夫は普段どおり仕事で
わたしも普段どおり仕事で
おお、かわいそーな子どもたち!と思っていたら
ともだちが子どもたちをわんぱくらんどに連れていってくれました。
車にのっけて風のように
今日はわたしはお風呂の介助
労働のよろこびがおおきいぶん、体はへろへろで
だから今日はたすかっちゃった。
子どもたちを預かったり泊めたり遊んだりしてくれるのは
あきらかにわたしよりも働いているひとたち。
ともに育てていってくれる人のいる心強さ。
ともに成長をよろこんでくれる人のいるうれしさ。
愚痴をきいてくれる人のいるありがたさ。
くだらないことで一緒に笑ってくれる人のいるあたたかさ!
もう今日は腰がダメダメなので
先に一人で入らせてもらったわ。
一個だけあったゆず。
夫が帰宅するなり
「だるま市行くよー」と言って、
車で5分ほどの、小台のお寺に連れていってくれました。
だるま1号、500えん。買いました。
平塚で作っています。
ご住職が作ったという小麦粉を販売していました。
田んぼの裏作で小麦を作っているそうです。
天日干しだって。
小麦粉と大麦粉を買いました。
中井の金子製麺で作ったうどんも買いました。
全粒粉の玄(くろ)うどんと、富山の大麦が3割入った大麦うどん。
温かいうどんの屋台も出ていたので、食べました。100えん。
こしがあって、ちょっとざらざらしていて、おいしい。
近所の人たちがつぎつぎに靴をぬいで、
観音さまにおまいりしていました。
夫はおかざりの大王松を買いました。
いけると花みたいにぱっとひろがるんです。
車に乗ろうとしたら、ながーい流れ星がみえました。
青白い光で。ゆっくり。
「だるま市行くよー」と言って、
車で5分ほどの、小台のお寺に連れていってくれました。
だるま1号、500えん。買いました。
平塚で作っています。
ご住職が作ったという小麦粉を販売していました。
田んぼの裏作で小麦を作っているそうです。
天日干しだって。
小麦粉と大麦粉を買いました。
中井の金子製麺で作ったうどんも買いました。
全粒粉の玄(くろ)うどんと、富山の大麦が3割入った大麦うどん。
温かいうどんの屋台も出ていたので、食べました。100えん。
こしがあって、ちょっとざらざらしていて、おいしい。
近所の人たちがつぎつぎに靴をぬいで、
観音さまにおまいりしていました。
夫はおかざりの大王松を買いました。
いけると花みたいにぱっとひろがるんです。
車に乗ろうとしたら、ながーい流れ星がみえました。
青白い光で。ゆっくり。
この前の土曜日は、登戸と日吉をはしごしました。
どちらも戦争遺跡があり、
市民の会の方々の活動によって、定例見学会がおこなわれています。
この日はたまたま、同じ日に見学会が重なったため、強行軍でしたが行って来ました。
まず登戸。明治大学へ。
旧陸軍登戸研究所は、当時は11万坪の敷地の中に80棟以上もの建物を有する巨大な施設でした。
http://www.geocities.jp/noboritokenkyujo/whatweare.html
しかしその存在は極秘にされ、正式名称「陸軍第9技術研究所」はあらゆる陸軍法規から抹消されていたそうです。
戦後は跡地の3万坪を明治大学が購入、現在は生田校舎として使用されています。
「登戸研究所」の任務は、第二次大戦における秘密戦、謀略戦にかんする研究だったそうです。
もらった資料には
「風船爆弾」、「特殊無線機」、
「く号兵器(くわいりき光線=怪力光線)」「人工雷」、
「毒物合成」、「杉工作(贋札作戦)」など、ぞーっとするような文字が並びます。
ここは数多くの地元住民も含めて1000人もの人が働く巨大な秘密兵器生産工場だったのでした。
敗戦とともに資料はすべて抹消されたはずでした。手伝った住民たちも生涯秘密を守るよう言い渡されたそうです。
しかし20年ほど前に地域の戦争のことを調べているうち
「ここは戦時中、稲が育たなかった」という証言をもとに少しずつ人々がひもといて行き、
全容が明らかになっていったそうです。
熱心な保存運動が実り、明大の協力によって2010年には資料館の開設も予定されています。
敷地内に現存するのは、
・動物慰霊碑
・消火栓
・3科倉庫
・3科製版印刷
・2科科学研究室
・2科枯葉剤研究室
・弾薬庫
・弥心神社
です。明大は、新しい建物を作るために古い建物を壊して、そこに建ててきたわけですが、
まだこれだけの施設は残っています。
動物慰霊碑
自転車・バイク置き場の狭間にそびえています。
ここでは青酸ニトリールなどの遅効性の毒物が開発されたそうです。
昭和18年には東条英機の名で陸軍技術有効賞の授与が行われています。
犬、猿、豚、兎、モルモットなどが飼われていた、と当時を知る住民の証言にあるそうです。
とくに豚は肌質が人間に似ているということで実験に供されたそうです。
完成すると中国で人体実験を行ったということです。
消火栓
陸軍の☆マークがついた消火栓が2箇所、残っています。
周囲は田んぼや畑に囲まれ、住民は井戸水をくんで使っていました。
爆薬を頻繁に使用していたということが裏付けられます。
この付近に風船爆弾を開発した建物があったということです。
直径10メートルの風船に水素を入れ、偏西風に乗せて飛ばし、爆弾をつけてアメリカに飛ばしました。
小田原の製紙工場でも、コウゾから作る和紙を製造しています。
当時は多くの学生が動員されました。
「12時間交代で、ヒロポンを使わされた」という痛々しい話を聞きました。
爆弾の代わりに搭載する牛疫ウィルスの研究もされていたそうです(実際には使われず)。
3科倉庫
3科製版印刷(25号棟、26号棟)
古い木造で、ぼろぼろです。当時は周囲に塀がめぐらされ、「秘中の秘」だったそうです。
中国の贋札を製造していました。香港にあった国民政府の造幣所から
「原版を奪って印刷、製造した」そうです。本物の偽物・・・。
中国の経済の混乱、親日分子の買収、物資の現地調達などを狙って作られたそうです。
これは、当然、トップシークレットですよ・・・。
2科枯葉剤研究室(36号棟)
当時にしては強固なコンクリートの分厚い建物です。今は明大の実験室になっています。
ここが2010年資料館として生まれ変わる予定です。
アメリカのとうもろこし、じゃがいも、小麦などに使う枯葉剤の研究に使われていました。実際中国の稲に1941年散布されたそうですが、効果は不明だそうです。
キノコの毒、ヘビの毒なども研究されていたとか・・・。
弾薬庫
缶詰爆弾、毒蛇などを入れた注射器、毒入りチョコレートなどが保管されていたそうです。
戦局が悪化し、物資面でも枯渇しきっていた中で、生物兵器の研究、開発にすがっていた軍部の焦りを感じました。
弥心神社
生田神社といいますが、当時は「やごころじんじゃ」と呼ばれていたそうです。
弥心とは、発明、発見の神様だそうで、研究のなかで死亡した所員もまつられているそうです。
駆け足で約2時間のツアーでしたが、案内してくださった女性と男性をふくめて参加者は5人でした。
女性は「こうして毎月ガイドすることで、大学側にも保存の意思をアピールしています」とおっしゃっていました。
木造の建物は、老朽化、新しい建物の建設を理由に保存が危ぶまれています。
川崎市も、保存には積極的ではないようです。
たしかに維持にはお金もかかるし、面倒なことも多いでしょう。
でも、これからの若い人のために残してほしいです。
当時駆り出された人々は、お互いに秘密を守りながら暮らしてきました。
部分的な仕事を与えられ、決して全容が把握できないような巧みなシステムに乗せられていたのでした。
「ここは楽しくて別天地だった」と語る人たちからは、加害に加わった、戦争に加担したという意識は薄いのでした。
でも、きっとわたしも、そう思ったかもしれません。
今に引き寄せて考えたとき、わたしたちも知らずにかかわってないだろうか?
気づかないでやってることはないだろうか?
科学、化学を間違った方向に使わせないようみんなが気をつけているだろうか?
この研究所跡は、そんなことを考えさせてくれる、貴重な資料です。
どちらも戦争遺跡があり、
市民の会の方々の活動によって、定例見学会がおこなわれています。
この日はたまたま、同じ日に見学会が重なったため、強行軍でしたが行って来ました。
まず登戸。明治大学へ。
旧陸軍登戸研究所は、当時は11万坪の敷地の中に80棟以上もの建物を有する巨大な施設でした。
http://www.geocities.jp/noboritokenkyujo/whatweare.html
しかしその存在は極秘にされ、正式名称「陸軍第9技術研究所」はあらゆる陸軍法規から抹消されていたそうです。
戦後は跡地の3万坪を明治大学が購入、現在は生田校舎として使用されています。
「登戸研究所」の任務は、第二次大戦における秘密戦、謀略戦にかんする研究だったそうです。
もらった資料には
「風船爆弾」、「特殊無線機」、
「く号兵器(くわいりき光線=怪力光線)」「人工雷」、
「毒物合成」、「杉工作(贋札作戦)」など、ぞーっとするような文字が並びます。
ここは数多くの地元住民も含めて1000人もの人が働く巨大な秘密兵器生産工場だったのでした。
敗戦とともに資料はすべて抹消されたはずでした。手伝った住民たちも生涯秘密を守るよう言い渡されたそうです。
しかし20年ほど前に地域の戦争のことを調べているうち
「ここは戦時中、稲が育たなかった」という証言をもとに少しずつ人々がひもといて行き、
全容が明らかになっていったそうです。
熱心な保存運動が実り、明大の協力によって2010年には資料館の開設も予定されています。
敷地内に現存するのは、
・動物慰霊碑
・消火栓
・3科倉庫
・3科製版印刷
・2科科学研究室
・2科枯葉剤研究室
・弾薬庫
・弥心神社
です。明大は、新しい建物を作るために古い建物を壊して、そこに建ててきたわけですが、
まだこれだけの施設は残っています。
動物慰霊碑
自転車・バイク置き場の狭間にそびえています。
ここでは青酸ニトリールなどの遅効性の毒物が開発されたそうです。
昭和18年には東条英機の名で陸軍技術有効賞の授与が行われています。
犬、猿、豚、兎、モルモットなどが飼われていた、と当時を知る住民の証言にあるそうです。
とくに豚は肌質が人間に似ているということで実験に供されたそうです。
完成すると中国で人体実験を行ったということです。
消火栓
陸軍の☆マークがついた消火栓が2箇所、残っています。
周囲は田んぼや畑に囲まれ、住民は井戸水をくんで使っていました。
爆薬を頻繁に使用していたということが裏付けられます。
この付近に風船爆弾を開発した建物があったということです。
直径10メートルの風船に水素を入れ、偏西風に乗せて飛ばし、爆弾をつけてアメリカに飛ばしました。
小田原の製紙工場でも、コウゾから作る和紙を製造しています。
当時は多くの学生が動員されました。
「12時間交代で、ヒロポンを使わされた」という痛々しい話を聞きました。
爆弾の代わりに搭載する牛疫ウィルスの研究もされていたそうです(実際には使われず)。
3科倉庫
3科製版印刷(25号棟、26号棟)
古い木造で、ぼろぼろです。当時は周囲に塀がめぐらされ、「秘中の秘」だったそうです。
中国の贋札を製造していました。香港にあった国民政府の造幣所から
「原版を奪って印刷、製造した」そうです。本物の偽物・・・。
中国の経済の混乱、親日分子の買収、物資の現地調達などを狙って作られたそうです。
これは、当然、トップシークレットですよ・・・。
2科枯葉剤研究室(36号棟)
当時にしては強固なコンクリートの分厚い建物です。今は明大の実験室になっています。
ここが2010年資料館として生まれ変わる予定です。
アメリカのとうもろこし、じゃがいも、小麦などに使う枯葉剤の研究に使われていました。実際中国の稲に1941年散布されたそうですが、効果は不明だそうです。
キノコの毒、ヘビの毒なども研究されていたとか・・・。
弾薬庫
缶詰爆弾、毒蛇などを入れた注射器、毒入りチョコレートなどが保管されていたそうです。
戦局が悪化し、物資面でも枯渇しきっていた中で、生物兵器の研究、開発にすがっていた軍部の焦りを感じました。
弥心神社
生田神社といいますが、当時は「やごころじんじゃ」と呼ばれていたそうです。
弥心とは、発明、発見の神様だそうで、研究のなかで死亡した所員もまつられているそうです。
駆け足で約2時間のツアーでしたが、案内してくださった女性と男性をふくめて参加者は5人でした。
女性は「こうして毎月ガイドすることで、大学側にも保存の意思をアピールしています」とおっしゃっていました。
木造の建物は、老朽化、新しい建物の建設を理由に保存が危ぶまれています。
川崎市も、保存には積極的ではないようです。
たしかに維持にはお金もかかるし、面倒なことも多いでしょう。
でも、これからの若い人のために残してほしいです。
当時駆り出された人々は、お互いに秘密を守りながら暮らしてきました。
部分的な仕事を与えられ、決して全容が把握できないような巧みなシステムに乗せられていたのでした。
「ここは楽しくて別天地だった」と語る人たちからは、加害に加わった、戦争に加担したという意識は薄いのでした。
でも、きっとわたしも、そう思ったかもしれません。
今に引き寄せて考えたとき、わたしたちも知らずにかかわってないだろうか?
気づかないでやってることはないだろうか?
科学、化学を間違った方向に使わせないようみんなが気をつけているだろうか?
この研究所跡は、そんなことを考えさせてくれる、貴重な資料です。
慌ただしく登戸のガイドの方にお礼を言って、電車を乗り継いで日吉に駆けつけました。
最初ちがった出口からでてしまい、
カフェやバーやスポーツクラブがあるビルは駅ビルかと思ったら、
慶応の施設?でした。
待ち合わせ場所に行くと、高齢の男性が30人ほど集まっていて、
みんな地下壕見学の人と知って、びっくり。
この「日吉台地下壕保存の会」http://hiyoshidai-chikagou.net/
は20年も活動されているそうです。
やはり知名度が高いのかな・・・。
ご一行様、てな感じでぞろぞろ、ぞろぞろ、たのしくキャンパスの正門を歩いていきます。
慶応大は1934年に予科の生徒1000名を迎えた8年後、
1944年3月10日から敗戦まで、海軍に敷地、建物を貸与したのでした。
これによって日吉には海軍軍令部、人事局、連合艦隊司令部が移転してきたそうです。
そしてこの市民の会の名前にあるように、巨大な地下壕をつくり、活動したのでした。
従来、海軍というのは海の上から(軍艦から)指示を出していたんですね。
知りませんでした。
連合艦隊の旗艦大淀という船が海上で指揮をとっていたものが、
軍艦も少なくなり、大淀を戦力で使うため、また通信技術も発達したため、
海軍も陸にあがることとなったそうです。
そして大本営にちかく、横須賀にも近く、無線の受信状態がよく・・・という条件にかなった場所として慶応大が選ばれ、
賃貸借契約が結ばれたそうです。
1944年9月29日から、学生の使っていた(現在も使われている)寄宿舎が
連合艦隊司令部となり、
巨大地下壕は1944年7月15日から建設が始まりました。
約半年で30メートル地下に、延長2600メートルもの迷路のような壕を作ったというのですから、
そのスピードと現在も確かめられる丈夫さには驚きです。
懐中電灯を持って入りましたが、
60年以上も前にできたとは思えないつくりです。
ところどころぬかるみや、わずかな水たまりなどはありましたが
等間隔にマンホールがあり(現在は鉄板でふたがされています)、
排水のために溝が掘られていました。
30メートルも地上から下っているとはいえ、空気も流れており
まったく息苦しさを感じませんでした。
ここには機械室、司令長官室、
バッテリー充電室、食料倉庫、水洗式便所、暗号室、作戦室などの施設があり、
当時は珍しかった蛍光灯を備え、昼のように明るかったということでした。
今はぽっかりと空いた四角い空間を、ガイドさんの説明によって想像するしかないのですが。
司令長官はじめ幕僚たちは、空襲などがあると126段の階段をくだって地下に降り、
ここで沖縄戦などの作戦を練っていたとか。
地上の司令部に使われた寄宿舎のほうは、大学側の、生活する生徒へのプライバシーの配慮から、
見学することはできませんでした。
1937年にこの建物ができたときは「東洋一」とうたわれた学生憧れの寮だったということです。
全室洋室の個室、パネルヒーティング、水洗トイレをそなえ、
別棟には円形のローマ風呂もあったとか。
みてみたい!
そんなすてきな建物が、軍隊に使われたんですね。
ガイドの方は「会の名前は地下壕保存の会ですが、この地上の施設もあわせて、
大変重要なんですよ」と、敷地の外でお話してくださいました。
この日は30人ほどの参加者に6人のガイドさんがいらっしゃいました。
多い日には60人ほどガイドされることもあるそうです。
近年は年間1000人の児童たちを案内されているとか。
地道にガイドを続けていらした方々の取り組みに敬意を抱きました。
月に一度、どちらも定例で見学会を行っています。
おすすめですよ!
最初ちがった出口からでてしまい、
カフェやバーやスポーツクラブがあるビルは駅ビルかと思ったら、
慶応の施設?でした。
待ち合わせ場所に行くと、高齢の男性が30人ほど集まっていて、
みんな地下壕見学の人と知って、びっくり。
この「日吉台地下壕保存の会」http://hiyoshidai-chikagou.net/
は20年も活動されているそうです。
やはり知名度が高いのかな・・・。
ご一行様、てな感じでぞろぞろ、ぞろぞろ、たのしくキャンパスの正門を歩いていきます。
慶応大は1934年に予科の生徒1000名を迎えた8年後、
1944年3月10日から敗戦まで、海軍に敷地、建物を貸与したのでした。
これによって日吉には海軍軍令部、人事局、連合艦隊司令部が移転してきたそうです。
そしてこの市民の会の名前にあるように、巨大な地下壕をつくり、活動したのでした。
従来、海軍というのは海の上から(軍艦から)指示を出していたんですね。
知りませんでした。
連合艦隊の旗艦大淀という船が海上で指揮をとっていたものが、
軍艦も少なくなり、大淀を戦力で使うため、また通信技術も発達したため、
海軍も陸にあがることとなったそうです。
そして大本営にちかく、横須賀にも近く、無線の受信状態がよく・・・という条件にかなった場所として慶応大が選ばれ、
賃貸借契約が結ばれたそうです。
1944年9月29日から、学生の使っていた(現在も使われている)寄宿舎が
連合艦隊司令部となり、
巨大地下壕は1944年7月15日から建設が始まりました。
約半年で30メートル地下に、延長2600メートルもの迷路のような壕を作ったというのですから、
そのスピードと現在も確かめられる丈夫さには驚きです。
懐中電灯を持って入りましたが、
60年以上も前にできたとは思えないつくりです。
ところどころぬかるみや、わずかな水たまりなどはありましたが
等間隔にマンホールがあり(現在は鉄板でふたがされています)、
排水のために溝が掘られていました。
30メートルも地上から下っているとはいえ、空気も流れており
まったく息苦しさを感じませんでした。
ここには機械室、司令長官室、
バッテリー充電室、食料倉庫、水洗式便所、暗号室、作戦室などの施設があり、
当時は珍しかった蛍光灯を備え、昼のように明るかったということでした。
今はぽっかりと空いた四角い空間を、ガイドさんの説明によって想像するしかないのですが。
司令長官はじめ幕僚たちは、空襲などがあると126段の階段をくだって地下に降り、
ここで沖縄戦などの作戦を練っていたとか。
地上の司令部に使われた寄宿舎のほうは、大学側の、生活する生徒へのプライバシーの配慮から、
見学することはできませんでした。
1937年にこの建物ができたときは「東洋一」とうたわれた学生憧れの寮だったということです。
全室洋室の個室、パネルヒーティング、水洗トイレをそなえ、
別棟には円形のローマ風呂もあったとか。
みてみたい!
そんなすてきな建物が、軍隊に使われたんですね。
ガイドの方は「会の名前は地下壕保存の会ですが、この地上の施設もあわせて、
大変重要なんですよ」と、敷地の外でお話してくださいました。
この日は30人ほどの参加者に6人のガイドさんがいらっしゃいました。
多い日には60人ほどガイドされることもあるそうです。
近年は年間1000人の児童たちを案内されているとか。
地道にガイドを続けていらした方々の取り組みに敬意を抱きました。
月に一度、どちらも定例で見学会を行っています。
おすすめですよ!