うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

Well we all shine on

2011-12-31 | Weblog
これからのわたしたちは


いまよりも、もっと





いい声で歌うだろう。



深い色彩のこもった瞳で見つめるだろう。



こころの底からの素直なことばで話すだろう。




翳りは濃くとも優しい横顔をもつだろう。




わすれられない詩を口ずさむだろう。






いちどつないだ手は


離しはしない。






涙は燃え落ちていく。




闇のなかのちいさな光を抱くように

赤ちゃんの産声に祝福の音楽が降るのを聴くように

地球が生命の歓喜に満ちていたころの記憶をたどるように



Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun




ほんとうにたいせつなこと
わかったわたしたち。







ことしもありがとう。
らいねんも、よろしくね。


おはよう

2011-12-29 | Weblog
わたしは今日で仕事納めです。


あと3日で今年もおわりです。


あと3日、死刑が執行されなければ、
19年ぶりに執行ゼロの年になるそうです。

でも、毎日「きょうかもしれない」と思いながら過ごしている人はいるわけで。


おはよう。
この、冬の夜が明けていくようすを、そんな人たちも見られたらなあ。

げんぱつかるた29日発売

2011-12-15 | Weblog
このブログでも紹介しました、古知屋さんのげんぱつかるたが
今月29日に発売されることになったそうです!

先着1000名さまですよ!
お子様と読みあって勉強してもよろし、
恋人同士語らってもよろし、
ひとりでじっくり眺めてもよろし。


わたしももちろん入手します。たのしみだな。
みんなに知ってもらいたいです。
ひとつ1800円です。


販売先は少しずつ増えているらしいです。

circus
茅ヶ崎市東海岸北2-1-4 0467-82-8692(年明けより)


ゆりの木
国立市東1-15-20  042-573-6663


長谷川書店
ちがさき北口ネスパ店  0467-88-0008


文房堂
千代田区神田神保町1-21-1  03-3291-3441


模索舎
新宿区新宿2-4-9  03-3352-3557





みなさま、ぜひどうぞ~♪







はまおかげんぱつミテキタヨ!

2011-12-11 | Weblog
@あしがらピースツアー第3弾 浜岡原発見学ツアー!

くしくも11日。3・11からちょうど9カ月ですね。
小田原から18名でマイクロバスで行って参りましたよ~。




浜岡原発があるのは、静岡県御前崎市。
今日、案内をしてくださったのはお隣の牧之原市の議員さんの大石和央さん。
養鶏とお茶を生業にされています。
浜岡原発から16㎞の距離で、30年間監視と活動をしていらした方です。
とても優しい雰囲気の、穏やかな方でした。



浜岡原発の敷地内にある原子力館で待ち合わせをし、原発を見降ろせる展望台までエレベーターで。
「ここは海抜62メートル」なんて書いてあります。
海と原発と
あまりにも近接した住宅地が一望できました。
民間の会社の建てた風力発電機も、海岸沿いに何基も建っています。

そして一種異様な大きな真っ赤な鳥居・・・・。
これは中電からの住民へのプレゼントで1億2000万円したそうです。



浜岡原発は1、2号機は運転を停止しています。廃炉になる予定です。
3号機は定期検査中で停まっています。
4、5号機は政府要請で停まっています。

停まっていたって、冷温停止の状態をずっと続けているわけで
核燃料はずっとそこにとどまっているのですから
ずっと「来るぞ!」と言われている東海地震が起きてしまうと
どんな危険な状態になるかわからないわけです。

ちょっと寒気が・・・・。この核燃料、ずっとここにあっちゃだめだけど
どこに運べばいいの!?



でも、中部電力によれば、「使用済み燃料の貯蔵施設は平成28年には使用開始できるよう」
さらに「新設の6号機を平成30年代前半には開始できるよう計画中」
だそうですし・・・・!!


下の階の、原寸大の原子炉模型は、たとえ模型でも近寄りたくなく、
「制御棒の働き」
「原子力、安全を守るしくみ」
「核分裂のしくみ」
「安全の考え方」
「固有の安全性、五重の壁」
などのハイテクを駆使?したPRの展示はどれもわたしにとっては空虚な響きを伴っていました。


だけど・・・どんどん入場してくる小さな子ども連れの家族たち。
スタンプラリーをするとプレゼントがもらえるとか
映画上映があるとか、
いろいろ、館も工夫してるみたいでした。


「なんか、さっきからよく子どもがきますね・・・」と大石さんにたずねると
「ここらへんは、なにもないから」というお返事でした。

原発が立地する前から、ここの土は田畑にもむかず
漁港もなく
豊かな土地とは言えなかったそうです。

ここは原発を誘致したことで、さらに町づくりが失敗した、と大石さんは言いました。





静岡県牧之原市議会は今年9月26日、中部電力浜岡原子力発電所について「確実な安全・安心が将来にわたって担保されない限り、永久停止にすべきである」とする決議案を賛成多数で可決しました。
決議を受け、西原茂樹市長は議場で「市民の安心・安全のため、永久停止は譲れないと強調したい」と発言したそうです。

御前崎、掛川、菊川、牧之原で「永久停止」を求めるのは牧之原市議会が初めてだそうです。

大石さんはもうずっと以前から浜岡の危険性を訴えてきましたが
大石さんに賛同していた市議は共産党の人だけだったそうです。
それが3・11後、流れが変わり、今回の決議案が可決される運びになったとか。



バスで断層がみられる場所まで移動しました。
砂の層と泥の層が交互に重なった地層は、よく見るとずれている箇所ばかりです。
このような土の上に原発は立地しているといいます。
ぼろっと手で掴みとることができました。柔らかいんですけど。


さらにバスは移動し、海岸まで。
遠州灘って、はじめてだ~!!
駿河湾と風景は一変し、激しく風が吹き付け、
真っ白い波頭が立ちつづけている海原でした。
息ができない~!!

強風になぶられながら、よちよちと大石さんの後をみんなでついて行きました。

ここは津波対策とかで、高さ18メートルの壁を建設しているということでしたが
地震の揺れへの対策はこれまでどおりで、津波の対策だけを強化するという・・・・。
なんかへんじゃないかい?


それも、18メートルの壁は、延々とつづく海岸線の途中で中途半端に終わる予定。
何故かというと、中電の所有の土地はそこまでしかないから。
壁のない所から津波がまわりこんだら、即アウトです。


聞けば聞くほど、ぞーっとするお話。



沖合に取水口、また敷地から海へ延びる排水口が見えました。
18℃の海水をとりこみ、25℃になった海水を毎秒60トン、排出しているそうです。
それだけでも、相当な環境破壊をし続けていると気持ちが重くなります。
この期に及んで、中電のパンフレットは
「原子力だから、できることがある」というキャッチフレーズで
「発電時に」CO2を出さないのオンパレードなのでした。


風に吹かれて必死に歩きながら、同行の女性が
「なにもないところに原発をたてるというけれど・・・・
人が住まなくても、なにもなくても、こういう風景のままで、どうしていけないのかしらね・・・・」
とわたしに言いました。

美しく、厳しい自然の風景でした。
でも、日本はこういうところに原発が建ってしまう・・・・。







使用済み核燃料を搬出するためにできたという「原発道路」を通ってバスは牧之原市へ。
大石さんが公民館を予約してくださっていました。

咋年くらいまでは、この道路いっぱいに大きなトラックが核燃料を積み
数キロ先にある御前崎港まで運んでいたそうです。
原発のすぐそばに搬出用の港があるのが普通だそうですが浜岡にはありません。
御前崎港から船で六ヶ所村まで運ばれていたのですね。現在は行われていません。



公民館には、長野栄一さんという、とっても元気な男性が待っていてくださいました。
大石さんが、長年原発問題に取り組んでいる尊敬する方だということでした。

長野さんは浜岡原発を考える静岡ネットワーク代表であり、また
浜岡原発とめます本訴の会としてもご活躍中です。
2002年4月、長野さんらは、 中部電力を相手に、浜岡原発運転停止の民事差し止め仮処分申請を、静岡地裁へ提訴しました。

2007年に敗訴判決が出ましたが控訴、現在は東京高裁まであがっています。


「わたしは戦争中は横須賀で船乗ってて」と言われるのですが、お歳をきいてビックリ!
なんともうすぐ91歳だそうです。

長野さんは、地元では原発に反対と言うと奇異の目で見られ、
揶揄されたり、けなされたりというのが常だったそうです。
そんななかでも、2,3人で、大石さんたちと細々とやってきたんだ、と語りました。

「もし原発反対署名なんかやったら大変だ、その名簿を提出に行くと行政が
反対した人を調べて電話かけるんだから」
「金なんか、紙袋に入れて飛び交うよ」


と、九電のやらせメールなんかメじゃないよ!と噛みしめるように言われたのが印象的でした。
「まるで戦争中に反対を言うのと同じようだ。清水の舞台から飛び降りるような」
と、ほんとうに厳しい中で取り組みをされてきたのだなあと感じました。


3・11以降、原発をとりまく世論は急激に変わりましたが
浜岡の場合、浜松市にあり莫大な固定資産税を支払ってくれるスズキ自動車が
原発にたいして危惧を表明したことがなんといっても大きかったことでした。

原発で中電が落とす補助金よりも財政にとっては、スズキ自動車の存在の方が重要なのです。


大石さんと長野さんは、今回の震災により
国の要請で現在浜岡は運転を停止しているが、またいつ国が稼働を要請してくるかわからない、と口を揃えます。

そのとき、やっと原発の危険性を言うようになった地元の住民の声は反映されるのか?
牧之原市長は住民投票を行うといい、
吉田町では廃炉の意見書を提出するという動きにまでなっているが
まだまだ力が弱いということでした。


そのためには、周りからの声や、世論の盛り上がりがとても重要とのことでした。
小田原からも、事故の当事者として声をあげてほしい、
まして市議会でなにか動いてくれたら、ということでした。



長野さんとお別れをし、大石さんの太陽光発電の養鶏場を見学して帰路につきました。
今回のツアーでは、小田原の女性市議、6人中4名の参加があったのです。
なにかこのあと、原発にたいしてアクションを起こすのかな、と期待します。


帰り道はでっかい富士山とまんまるのお月さまが目を楽しませてくれました。




3回のピースツアーをやり終えて、
わたしはやはり、現場に足を運んで、そこで足を踏ん張って生きている人の話をきくのが
とっても大事なことだと思っているということです。

明大のある旧陸軍登戸研究所跡では、埋もれた歴史を、地元の中学生が紐ときました。
それをきっかけに、地道な保存運動が続けられ、実を結びました。

横須賀のアメリカ軍、自衛隊の混在する軍港には、港湾法などを上手に使いながら25年間、基地をなくす運動を続けてきたひとびとがいました。


また今日の浜岡でも、ほんの一握りのひとびとが、周りに傷つけられても信念を曲げずに歩んできて、新たな流れをつくりだしています。

そしてこれはピースツアーではないけれど、
祝島のひとびとも、30年間ずっと、命と海を金に換えずにがんばってきたのを現地で、会って、話を聴いて、感じてきました。


どの歩みも、厳しく、くじけそうな
いうなれば数でいったら負け、圧倒的に少数者の歩みなのですが
わたしの逢ったひと、みんな清々しいというか
誇り高く、真に尊敬に値するひとびとなのでした。


わたしは、このひとびとのように強くがんばれるのかな?と思うと本当に頭がさがるし
言葉もなくて、ただ話をきいてるだけでいいのかい?と自問します。
でも、こういった流れのなかの1滴に、わたしもなってるから、と
そしてここに参加したあなたにも、そう思ってほしいと感じています。

























最後の子どもたち

2011-12-09 | Weblog
今日子どもと風呂に入りながらふと思い出した。
表題の物語を。



父が、わたしに読みなさいと渡してくれた本だ。
どこか、外国のお話。
その小さな町のむこうでどうやら、核戦争が起こったらしい。
なにも状況のわからない家族だったが、それでも必死に子どもたちを守り
逃げながら住みかをみつけ、なんとか暮らしていくというあらすじだったと思う。


そのときはわたしは小学校6年生か、中学生くらいだったと思う。
冷戦とか、アメリカの核が日本を守ってくれるとか、子どもたちの間でもいろいろ言われていた。
わたしは戦争がこわかった。

この本に出てくる子どもたちを自分に重ねて読んでいた。





どんどん子どもたちが死んでいく。
ある子は原爆症で。ある子は自ら死を選び、
ある赤ちゃんは生まれながらの障害で父親の手によって。


読めば読むほど、もう、本当に戦争が起きたらどうしよう、と毎晩眠れなくなった。
そんな怖い事を考える自分に腹をたて、夜中自分の頬をぶったりしていた。



ある日父が笑いながらわたしにたずねた。
「あのお父さんが貸した本、読んだの?」



わたしはまくしたてるように叫んだ。

「○○も、××も、一生懸命生きようとしていたよ!でもみんな死んじゃうの!」


目を丸くしていた父。
父は知り合いに薦められて、もらったか買ったかしたが、まったく読んでいなかったのだと
そのときわかった。




巻末には詩があったと思う。
サイロに最後まで残ったゴキブリさえ死に絶え、
人々の魂は青い天使になって笑いながら天に昇っていったのではなかったか??

怖くて一度しか読まなかったので不確かだけど



今思い出せば、わたしはこのときからずっと
「戦争が起こりませんように」とみえない神さまにおいのりしてきたように思う。

時を経て、まさか自分の子どもたちが被ばくし、これからの長い人生を
放射能という恐ろしい命をおびやかすものと付き合う事になってしまうとは


このことも神さまにおねがいしておけばよかったのか。
いや、そんなことではない。
今となっては自分のふがいなさを嘆くばかりだ。



パソコンで調べてみたら、この
「最後の子どもたち」、ドイツの作品で、西ドイツを舞台に
グードルン・パウゼヴァングによって1983年に書かれた小説だそう。

わたしはこちらはまだ読んでいないが
原発事故を題材にした「みえない雲」と同じ作者だとはじめて知った。




Steam Is Good

2011-12-06 | Weblog
雨の中仕事から帰って白い息を吐きながら台所へ直行


ブロッコリーを茹でる寸胴
お米を炊く土鍋
じゃがいもの味噌汁の片手鍋
シュウマイを蒸す両手鍋
イカの炒めもののフライパン

蒸気に蒸されてあたししあわせ。


すてぃーむ いず ぐううっ。


腹ぺこの大食漢たちがあたしを生かしてる。

裁判傍聴パート2

2011-12-05 | Weblog
敦化の遺棄毒ガスの裁判、また傍聴してきました。
初めて行ったのは今年5月です。

この記事です。



今回は遺棄毒ガス裁判で初めて、外務省の官僚を政府側証人として2名の尋問が行われました。

元外務省職員一人と,現在の外務省中国課長です。
これは国の裁判でもとても画期的とのこと。

11時から始まり、昼休みをはさんで17時近くまでかかりました。




敦化事件は,2004年7月23日,中国吉林省敦化の郊外の村を流れる小川で遊んでいた少年2人が旧日本軍が遺棄した毒ガス弾を拾い上げ漏れた毒ガス液に被毒した事件です。

今日は、その被害が起こる前の1991年、外務省の人たちが中国側の要請で遺棄化学兵器の実態調査に行き、
さらにこの敦化事件と同じ場所で50年代に被害に遭った人と面談していたそうですから

「この悲惨な事件が起きる前に危険性は知ってたはずでしょ!」という追及を行うのが原告弁護団の目的でした。




当時の現地調査団団長も
当時通訳を行った、現在の外務省アジア太平洋局州中国、モンゴル課課長も


被害者には会ったかもしれないが記録もメモもない・・・
写真は撮ったかもしれないが定かでない・・・・
調査には行ったが、日本軍が兵器を遺棄した場所は広大すぎて特定できない・・・・
具体的な場所を中国側から示されてないし、調査も頼まれていない・・・・


などという回答でした。



たとえば、もし自分の庭に、だれかが毒をまいたとしたら
誰が回収するべきなんでしょう??

そしてその毒をまいた人が
「たくさんまいちゃって、どこだかわかんないから探せない」
と言ってほったらかしにしていたら、やっぱり子どもが生涯苦しむ被害を受けてしまいました。
でもその毒をまいた人は
「あのとき探して処理してって頼まれてませんから」
って責任のがれをして、それが通用してしまう。

考えてみれば、放射能まみれのこの国は今の問題も、そんなふうにすでにのがれている。




ああ、こうやって、
戦後責任も、公害も、医療過誤も。
命がふみにじられていくんだなあ。


なんの良心の呵責もないかのように
「被害者と会ったことはほとんど覚えていない」
「50年代の被害者なんてあまりにも昔で信じられない」
「被害者の(骨まで腐食した)傷は見たかもしれないが、それはわたしたちの本来の目的とは違う」
などと言ってのける。


ふつう、ただ「あなたの国の棄ててった兵器片付けてください」と言われるより
こんなに被害者がいますよ、と言われたほうがすごい印象に残るとおもうけどなあ。

半信半疑でも、一応、本当かどうか確かめたり
診察を受けてもらったり
その人たちが「地面から砲弾が突き出てますよ」という場所を調べたり
するとおもうけどなあ。


調査団は帰国してからとくに指示をだしたわけでもなく
結局甚大な被害を出すまで手をこまねいていたのか。

いままで多くの市民が勇気を振り絞って声をあげ
このように踏みつけられてきました。人の痛みを想像もできない人間たちに。
その現場をつぶさに見られました。






以上、今日の裁判の感想でした。
つたなくてごめんなさい。
次回はいよいよこれが最終!
来年2月13日月曜日です。

東京地裁103号法廷(大法廷)ですよ!!











みんなでいきたい

2011-12-02 | Weblog
チェルノブイリの事故のあと
ソ連は子どもたちやお母さんたちをそこに留まらせていたかしら。

チェルノブイリで野菜を作らせたかしら。

食べて応援と言って国民に食べさせたかしら。

若者たちを集めてマラソン大会をしたかしら。

マスクも防護服も着けない人たちに除染作業をさせたかしら。

放射能を帯びたたくさんの瓦礫を全国各地で燃やさせたかしら。

原発を外国に輸出したかしら。




絶望するな、とわたしの友人は いうけれど。
この国はどこかが絶望的にくるっているとおもう。


ゆっくりわたしたちはころされている。

まわりには考えすぎだと笑われるけど
そうおもう。

わたしにはこの国の政府が
もう誰が見ても敗けてるのに日本刀振りかざしながら
逃げるな!と叫んで手榴弾や青酸カリを渡してくる上官のように見える。





ノモンハンで、中国で、ジャワで、ルソンで、
沖縄で。

戦争中多くの日本人が最後まで国が助けにくると信じて死んでいったでしょう。
とっくに捨てられていることも知らずに。

まだ国が国民の命を守ってくれるって信じてるなら
それは例えるならこの人びとと同じです。





そして同時に戦争中は、国民は海の向こうの人々の被害も
日本人の行う加害も知ることなく勝ち戦だと熱狂していました。

現代のわたしたちの大量消費という熱狂の足下には
虫けらのように扱われた作業員の命や
金の力で曲げられ、ねじ伏せられた情報や
金で黙らされた小さな村々や
レッテルを貼られ耳を傾けてもらえなかったジャーナリズムがありました。







もうわたしたちは気付きました。
同じ轍を踏んでしまったかもしれない。
わたしの祖父母は戦争をとめなかった。
わたしの両親は原発の建設をとめなかった。
でも今のわたしたちにできることあるでしょう。

「無理しないでできる範囲で」なんて言わない。
みんながちょっと本気だして、相当がんばらないとね。
相手は強大で、油断してると責任取らないですぐ逃げます。


「自分たちも国策を支えてたんだから」なんて諦めたような微笑しながら責任をあいまいになんかもうしないんです。
みんなで生きるんだよ、これからも。