朝起きたらだるかった。
微熱があった。
子どもの宿題のマルつけをした。
乾いた水着をしまった。
防災ずきんを洗った。
人から借りた本を読んだ。
人から借りた三線弾いた。
連絡しなくちゃいけないこと、
書かなきゃいけないこと、
返事しなくちゃいけないこと、
こうやってぎりぎりまで引きのばしてる。
「もうこのまま秋かしらー」と
イヤな自分を見て見ぬふりして雨をながめてる。
微熱があった。
子どもの宿題のマルつけをした。
乾いた水着をしまった。
防災ずきんを洗った。
人から借りた本を読んだ。
人から借りた三線弾いた。
連絡しなくちゃいけないこと、
書かなきゃいけないこと、
返事しなくちゃいけないこと、
こうやってぎりぎりまで引きのばしてる。
「もうこのまま秋かしらー」と
イヤな自分を見て見ぬふりして雨をながめてる。
子どものころ夏にはバスに乗ってよく本牧のプールにいった。
20年以上も経っていることと気づきあらためて思い出そうとしたが、
古ぼけたフィルムをみるようで記憶もあいまいだ・・・。
市営バスに乗って国道を走っていく。
街を抜けて、真夏の原っぱの中をただただ揺られていく。
ビニールのバッグを持って乗りこんでくる子どもたちは皆同じところへ
向かっているのだ。
「あれアメリカ人の家だよ」と誰かが言う。
遠くにある家はゆっくりと車窓を過ぎていく。
「本当だ、日本の家と違う気がする」と思う。
あまりにも長くだらだらと道がつづくのでいつも飽きる。
他の子たちのおしゃべりも少し静かになったころ、
プールの停留所に着く。
そこは横浜では当時は大きく立派な施設でいつもにぎわっていた。
遊んでいると誰かの投げたボールが飛んで来たり、
投げ返して「ありがとう」といわれたりした。
決まった時刻になると全員プールから上がるようにと放送があって、
休憩の時間をとらされた。
わたしたちは皆膝をかかえてプールサイドでじっと水の表面をみつめる。
背中がじりじりと焼けても日陰には行かなかった。
休憩の終わりを告げる合図とともに飛び込みたかったからだ。
子どもたちに見守られた無人のプールは不規則に光をゆらし、
たった10分を、待ちきれないほど長い時間に感じさせる。
「休憩ガ、オワリマシタ」という声が終わるか終わらないかのうちに
あちこちで祝砲のように水音が響く。
あの本牧の夏の光は、ぼんやりとして、もったりと包み込むようだった。
強烈な日差しの中で「ママ!」と呼ばれてはっと目がさめる白昼夢。
20年以上も経っていることと気づきあらためて思い出そうとしたが、
古ぼけたフィルムをみるようで記憶もあいまいだ・・・。
市営バスに乗って国道を走っていく。
街を抜けて、真夏の原っぱの中をただただ揺られていく。
ビニールのバッグを持って乗りこんでくる子どもたちは皆同じところへ
向かっているのだ。
「あれアメリカ人の家だよ」と誰かが言う。
遠くにある家はゆっくりと車窓を過ぎていく。
「本当だ、日本の家と違う気がする」と思う。
あまりにも長くだらだらと道がつづくのでいつも飽きる。
他の子たちのおしゃべりも少し静かになったころ、
プールの停留所に着く。
そこは横浜では当時は大きく立派な施設でいつもにぎわっていた。
遊んでいると誰かの投げたボールが飛んで来たり、
投げ返して「ありがとう」といわれたりした。
決まった時刻になると全員プールから上がるようにと放送があって、
休憩の時間をとらされた。
わたしたちは皆膝をかかえてプールサイドでじっと水の表面をみつめる。
背中がじりじりと焼けても日陰には行かなかった。
休憩の終わりを告げる合図とともに飛び込みたかったからだ。
子どもたちに見守られた無人のプールは不規則に光をゆらし、
たった10分を、待ちきれないほど長い時間に感じさせる。
「休憩ガ、オワリマシタ」という声が終わるか終わらないかのうちに
あちこちで祝砲のように水音が響く。
あの本牧の夏の光は、ぼんやりとして、もったりと包み込むようだった。
強烈な日差しの中で「ママ!」と呼ばれてはっと目がさめる白昼夢。
意見がちがっても
解決が見出せなくても
会えて、はなしあえたことを大事におもう。
昨日は席をたってしまっても、
今日はきちんとつたえよう。
ぜんぜん自分とちがっても、
その人を尊重しよう。
はなしあうことで
その人との距離が縮まった気がすれば
とてもそれはよいこと。
解決が見出せなくても
会えて、はなしあえたことを大事におもう。
昨日は席をたってしまっても、
今日はきちんとつたえよう。
ぜんぜん自分とちがっても、
その人を尊重しよう。
はなしあうことで
その人との距離が縮まった気がすれば
とてもそれはよいこと。
最近まいにち電線から飛ぶ練習をしているつばめたち。
まだ滑空は上手ではなく、
おぼつかないようすで一生懸命ばたばたとやって、
また電線にもどってきます。
でももつれあうように、じゃれあうように飛び回るのが
とても楽しげです。
10月を過ぎるといよいよ南へ渡ります。
マレー半島、オーストラリア、台湾、フィリピンなどまで行くそうです。
身体は小さくても頑丈で、一日300km飛ぶこともあるそうです。
まだ滑空は上手ではなく、
おぼつかないようすで一生懸命ばたばたとやって、
また電線にもどってきます。
でももつれあうように、じゃれあうように飛び回るのが
とても楽しげです。
10月を過ぎるといよいよ南へ渡ります。
マレー半島、オーストラリア、台湾、フィリピンなどまで行くそうです。
身体は小さくても頑丈で、一日300km飛ぶこともあるそうです。
妹夫婦が遊びにきたのでドライブして
川へ行きました。
澄んだ水は勢いよく流れていきます。
私を叱った人の顔や声、優しい人の嘆息、
会えなかった人の後ろ姿、電話のむこうのあたたかい声、
どうどうと響きわたる音のなかにいるとかえって心はしずかになり、
そんなものたちがぽかり、ぽかりと浮かんできます。
川へ行きました。
澄んだ水は勢いよく流れていきます。
私を叱った人の顔や声、優しい人の嘆息、
会えなかった人の後ろ姿、電話のむこうのあたたかい声、
どうどうと響きわたる音のなかにいるとかえって心はしずかになり、
そんなものたちがぽかり、ぽかりと浮かんできます。
加害の行われた地であり、また日本人戦犯が管理所生活によって
人間性を取り戻した再生の地であるとして
撫順をテーマに対談があり、出かけていきました。
齋藤氏は
「今こそ加害について考えなくてはいけない。
現在も“弱い軍事力で、奇矯な指導者がいて、資源はある”という国に
世界最強の軍事国が戦争をしかけていっているという構図になっている。
“被害に遭いたくないから戦争はいやだ”では自分のところが無事なら
いたくもかゆくもない、という感覚になってしまう」と語ります。
高橋氏は清沢冽氏の「暗黒日記」の1945年1月1日の記述を紹介したうえで
「日本は日清・日露いらい常に国外で戦争を続けてきたが、空襲を受けてはじめて
戦争の被害を市民は実感している。現在でも語られる被害は1945年1月1日以降
のことばかりである。いかに想像力をたくましくするかが大切」と話します。
会場は200人以上はいたでしょうか。超満員で若い人の姿が目立ちました。
軍事力の増強や憲法、平和の問題について強い関心をもっていることのあらわれだなー
と感じました。
人間性を取り戻した再生の地であるとして
撫順をテーマに対談があり、出かけていきました。
齋藤氏は
「今こそ加害について考えなくてはいけない。
現在も“弱い軍事力で、奇矯な指導者がいて、資源はある”という国に
世界最強の軍事国が戦争をしかけていっているという構図になっている。
“被害に遭いたくないから戦争はいやだ”では自分のところが無事なら
いたくもかゆくもない、という感覚になってしまう」と語ります。
高橋氏は清沢冽氏の「暗黒日記」の1945年1月1日の記述を紹介したうえで
「日本は日清・日露いらい常に国外で戦争を続けてきたが、空襲を受けてはじめて
戦争の被害を市民は実感している。現在でも語られる被害は1945年1月1日以降
のことばかりである。いかに想像力をたくましくするかが大切」と話します。
会場は200人以上はいたでしょうか。超満員で若い人の姿が目立ちました。
軍事力の増強や憲法、平和の問題について強い関心をもっていることのあらわれだなー
と感じました。
ホウさんが4歳のとき、家に日本軍が入ってきました。
お父さんが撃たれてしまいました。
残った家族(祖父母、母、弟、おば)とともに広場へと追いたてられました。
そこには平頂山地区のすべての住人3000人が集められていました。
「写真をとってやるから」とつれてこられた人もいます。
日本軍が機銃でいっせいに執拗に射撃を行いました。
家族がホウさんを抱きかかえかばいました。
どれくらいの時間がたったのか、あたりをうかがうと皆死んでいました。
「ママー」と泣く弟を兵隊が銃剣で刺し、放り投げました。
息のある人をひとりひとり突き刺してまわっていましたが、奇蹟的にホウさんは
無事でした。
日本軍がひきあげたあと、ひとりで村にもどると家はすべて焼かれていました。
また広場に戻り、死体の山からおじいさんを探し、生きていたときのように
よりそって眠りました。
1931年の柳条湖事件以降日本は中国への侵略を本格化させますが、
満州鉄道と並んで日本軍にとって重要な施設が撫順炭坑でした。
1932年9月、中国人への弾圧に抗議する抗日義勇軍の攻撃により
炭坑は大きな被害を受けました。
平頂山地区の住民が義勇軍の通過を日本軍に知らせなかったとして
広場に集めた約3000人に銃弾を浴びせ、生き残ったものは刺殺しました。
さらにすべての家を焼き払い、後日死体に重油をかけて燃やし、崖をダイナマイトで
爆破して死体を覆い隠しました。
ホウさん(78)はその事件で奇蹟的に生き残った数すくないうちの一人です。
二人の生き残った男性と1996年、事実を認め、謝罪してほしいと
日本政府に提訴しました。
しかし2006年5月、最高裁は事実を初めて認めたうえで上告を棄却しました。
隠し切れず事実は認めても、けっして謝罪はしないというこの国に私は生きています。
お父さんが撃たれてしまいました。
残った家族(祖父母、母、弟、おば)とともに広場へと追いたてられました。
そこには平頂山地区のすべての住人3000人が集められていました。
「写真をとってやるから」とつれてこられた人もいます。
日本軍が機銃でいっせいに執拗に射撃を行いました。
家族がホウさんを抱きかかえかばいました。
どれくらいの時間がたったのか、あたりをうかがうと皆死んでいました。
「ママー」と泣く弟を兵隊が銃剣で刺し、放り投げました。
息のある人をひとりひとり突き刺してまわっていましたが、奇蹟的にホウさんは
無事でした。
日本軍がひきあげたあと、ひとりで村にもどると家はすべて焼かれていました。
また広場に戻り、死体の山からおじいさんを探し、生きていたときのように
よりそって眠りました。
1931年の柳条湖事件以降日本は中国への侵略を本格化させますが、
満州鉄道と並んで日本軍にとって重要な施設が撫順炭坑でした。
1932年9月、中国人への弾圧に抗議する抗日義勇軍の攻撃により
炭坑は大きな被害を受けました。
平頂山地区の住民が義勇軍の通過を日本軍に知らせなかったとして
広場に集めた約3000人に銃弾を浴びせ、生き残ったものは刺殺しました。
さらにすべての家を焼き払い、後日死体に重油をかけて燃やし、崖をダイナマイトで
爆破して死体を覆い隠しました。
ホウさん(78)はその事件で奇蹟的に生き残った数すくないうちの一人です。
二人の生き残った男性と1996年、事実を認め、謝罪してほしいと
日本政府に提訴しました。
しかし2006年5月、最高裁は事実を初めて認めたうえで上告を棄却しました。
隠し切れず事実は認めても、けっして謝罪はしないというこの国に私は生きています。
戦争にいってころされた子、
戦争にいってころした子、
戦争にころされた子、
そういうはなしを見聞きするたび、
そんな子すべてが自分の子にみえてくる。
私はそのとき、どうなるの?と考えてみる。
そして今、そんな子のお母さんたちは、
どうやって生きているの?と考える。
戦争にいってころした子、
戦争にころされた子、
そういうはなしを見聞きするたび、
そんな子すべてが自分の子にみえてくる。
私はそのとき、どうなるの?と考えてみる。
そして今、そんな子のお母さんたちは、
どうやって生きているの?と考える。