人の多くは日本人に家族を殺されていたので、中央には何度も転勤の要求や、極刑をという意見が出されたものの
「15年先、20年先に結果は出る」とそのつど要求は却下されたという。周恩来の政策。
極刑も覚悟していたけれど寛大政策によって全員起訴免除。
やっと懐かしい祖国の地を踏めば、今度は「中共帰り」という差別が待っていた。
「洗脳組だ」「アカだ」と誹謗され、公安にもつきまとわれ、歴史修正主義には中傷され続けた。それでも加害証言を死ぬまで続けてきた大河原さん。
奈良まで持ってきてた。-2007年の「自然と人間」から抜粋する。
『特集 戦禍の記憶 元兵士が加害を語るまで』
92年12月8日、札幌で開かれた「戦禍を語り継ぐ集い」で大河原さんは自らの体験を話した。大勢の前で証言するのは初めてのことだった。
この話を聞いた小学校の先生が、子どもたちにも戦争体験を教えてほしいと大河原さんに依頼した。
子どもたちにどう言えばいいのか自信はなかったが、自分の話でよければと引き受けた。
大河原さんの話を子どもたちはしーんと聞いていたという。
話は、1944年秋の討伐作戦、宿営していた農家の近くをうろついていた農民を捕まえる場面へと進んでいく。
年の頃は40歳前後の非常に身体のがっちりした、手の節もごつごつした丈夫そうな農民でした。
小隊長はわたしに「大河原、お前がこいつを殺せ」と命令しました。
私は、それまで軍隊に入ってから人を殺したことは一回もなかったものですから、非常に緊張しました。
しかし、命令だから、軍隊では聞かないわけにはいかないんです。それで、どうやって処理しようかと考えて、まず、私の部隊の初年兵に命じて、銃に剣をつけさせてですね、
「突く用意をしなさい」と言って、一方、別の初年兵には連れてきた男を、庭の一番隅にあった井戸の前に立たせました。
そして、初年兵に私は「お前、あの男を突け」と命じたんです。
二人の初年兵が代わる代わる突いたんだけど、恐ろしくて、とても突けないんです。
人をあやめる、人を殺すということは全くやったことのないことで、とても恐ろしくなるんですね。
それで、大きな声で「突け」と怒鳴って命令する。
そうすると初年兵は何とか命令に従おうと思って突く。突くけどね、やっぱりそばまで行ったら恐ろしくて突けないんだなあ。
だから銃剣の先がここにぶつかるんです。そうすると農民が着てる服、秋だからまだシャツです。
そのシャツにだんだんだんだん血が染みてくるんです。何回も突くから傷つくでしょ。
それを見ていた私は「これはいかん」と思って「その銃剣をオレによこせ」と、そして銃剣をもらって
「お前たちいいか、日頃言っているとおりにやれば突けるんだ。見てろ」と言って、その農民を初年兵に教えているように「えいっ」と動作して突きました。
初めてのことです。もちろん恐ろしかったです。
しかしわたしは逃げることも隠れることもできない。自分が教育した初年兵もいる。分隊長も見てる。
そこでは腹を決めて私はびっと刺した。
そうしたらねえ、体がね、あの重い体がぐうっと寄ってくるんです。重いんです。
そして、その農民は口から血をだあっと出しました。心臓を突いてますからね。口から血が出ました。
そして、これはまずいと思って、すぐ、その向こうにある井戸まで押していって突き落としたんです。
そして、私は分隊長に「大河原はあの男を処理しました」と報告しました。
報告が終わって、私は自分の気持ちがなかなか落ち着きませんでした。
しかし夕方になって皆といっしょにご飯を食べるとき、ご飯も食べられたし、夜眠ることもできたことを覚えています。
長いインタビューの中でのこと「何度も話をしている」と言いながらも、中国人殺害に話が及ぶと、大河原さんの目に涙が浮かぶ。
自らを問うことのどれほど辛く苦しかったことかが伝わってくる。
小学校での1時間ほどの話を終えたあとに、一人の子どもから「戦争をして一番つらかったことは」と尋ねられ大河原さんはこう答えたという。
「一番つらかったことは人を殺すことだよ。それがなければ、雨が降ろうが寒さが来ようがひもじい思いをしようがまだ乗り越えられるよ。しかし、人を殺すということは、やっぱり自分の心を殺すことだ」
抜粋終わり。
大河原さんの優しくて力強い声は今でも記憶に残っています。本当に寂しい。
侵略されている被害者の立場からすれば、勝手にこちらまで出張ってこられて、たとえ殺しはしなくたって略奪や連行や強姦をされて
「それがなければ、雨が降ろうが寒さが来ようがひもじい思いをしようがまだ乗り越えられるよ」なんていわれたって知ったこっちゃない迷惑な話なのだと、今読めば思うけど。
加害と被害がほぐれない、いばらのように複雑にからみあっている。
大河原さんたちは歴史修正主義者の跳梁を許すな、と中帰連を結成して訴えつづけてきた。
それなのに。いまのこの惨状だ。
わたしはこの国が本当におそろしい。大河原さんや、皇軍兵士たちに殺され、じゅうりんされてきた人たちの声は、どこにも届いていないのではないか。
大河原さん、わたしたちは本当に力不足ですね。
法隆寺にいきました。
百済観音像に20年ぶりにあえました。
痩身で長身で 表情はあいまい ゆるやかなポーズをとっているのだけど、はりつめた空気があり
いい仏像をみたときはいつもそうなのだけど
周囲の空気までが像の影響をうけて、緊張感を保っている
すばらしかった。
仏像の造形における衣服の流れや、装飾や、奇抜なデザインは、今の日本のデザインやアニメーションに見事に受け継がれてるのではないだろうか
とか、そんなこと思ったり。
野良猫とひなたぼっこしたり、柿をたべたりうどんをたべたりして帰ってきました。
晩秋。
百済観音像に20年ぶりにあえました。
痩身で長身で 表情はあいまい ゆるやかなポーズをとっているのだけど、はりつめた空気があり
いい仏像をみたときはいつもそうなのだけど
周囲の空気までが像の影響をうけて、緊張感を保っている
すばらしかった。
仏像の造形における衣服の流れや、装飾や、奇抜なデザインは、今の日本のデザインやアニメーションに見事に受け継がれてるのではないだろうか
とか、そんなこと思ったり。
野良猫とひなたぼっこしたり、柿をたべたりうどんをたべたりして帰ってきました。
晩秋。