うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

独食、独酌

2012-07-31 | Weblog
今日の我が家の

お母さんは
大阪へお年寄りの介護にいきました。

娘は家で宿題しました。

息子は前の日にお友達のうちに泊まって、二上山登山と水泳にいきました。




お母さんは炎天下の自転車こぎで、あたまがいたくなりました。

娘は昼食にそうめんを一人でたべました。たべてもたべてもたりなくて、3回ゆでました。

息子は二上山でクサガメをひろいました。家にもってかえりました。それからプールにでかけました。



そしていま、お母さんはひとりでお酒をたのしみ
娘はまんがを読み
息子はまだお友達といっしょにあそんでいます。








熱いハートとさめた頭脳で

2012-07-24 | Weblog
息子がかきました。

最近は、こんな細い線で、画用紙にロボットや飛行機を日がな描いている。
宿題は!



夏休みでもわたしは仕事。
子どもたちは、お留守番。
二人で、寝転がったり、インコと遊んだり
お昼におにぎり食べたり
ラジオきいたり草取りしたり。
宿題もたのむわ~。





「どう、関西は暑いでしょ」と職場の人たちに言われる。
やっぱり、熱がこもった暑さは、小田原とは違うかもしれない・・・。

収入のため、人助けのため、使命感から、自分の中のバランスをとるため、なにか克服したいことがある、たまたま、なんとなく・・・・・


動機はそれぞれだけど
炎天下、自転車で飛び回る介護職の人々。
自分もその一部だけど「よくやるよなあ」とおもう。


春に色白だった同僚は小麦色になっている。
わたしはいつも黒いから変化ナシ。




「いやしい仕事よのう」
自転車を停めようとしているとき
訪問宅の近所のおじさんに急に言われてびっくりした。
介護保険やそれにともなうサービスが浸透したとはいえ、まだまだ低くみられるのがこの仕事だ。



小田原で働いていたときに同僚が「社会の嫁的な仕事」と言っていたのをおもいだす。
彼女は怒っていた。介護職が嫁的な働きを期待され、プロとしてみられないことに。

ヘルパーの資格を取るときの講義で脳性まひをもった講師が「介護は熱いハートとさめた頭脳で」と語っていたのをおもいだす。
どちらだけ偏っても、うまくいきませんよ、と笑っていた。もっと話をききたい人だった。



いやしいのかのーこの仕事は、と考えながら初めてたずねる家で
先輩ヘルパーの介護を見学する。


話しかけながらベッドを上昇させる。
手早く丁寧におむつをとりかえる。

顔を拭く。化粧水をつける。髪をとかす。
洗濯機をまわす。
室内の温度に気をくばる。
あとに来るヘルパーのために必要なものを準備する。

介護を待っている人は、ヘルパーを信頼している。
ヘルパーは、信頼されていることを感じながら、その時間、その人に必要とされることだけを瞬時に判別して時間内に行う。
静かな、豊かな時間なのだ。


どんな場面でも、気高い空気が張り詰めているとわたしには感じる。
思わず、じーんとして、写真だったら、映画だったら、と空想してしまう。


わたしにも、同じような時間や空気を作り出せているかな。
自分では、わからない。


思いだけでもだめ。
技術だけでもだめ。

















せくし~すぎます。

2012-07-23 | Weblog
いくら関西は暑いとはいえ
今日はおしりの見えそうな後ろ姿をもくげきしてしまった。

それも二人も!


だいじょうぶか~!と自転車をこぎながら見送って(みとれて)いたら
出会いがしら自転車に乗ったおっちゃんにぎゃりぎゃりがりいい!!とベルを鳴らされ



「おんどりゃあどこみとんじゃいボケエ!!」と怒鳴り散らされた。




すいません、おしりみてました。




ウォークウォークweekend

2012-07-22 | Weblog
この週末は、夫と、夫の父が遊びにきてくれました。

土曜日は、吉野山へ!
桜の時期でないので、混んではいないだろうと、緑をみながら軽くハイキング気分で・・・・。

軽い気分で行ったら、大変でした。

わたしの中のイメージでは、吉野といえば桜好きなおばちゃんたちが
「まあまあ♪」とか言って大挙押し寄せて
踏み荒らして帰ってく・・・て感じでしたので
本当に、軽装で行ったのでした。

うちから、吉野駅までは電車で1時間ちょっと。
そこから、ロープウェーとケーブルバスを乗り継いで、一気に奥千本まで登ってから
てくてく、だらだらおしゃべりしながら降りてくればいいと計画していたのですが
下り道が主とはいえ、ここは熊野、高野山と、三つの霊場を結ぶ修行の場だったのですね。

いまさら気づく、おろかなわたしでした。

「紀伊山地の山岳地帯は、自然の織りなす地形と森林などの自然環境によって、古くから宗教活動の絶好の場ともなってきた。
仏教が伝来し、やがてわが国古来の信仰や密教、道教、陰陽道などの宗教が融合して日本独自の修験道が形成されると、紀伊山地の山岳地帯は修験道の修行場になった」

そうです。修験道って、なんだ?


とにかく、桜とおばちゃんのイメージで歩いたら、だめでした。きつい山道でした。
下って吉野駅まで戻るのに、いろいろな神社仏閣をのぞきながら3時間かけて歩いたけれど
駅のちかくにくるまで、誰とも会いませんでした。

ここは、桜の時期でも、果たして桜はどのくらい見えるんだろう?
杉やその他常緑樹の森の中を歩くのが大部分だと思うので・・・。

元植木屋さんの夫いわく、桜の木に元気がないということ。だいじょうぶかな?


お団子屋のお姉さんによると、おすすめは紅葉の秋だそうです。
桜の時期は人がすれ違えないくらいの賑わいで、人を観にきたかのようだ、とのこと。

しんどかった。でも役行者の開いたという金峯山寺は、行ってよかったです。本堂は大迫力でした。




わたしはその日の夜から筋肉痛で、しゃがむのも立つのも、よっこらしょ・・・。





今日は夫の要望で、大阪市北区の天神橋筋商店街に行きました。

南北2.6キロメートル、600店の日本一長い商店街、だそうです。
一直線に続く、長~いなが~い商店街でした。


たくさん並んで待っているレストランや、
額縁店、沖縄物産店、和服の店、お好み焼き、靴屋にお菓子屋・・・・。


古本屋さんも多かったです。
絵本や小説や随筆など購入。娘もまた行きたい、と言っています。
うどんを食べて、たこ焼きを食べました。


天神祭の準備で盛り上がっている天神さんもちょっとたずねて。


もう歩きすぎて無口になっているお父さんと夫を新大阪まで送って
母子で帰宅しました。
は~いおつかれさま~。










缶かん

2012-07-18 | Weblog
釜ヶ崎の施設でボランティアをしてるとき

「資源ごみの日おしえて。都島と河内松原と・・・」
とおっちゃんが話しかけてくる。

はいはい、ちょっとまってね、今プリントするから、
とパソコンで手早くその地区のごみの収集日を出すスタッフの女性。




なんですか?とわたしがスタッフにきくと

その男性は早朝出かけていって、缶を集めて、それを収入にしているとのこと。
この施設の人々はおっちゃんも、スタッフも、缶あつめは職業のひとつだと、とらえています。



おっちゃんにインタビュー。

「暑いのに、大変ですねー」
「たいへんや。」ニコッとわらう。真っ黒に焼けて、やせた体。歯だけが白い。
うん、ほんまたいへんや・・・と自分の言った言葉をかみしめて、口のなかで何度も言っている。

何時にいくのですか。
三時。


夜明け前?
そうや。


いくらくらいになりますか?
うーん、三千円かな。




釜から河内松原までは、とても遠い。
それを自転車ででかけて、めいっぱい積んでくるのだ。

1キロ100円としても、30キロで3000円。
いまはスタッフによれば、キロ85円以下ではないかとのこと。

一日30キロ以上集められるのは、かなりのベテランでは、と。

缶集めのマナーは
・集める前よりもあたりを綺麗にして去る
・早朝なので物音をたてない
・集合住宅なら、そこの管理人さんに話を通す

なのだそう。
そうして信頼をえて、収入源をえるのだ。


はっきり言って、もう若くはない。
しんどい労働だ。


それでも彼らの多くは、住居を得て生活保護をもらいながら暮らせば、という提案に、首を縦にふらない。
申請したら、遠くに暮らす家族に迷惑がかかるから。
お上の世話になりたくないから。
体が動くうちは働きたい。


結局、雇用の問題なのだ。
みんな働きたいんだよ。

仕事くださーい。








袴田ひで子さん全国スピーキングツアー

2012-07-15 | Weblog
今から46年前、1966年静岡県清水市で起こった殺人放火事件。

30歳で逮捕された袴田巌さんは、以来一度も故郷の土を踏むことなく
死刑囚として東京拘置所に収監されています。

もう、かなり長いこと、冤罪といわれています。


昨日は大阪の豊中市で、巌さんのお姉さん、ひで子さんの講演があり、でかけていきました。
ひで子さんは現在79歳。

巌さんは76歳。
6人きょうだいで仲良く育った家庭は、巌さんの逮捕で暗転しました。
それでも家族は巌さんの無実を信じ、死刑判決がくだされ、ご両親の亡くなったあとも
冤罪を訴え続けています。




「袴田事件」と名づけられていますが
犯人ではないのですから
「清水こがね味噌事件」と最近は呼ばれるようになってきているようです。

事件の概要は、1966年、静岡県清水市(現在は清水区)で、味噌製造会社の専務宅から出火し
焼け跡から刃物による多数の傷を受けた専務家族4人(専務、妻、長男、次女)の死体が発見されたものです。

袴田巌さんは味噌工場の寮の住み込み従業員でした。
巌さんの証言によれば、当日は就寝後消防のサイレンが鳴り響き、二階から誰かが二人駆け下りてくる物音がしたため
パジャマのまま消火活動を手伝い、その際手と肩を負傷したとのことでした。

警察は巌さんに当日アリバイがなかったこと、怪我をしていたこと、また元プロボクサーであるとのことから犯人と断定、
逮捕しました。

巌さんは初めから無実を訴えていましたが
一日平均12時間にも及ぶ取調べに耐え切れず、19日目、ついに「自白」してしまいます。
そのやりかたは、猛暑の室内で暴行を受け続け、トイレにも行かれず
便器が室内に持ち込まれるなど、凄惨なものだったそうです。

無実なら、なぜ自分がやったというんだ、と質問があるそうですが
無実の人は後で裁判官に無実を訴えればきっとわかってもらえると信じ、今の苦しさから逃れるために嘘の自白を
誘導されるままにしてしまうことがあるのだそうです。




問題点はたくさんあります。
はじめ、警察は犯行時の着衣はパジャマ、としていたのが
物的証拠に乏しいと思ったのか警察は、事件より1年2ヶ月後に味噌タンクから着衣を「発見」し、
これが犯人断定の唯一直接の証拠とされました。
巌さんには小さすぎてはけないズボンです。
ここに付いた血痕は、今年3月裁判所が行ったDNA鑑定によれば被害者の血でも、巌さんの血でもないことがはっきりしました。
明らかに捏造だったということが証明されたのです。

さらに凶器とされた「くり小刀」というわずか刃渡り12センチのちいさなナイフ。
これで一家4人に40数箇所も致命傷を負わせることはできないとのことです。
しかも歯こぼれもないとのこと。

事件当日巌さんがかんぬきのかかった裏木戸の隙間から脱出したとされていますが
かんぬきがかかったまま人が出入りすることは不可能にもかかわらず
都合のよいように警察側が実況写真を撮影したことも明らかになっています。
 

判決文を書いた裁判官は
先輩裁判官二人との多数決で負け
無実と確信していたにもかかわらず、死刑判決を書いたとのちに告白しました。

巌さんの供述調書45通、ひとつの事件でこれだけの自白書ができることも異例なのだそうですが
そのうち実に44通が「任意になされたものでない自白に該当」とのことで排除され、
有罪判決にはまたこれも異例な付言によって
虚偽の自白誘導にたいする苦言や批判がなされていたにもかかわらず
死刑との判決がくだり、それは今現在も覆っていないのです。



お話をしてくださったひで子さんによると
おとなしくてやさしい弟さんだったとのこと。

逮捕からしばらくは、お母さんが面会にいったり、一審に通いつめたりしていたそうで
面会時も巌さんは明るく、よくしゃべるほうだったのが
1980年に死刑の判決が出て
お母さんも胃がんでなくなってからは口数も少なくなっていったそうです。

あるときは面会時
「ひどいところにいる」と中の様子をもらしたり
あたふたと面会のいすに座り
「今日隣の部屋の人が処刑されたよ。お元気でって言っていた。みんながっかりしているよ」
と、話したりしていたそうです。



それが、1985年ごろからは拘禁症状なのか
「電気をだすやつがいる」
「食事に毒がはいっていて殺される」
天狗、猿、など意味不明のことを言うようになったそうです。


ここ数年は
「御殿をたてた」
「再審は終わった」
「事件は終わった」などとやはりわからないことを言われていたそうですが
2010年8月以降、面会のできない状況が続いているそうです。


2010年8月といえば、前月7月に、千葉景子法務大臣のサインによって2人の男性の死刑が執行された直後です。
これとの関連もあるのかもしれません。


ひで子さんによれば
毎月面会におとずれても
受付で「会いたくないと言っています」の一点張りでまったく巌さんの状況を知らされることなく帰されるのだそうです。
誰も巌さんに会って、どんな状態か確認することができないというのです。


この日ひで子さんとともにお話された「袴田巌さんを救援する静岡県民の会」の鈴木さんによれば
以前はもっとゆるやかに死刑囚といえ、外部との交通、交流がおこなわれていたとのこと。
「心情の安定をはかる」との理由で外部との接触を断つことが、人間にとってどんなに苦しいことか
このことも改善を求めたいといわれました。



いとも簡単に犯人がつくりあげられてしまうこと。
そしていったん有罪にされ、収容されてしまうと、密室に閉じ込められた状態で外部からは伺うことのできない場所があること。
そしてそれは国が管理しているということ。



最近釈放されたネパール人のゴビンダさんの例もありますが
一度死刑の判決が出た人の再審は、名張の毒ぶどう酒事件同様、非常に厳しい状況なのだそうです。

それでも、支援者の方たちのおかげで弟を取り返すためにがんばってこられました、とひで子さんは明るく、大きな声で訴えていらっしゃいました。
一時は夜中になると弟の顔が目に浮かび、ウィスキーばかり飲んでしまう状態に陥ってしまったそうですが
これでは弟を助けられない、とその生活には3年で終止符を打ち
今は一滴もお酒を飲んでいないそうです。


拘禁症状に加えて、糖尿病、認知症を患っている袴田巌さん。
一刻もはやく無罪の判決が出て、故郷に帰れますように。
長い記事、読んでくださってありがとうございました!



袴田事件~逮捕から46年。「それでも負けてたまるか」~アムネスティ日本のサイト


2010年のわたしの書いた記事
Free Hakamada Now

東京拘置所・1
東京拘置所・2
東京拘置所・3
東京拘置所・4
東京拘置所・5





ぱんだっ

2012-07-13 | Weblog
ランラン、カンカンがきたのは、わたしの産まれた年なんだよ。



小田原の夫から時折まとめて送られてくる東京新聞。

「これこれっ!ランランカンカンね!」と子どもたちに説明する。
「白黒じゃん」
「パンダは白黒でしょ」
「ちがう。このときの写真って白黒なんだね」

ほんまや。
そういわれてみてみると、すごい大昔の写真みたい!
いつから新聞の写真はカラーになったんだっけ??



たしか、小1か小2のときに、ランランが死んじゃったんだ。
母が朝刊を読みながら
「あら~、ランラン死んじゃったのね、カワイソ~」と言っていた。


ランドセルしょったわたしは、
がーん、がーんと衝撃に打ちのめされそうになりながら
無言で必死に登校したのだ。




運悪いことに、その日の朝礼は先生の離任式で。

「やさしかった先生。めがねの奥からいつも笑っていました」
そんな風に上級生がお別れする先生へ作文を読んでいる中
6歳だか7歳のわたしは
いままで見たこともない会ったこともない先生へのその作文で
一気にランランの死への悲しみが盛り上がり
いつのまにか立ったまま泣いていた。しかも号泣・・・・。


式が終わって教室に戻ると案の定

「なに泣いてんの?」
「あの先生知ってんの?」
「あの先生と結婚すればよかったじゃん」

と、さんざん男子どもにからかわれた。



ちがうねん。パンダやねん。


とも言えず。からかわれっぱなし。だまってました。


後日、担任の先生は母に
「わたし、○○ちゃん(わたし)みたいな子が産まれるってわかっていたら、もう一人子ども産みたいです」
と言ったそうだ。


だから、パンダだってば。

それ以来、わたしはぱんだすきじゃないよ。