今から46年前、1966年静岡県清水市で起こった殺人放火事件。
30歳で逮捕された袴田巌さんは、以来一度も故郷の土を踏むことなく
死刑囚として東京拘置所に収監されています。
もう、かなり長いこと、冤罪といわれています。
昨日は大阪の豊中市で、巌さんのお姉さん、ひで子さんの講演があり、でかけていきました。
ひで子さんは現在79歳。
巌さんは76歳。
6人きょうだいで仲良く育った家庭は、巌さんの逮捕で暗転しました。
それでも家族は巌さんの無実を信じ、死刑判決がくだされ、ご両親の亡くなったあとも
冤罪を訴え続けています。
「袴田事件」と名づけられていますが
犯人ではないのですから
「清水こがね味噌事件」と最近は呼ばれるようになってきているようです。
事件の概要は、1966年、静岡県清水市(現在は清水区)で、味噌製造会社の専務宅から出火し
焼け跡から刃物による多数の傷を受けた専務家族4人(専務、妻、長男、次女)の死体が発見されたものです。
袴田巌さんは味噌工場の寮の住み込み従業員でした。
巌さんの証言によれば、当日は就寝後消防のサイレンが鳴り響き、二階から誰かが二人駆け下りてくる物音がしたため
パジャマのまま消火活動を手伝い、その際手と肩を負傷したとのことでした。
警察は巌さんに当日アリバイがなかったこと、怪我をしていたこと、また元プロボクサーであるとのことから犯人と断定、
逮捕しました。
巌さんは初めから無実を訴えていましたが
一日平均12時間にも及ぶ取調べに耐え切れず、19日目、ついに「自白」してしまいます。
そのやりかたは、猛暑の室内で暴行を受け続け、トイレにも行かれず
便器が室内に持ち込まれるなど、凄惨なものだったそうです。
無実なら、なぜ自分がやったというんだ、と質問があるそうですが
無実の人は後で裁判官に無実を訴えればきっとわかってもらえると信じ、今の苦しさから逃れるために嘘の自白を
誘導されるままにしてしまうことがあるのだそうです。
問題点はたくさんあります。
はじめ、警察は犯行時の着衣はパジャマ、としていたのが
物的証拠に乏しいと思ったのか警察は、事件より1年2ヶ月後に味噌タンクから着衣を「発見」し、
これが犯人断定の唯一直接の証拠とされました。
巌さんには小さすぎてはけないズボンです。
ここに付いた血痕は、今年3月裁判所が行ったDNA鑑定によれば被害者の血でも、巌さんの血でもないことがはっきりしました。
明らかに捏造だったということが証明されたのです。
さらに凶器とされた「くり小刀」というわずか刃渡り12センチのちいさなナイフ。
これで一家4人に40数箇所も致命傷を負わせることはできないとのことです。
しかも歯こぼれもないとのこと。
事件当日巌さんがかんぬきのかかった裏木戸の隙間から脱出したとされていますが
かんぬきがかかったまま人が出入りすることは不可能にもかかわらず
都合のよいように警察側が実況写真を撮影したことも明らかになっています。
判決文を書いた裁判官は
先輩裁判官二人との多数決で負け
無実と確信していたにもかかわらず、死刑判決を書いたとのちに告白しました。
巌さんの供述調書45通、ひとつの事件でこれだけの自白書ができることも異例なのだそうですが
そのうち実に44通が「任意になされたものでない自白に該当」とのことで排除され、
有罪判決にはまたこれも異例な付言によって
虚偽の自白誘導にたいする苦言や批判がなされていたにもかかわらず
死刑との判決がくだり、それは今現在も覆っていないのです。
お話をしてくださったひで子さんによると
おとなしくてやさしい弟さんだったとのこと。
逮捕からしばらくは、お母さんが面会にいったり、一審に通いつめたりしていたそうで
面会時も巌さんは明るく、よくしゃべるほうだったのが
1980年に死刑の判決が出て
お母さんも胃がんでなくなってからは口数も少なくなっていったそうです。
あるときは面会時
「ひどいところにいる」と中の様子をもらしたり
あたふたと面会のいすに座り
「今日隣の部屋の人が処刑されたよ。お元気でって言っていた。みんながっかりしているよ」
と、話したりしていたそうです。
それが、1985年ごろからは拘禁症状なのか
「電気をだすやつがいる」
「食事に毒がはいっていて殺される」
天狗、猿、など意味不明のことを言うようになったそうです。
ここ数年は
「御殿をたてた」
「再審は終わった」
「事件は終わった」などとやはりわからないことを言われていたそうですが
2010年8月以降、面会のできない状況が続いているそうです。
2010年8月といえば、前月7月に、千葉景子法務大臣のサインによって2人の男性の死刑が執行された直後です。
これとの関連もあるのかもしれません。
ひで子さんによれば
毎月面会におとずれても
受付で「会いたくないと言っています」の一点張りでまったく巌さんの状況を知らされることなく帰されるのだそうです。
誰も巌さんに会って、どんな状態か確認することができないというのです。
この日ひで子さんとともにお話された「袴田巌さんを救援する静岡県民の会」の鈴木さんによれば
以前はもっとゆるやかに死刑囚といえ、外部との交通、交流がおこなわれていたとのこと。
「心情の安定をはかる」との理由で外部との接触を断つことが、人間にとってどんなに苦しいことか
このことも改善を求めたいといわれました。
いとも簡単に犯人がつくりあげられてしまうこと。
そしていったん有罪にされ、収容されてしまうと、密室に閉じ込められた状態で外部からは伺うことのできない場所があること。
そしてそれは国が管理しているということ。
最近釈放されたネパール人のゴビンダさんの例もありますが
一度死刑の判決が出た人の再審は、名張の毒ぶどう酒事件同様、非常に厳しい状況なのだそうです。
それでも、支援者の方たちのおかげで弟を取り返すためにがんばってこられました、とひで子さんは明るく、大きな声で訴えていらっしゃいました。
一時は夜中になると弟の顔が目に浮かび、ウィスキーばかり飲んでしまう状態に陥ってしまったそうですが
これでは弟を助けられない、とその生活には3年で終止符を打ち
今は一滴もお酒を飲んでいないそうです。
拘禁症状に加えて、糖尿病、認知症を患っている袴田巌さん。
一刻もはやく無罪の判決が出て、故郷に帰れますように。
長い記事、読んでくださってありがとうございました!
袴田事件~逮捕から46年。「それでも負けてたまるか」~アムネスティ日本のサイト
2010年のわたしの書いた記事
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