うろこ玉絵日記

「日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。

マウスでかいてまーす。」

あごらのバザー

2011-10-27 | Weblog
11月3日の祭日は、なにかとお世話になっています小田原教会でのバザーの日です。
あごらというのはギリシャ語で「広場」という意味です。


わたしは信徒ではありませんが、小田原に越してきてさまざまな平和の運動や
市民運動などの関わりをとおして、
たくさんのクリスチャンの方々(プロテスタントもカトリックも)と知り合いました。
なんでわたしの周りには
こんなにいっぱいいるのかなーと思うくらいです。




ここでちょっと脱線「わたしとキリスト教」というタイトルで・・・・。

わたし、幼稚園生くらい小さい頃、クリスチャンにあこがれていました。
NHKでやってた「大草原の小さな家」の影響だと思うけど、食事のときや眠る前に十字を切って真似ごとをしました。
そしてなぜか、そのお祈りをした夜には必ず、自分が大きな刃物で胸を刺される夢を見るのでした。
それはとても強烈な夢でした。
それで、イエスさまはわたしがクリスチャンじゃないのに真似してるから怒ったんだな、と思って、
でもそれでも懲りずに何回も恐ろしい夢を繰返した後、十字を切る真似をやめました。




成人して子どもを産み、わたしが子どもを小田原教会の幼稚園に入れることになっても
それは保育理念がステキと思って入れたのであって、
日曜の礼拝のときなどはどうもしっくりこない気分で参加していたのでした・・・・。
ふらちな保護者ですね。



それが地域で、またちょっと離れたところで、
貧困、差別の問題にかかわっている人、
野宿者支援をしてる人、生活保護の水際作戦とたたかっている人、
ハンセン病の問題を追い続けている人、
戦後責任について、基地のこと、などなど、いろんな活動の仲間にクリスチャンの人々がいました・・・・。

いかにもわたしいいことしてますみたいに「救ってあげる」意識でやってる人って
もしかしたらどこかにいるのかもしれないけど
わたしの周りの人にはいません。


イエスは食いしん坊の大酒飲みで
いつも、弱くされてしまった人と普通に一緒にいた、
ほんとにそんな人物像だったらいいなとおもいます。
幼いわたしが尊い不可侵の神のように思っていたのとは、今はだいぶイメージがかわってきています。






話が脱線しましたが、あごらのバザーではICUのミュージカル上映と、駐車場でのフリーマーケットがおこなわれます。
ミュージカルは礼拝堂で11時~12時。
フリーマーケットは12時~14時です。

@あしがらでは運営委員のシュンスケ君が似顔絵やさんで出店!
それからわたしが昨年祝島で撮って来た写真をパネルにして展示します。
引き伸ばした写真に今キャプションつけています。
むずかしいな・・・・。
200枚以上撮ったなかのほんの14枚なのですが、島のこと感じてくれるかな。



ほかにもいろんな活躍されてる団体がでます!
おいしいものたくさんあります!
わたしは訪問介護のあとで行きますが、プリン狙ってます!!


来週木曜日はぜひ!
場所はここです。小田原市栄町4-9-43、小田原教会です
駐車場ないです。電車できてくださいね。










福島菊次郎さんのお話

2011-10-23 | Weblog
午前中に小田原市のお隣の町、開成町にある瀬戸屋敷での安藤ニキさんの絵画展を見たあと、
明大前のキッドアイラックホールまで足を伸ばし、写真展と講演会に行ってきました。



日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)というグループがあります。
フリーランスのフォトジャーナリスト、ビデオジャーナリストから成る集団です。
このJVJAの皆さんが311災害の際、現地に赴き撮ってきた写真が本になりました。
「3・11メルトダウン 大津波と核汚染の現場から」(凱風社)
今日はこの写真展と、「伝説の写真家」福島菊次郎さんの講演会でした。

この「3・11」写真集は以前知人にいただきましたが、
やはり生で大きな写真に向き合うと、迫力がものすごかったです。
写真は音を発さないけれど、人々の悲嘆が音をたてて胸にせまるようでした。




福島さん、いらっしゃいました!
現在90歳の福島菊次郎さんは
山口県下松市出身。
66年前、二等兵だった福島さんは原爆投下のわずか1週間前、「自殺部隊要員」として
広島から九州に送られ、蛸壺のような穴の中で敗戦を迎えます。

広島に戻ると原隊は全滅していました。

福島さんはその後写真家を志し1951年から被爆者の取材にとりかかります。

出版された「ピカドン ある原爆被災者の記録」は、六人の子どもを抱えた中村杉松さんの壮絶な日々を克明に写し出しました。



この日司会進行役をつとめた写真家山本宗補さんの言葉を借りれば、
苦しみ、狂気、絶望に満ちた写真集です。

原爆症の発作に苦しむ父、家事をこなしながら家計を支える子どもたち。
周囲の無理解や、治療もせず突き放す病院のようすも細かに撮られています。

胸をかきむしり、浴衣のはだけるにまかせたまま転がる杉松さん。
発作の苦しみから逃れるため、杉松さんが内腿に残した無数のカミソリの切り傷。

息をすることも忘れて見いってしまいます。




わたしは昨年、この写真集を福島さんのお宅で見せていただきました。
残念ながら絶版で、いまはなかなか手に入らないのだそうです。


昨年、祝島を訪れたさいに立ち寄った福島さんのお宅は、小さなアパートでした。
柴犬のロクと暮らしています。
部屋はたくさんの本と、ジュエリーデザイナーとしても有名なので、たくさんの彫金の工具で埋め尽くされていました。



昨年お会いしたときより、お元気になっているような?

全共闘、東大闘争、三里塚、水俣、日本の軍需産業そして祝島など様々な学生運動や事件、公害問題を撮りつづけ、
時には暴漢に襲われたり家が焼かれたりした福島さんですが
80歳をすぎて「写らなかった戦後」シリーズ三部作を出版したあとは体調のアップダウンを繰り返していたようです。

それが今回、3月の震災を機に再び報道写真家としてメッセージを発信しようと、四冊目の執筆にとりかかっているそうです。

すごい。パワフル!



ちなみに小田原を中心とした市民政治グループ@あしがらで、昨年
「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映会を行ったときに、会場に展示したのは
約30年前に福島さんが撮った祝島の写真パネルでした。




「原爆写真家」と呼ばれた福島さんは、今年9月福島市、飯館村、南相馬市を訪れ
現地の様子を見、現地の人々と話をしてきたそうです。
福島さんが言うには、311のニュース報道などで、
津波に洗われて、地面にはなにも無くなった風景をさんざん見たつもりで現地に赴いたが
実際行ってみると、すでにその土地は夏草に覆われていて、一瞬、どこが被災地なのかわからなかったということです。


みわたす限りの原っぱが、実は墓地であり、
たくさんの墓石が一か所にまとめられてあったり、ある墓は生き残った家族にまっすぐ建て直され、花が手向けられたりしているのが非常に衝撃的で
同時に、恐怖を感じたといいます。

その恐怖は、このように草に覆われることが、悲劇を隠し、
政府による被災者の救済と安定した生活の供給を遅らせるのではないかと危惧したからだそうです。



足元がおぼつかず、何度も転んだりよろけたりしたそうですが
その度に目が冴え、体もよく動き、報道写真家としての勘を取り戻した、と語ります。


現地にとどまり生活する酪農家、元原発作業員などに会い、語り合ったなかで福島さんは、
小手先の除染で住民を村に帰すことの危険性や
土地の大部分を占める山や森の除染作業の難しさを感じて帰ってきたそうです。



そして福島さんは、自分が追い続けてきた広島の原爆による被爆者と、現在の人々を重ね合わせていました。

福島さんは原爆症を発症した被爆者たちが国に見殺しにされてきたように、
今度もまた同じように東北、関東を中心とした人々が健康を損なっても、見殺しにされるのではないかと思っていると語りました。

比治山に戦後できたABCC(原爆障害調査委員会)にも福島さんは身分を偽って潜入し撮影、取材を重ねましたが
そこで見たのは単なる研究材料として扱われる人体でした。
1948年からの2年間だけでも、5592体の遺体が解剖されましたが、一切治療は行われなかったといいます。

放射線障害にたいする医学的、臨床学的対応策がこの国は確立していないと信じる、と言い切る福島さんでした。



痛烈な天皇制批判を続けてこられた福島さんらしく
ヒロシマは侵略戦争の拠点という面を併せ持っており、
戦争の反省をしないまま突き進んできた姿勢が、現代日本の基礎を成しているのだ、とも。
自分は今までずっと原爆と原発は同義という思いで生きてきたが
この思いが多くの人のなかにもあったかどうか疑問だということでした。


安心、安全と唱え、お金をばらまいてきた原発行政を批判すると同時に、
「これは色んな意見があるだろうが」と前置きしたうえで
祝島の人々の30年にもおよぶ反対を思う時、補償金と称して膨大な金を受け取ってきた漁民たちも批判される、と訴えました。
漁師の子として生まれ、東京での報道写真家としての活動後、20年に及ぶ瀬戸内海での無人島暮らしをしてきた福島さんだからこそ言える言葉なのかもしれません。


重く、力強い言葉をたくさん聴けました。
わたしたちはこれを栄養にして、新しい未来を考え、つくっていくんだ。


写真展は来月6日までです!




山本宗補さんのブログ
反骨の報道写真家・福島菊次郎さん(90歳)のこと




日本ビジュアルジャーナリスト協会 jvja






















がんばれじぶん

2011-10-13 | Weblog
わたしは、これから、国と政治家と電力会社の罪を考えなくなる自分とたたかわなくちゃならない。


わたしは、これから、のどかな日常をすごしたいために厳しすぎる現実を見ないようにする
強い力を持った自分とたたかわなくちゃならない。



たたかうの嫌だけど



弱虫だから、勝手に泣けちゃってしょうがないけど



でももう、ここからは降りられないの。


べいすぼーる

2011-10-09 | Weblog
我が家は毎朝、支度をしながらエフエム横浜をかけています。

「ゴーゴーベイスターズ」というコーナーがあるんですが
それを聞きながら息子が

「ねえ、ベイスターズって、弱いの?」とききました。






というわけで、新聞の配達やさんの抽選でもらったチケットで行って来ました。
横浜スタジアム。

昨日土曜日は、横浜ベイスターズ対阪神タイガースの試合でした。
昼2時ぷれいぼーる。



当日のスタジアムでは、横浜よりも、阪神ファンのいでたちのほうがとても目立ちました。
人数も多いんじゃないか??
バスで応援団きてるし。


わたしたちは1塁側の応援席。
3塁側は、黄色、黄色。
旗はひるがえるし、トランペットは大音量だし、
「六甲おろし」歌ってくれて、まるで轟音のような、嵐のような応援の声。
すごい・・・。阪神ファン・・・。




子どもは野球の観戦は初めてです。ルールも知りません。
わたしは中学のころソフトボール部でした。万年補欠でしたが。ちょっとはルールわかるよ。

横浜スタジアムへはたびたび、父と行きました。
まだ横浜大洋ホエールズだった頃。
カレーを食べたことしか覚えてない。
父はビール飲んでた。あまりしゃべらなかったと思う。負けたと思う。
当時小学校のクラスにも、Wのマークの紺色のキャップをかぶってる子、けっこういたぞ。



「いくぞ、タイヨ、いくぞ、タイヨ、きーたえたわざで、ごごごっごー!」という歌も覚えてます。
ベイスターズは
「うぉー、うぉーうぉーううぉ、よーこはまべいすたーず」という歌です。



わたしが父と行った時に比べて、今は観客を飽きさせないために色々やってるような気がします。
バックスクリーンにお客を映し、その人には写真をプレゼントしたり、
ダンスコンテストと称して、一番楽しく(激しく)踊った人に賞品をあげたり、
チアガールや、キャラクター(ホッシーとホッシーナ)たちがイニングの合間あいまによく出てきては
踊ったり、バズーカ砲で客席にプレゼントを放ったりしてました。



わたしたちは普通のカッコで行きましたが、
周りは横浜ベイスターズがほんとに好きな人ばかり。
みんなそれぞれ、ミウラだ、ワタナベだ、モリモトだと書かれたユニフォームを着てきたり、
選手の名前入りのタオルを持ってたり、応援の手製プラカードを持ってたり、鳴り物を持ってたり。


わたしたちの数列前に座ったおじいさんが、リュックの中からベイスターズの帽子をとり出し、ニヤリとしながら今までかぶってた帽子と取り換えたり
「陽射しにあたりたくないわ」と旦那さんに言って、娘と消えた奥さんが
試合直前に娘と共にユニフォームに着替えて座席に戻ってきたり、
ファンって健気でいいなっと思いました。



肝心の試合ですが、横浜はサヨナラ勝ちしたんですよ~!

阪神が1回に1点、6回に2点目を入れて0-2だったところ、
6回裏に筒香選手がホームランを打って1-2になりました。
わたしたちの目の前を通って、ライトスタンドにホームランボールが入って行くのには、子どもたちも歓声をあげていました。

それまでは、キャッチャーが2回続けてボールを落とし、ランナーの走塁を許したり
いいチャンスなのにファウルボールを取られたり、ダブルプレーでアウトになったり・・・・。
点につながらず、残念な場面が多く。


「ああ~もうっ!」とつい声がでてしまいます。
後ろにいたファンたちは、もっとすごいヤジ(愛情がこもっている)を叫んでいました。



7回では、代打をつぎつぎ投入しますが、点にはならず。

いよいよ9回裏。
ヒットで出塁した渡辺選手、荒波選手は二人とも盗塁に成功し、2,3塁だったところに
代打の細山田選手がきれいにヒット!

二人がホームインして逆転したのです。


ぎゃー、とも、うぉー、とも、ものすごい怒涛の吠え声のような喜びの観客席。
こんな終わり方ってなかなかないよね。いやー、よかったよかった。

はじめて野球を観る子どもたちにも楽しい試合でした。




今日も息子は
「盗塁って、いつでもできるの?」とか
「投げてる(守備)ときは、点は入れられないの?」とか
いろいろ聞いてきます。

また行こうねえ。














渡良瀬遊水池

2011-10-03 | Weblog
日曜日は栃木県に行ってきました。

娘の入ってる中学の吹奏楽部が大会に出ることになったので
応援にです。




現在独身で、日々気ままに暮らしている父も、
過去学生のマーチングバンドの演奏を見たらしく、大変感動したというようなことを
今年父の家で開かれた新年会で言っていたのを思いだし、誘いました。


父の運転で夫、息子、わたしは楽チンで往復したんです。


わたしは数日前、何気なく全国地図をめくり
当日のコンテスト会場になる体育館の場所を眺めていたのですが
近くに渡良瀬遊水池があるのをみつけ
これって田中正造かな?たしか学校の教科書で習ったなーと思いだし、

体育館に行く前に父に頼んで、
遊水池に寄ってもらいました。



首都高から東北道。
日曜日の午前中は渋滞もなく、すいすいとたどり着きました。
地図を頼りにやってきましたが

「え?遊水池ってどこ」



果てしなく続く広い広い、原っぱ。
どこまでも限りがないかのように
夢の中の風景のように見渡す限りのヨシの草原。


ここがかつて足尾銅山から流れる鉱毒によって被害を受けた、渡良瀬川周辺の地域なのでした。

小さな案内板を見落としたことに気づき、原っぱをUターン、
旧谷中村跡と書かれたところまで車を走らせました。


「なんでこんなとこ見たいのよ」と言いたげな表情の父。
わたしにもわかりません!
でもなんか気になる!





駐車場に車を停め、四人でぶらぶら歩き出します。
辺りは芝生とまばらな木々の生い茂る
ただただ広大な公園のようになっていました。
数組の家族は、弁当をひろげたり、バドミントンをしたり
何人かの男性たちは釣りを楽しんだり

穏やかな秋の日曜日といった雰囲気でした。




谷中村跡、といっても、当時を偲ばせるものはほとんど残っていませんでした。


この村は、鉱毒はもちろん、また行政によって強制的に廃村にさせられるという、
二重の被害を受けたところのようです。


役場跡、という一本の角柱に書かれた標識のほかには
きっとずいぶん過去にたてられたものに違いない古い看板だけが
この村の歴史を物語っていました。




「谷中村遺跡を守る会」の建てたこの看板によれば


谷中村は室町時代から開け、開墾によって発展をとげた、肥沃で、
魚介類もよく獲れる豊かな地域だったそうです。
それが、明治18年ごろより、足尾銅山の鉱毒がこの地域にも流れ込み
村一帯は死の沼と化したそうです。

以来、30年間にわたって、衆議院議員であった田中正造を先頭に
谷中村の村民は鉱毒と闘いました。


明治37年、栃木県議会は堤防修築という名のもとに谷中村買収案を強行議決します。
39年には、谷中村議会での反対決議を無視し、谷中村を藤岡町に合併、
翌40年、県当局は、村外への移住勧告に従わなかった村内残留の16戸の住民家屋を
強制破壊し、村民は雨露に晒されることとなったといいます。

大正6年までには全ての村民の移住が完了し、名実ともに谷中村は滅亡したということでした。




パソコンで調べましたが、
政府に「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけられ、多くの村民が村外に出ましたが、
田中正造は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗したそうです。


明治41年、政府は谷中村全域を河川地域に指定。
明治44年、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された、とありますが、なぜ肥沃で住みなれた土地に住んでいた人々が北海道の原野まで移住させられたのでしょう??




こんな悲しくて重要な歴史があるにもかかわらず、朽ちかけた看板や立て札だけしか残っていないのがとても残念でした。
住みなれた土地を泣く泣く追われた人々が、現在に重なってきました。



この絵は谷中湖の風景です。息子が歩いています。
遠くには熱気球が飛んでいました。
この日はトライアスロンレースも行われており、レジャー施設として活用されているようでした。


たしかに公害は、観光の目玉にはならないし、マイナス要素が多いと思いますが
この村の歴史を忘れてはいけないんじゃないかなーと感じました。




再び車に乗り込み、体育館へ向かおうと遊水池から離れかけたとき、
「谷中村合同慰霊碑」があるのをみつけ、再び停車。


「お父さん、タバコ吸ってるから」と、父は河原に上り、タバコをふかしました。





大きな石に彫られた慰霊碑を中心に、石の壁がとりかこむ敷地がありましたが、
そこもまた、草がぼうぼうと生い茂り、手入れする人もない様子でした。


石の壁には、よくみると古い墓石がびっしりと埋め込まれたようになっていて、
江戸時代であろう元号が彫られたものや、「十九夜」と彫られたものがありました。
(十九夜信仰は、旧暦十九日の夜に女性が集まり念仏を唱え、安産や子供の無事成長を祈る月待信仰の一つだそうで、
江戸時代後期になると、「十九夜」の文字だけが刻まれるようになったそうです)

きっと当時の村のお墓を、有志が集めて慰霊碑にしたのでしょう。


その場所は、なんだか言いようもない重い雰囲気がたちこめていて、
夫も「そこには入れない」と言って後ずさりしていました。手を合わせて帰りました。




そのあと手打ちそばを食べ、娘たちの応援をして、再び小田原まで帰ってきました。





娘の吹奏楽の応援がメインだったのですが・・・・、
思いがけずに、とある村の歴史を垣間見ることができました。

娘?よくがんばりましたよ。全国出場は叶いませんでしたが健闘しました。

親の欲目ですが、ピカピカで素敵な演奏でした。