うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

ねむれる森の

2008-10-31 | Weblog
あたしがおきなければ

ご飯はたけない
お弁当箱はうまらない

夫は仕事にいけないもん



あたしがおきなければ

お湯はわかない
朝ごはんはちゃぶ台にならばない

子どもは学校にいけないもん


あたしがおきなければ

猫も鳥も金魚も
おなかぺこぺこ


あたしがおきなければ

洗濯機はまわらず
お布団はしきっぱなし


みんな、ねむれる森のなか
空気がうごかない
回りださない


あたしは
このちいさな森の魔法使いか?
召使いか?


ままのいうとおり

2008-10-28 | Weblog
わたしは注意したわ。


あなたのことだから
行くなと言ったところで聞かなかったでしょう。
だから止めなかったけど


でも心配していたわ。


そこには何かあったの?



何もなかったでしょう。



自分の目でたしかめたのだから
納得できたわね。


きょうはもう


ゆっくりねむりなさい。

にがおえやさん

2008-10-25 | Weblog
子どもの通っていた幼稚園のバザーでした。

似顔絵やさんは、今年で5年目くらいのお手伝いです。

一枚400円というのは、ほかのバザーの品物やアトラクションにくらべたら
かなり高い印象だし、
一人15分はかかるので8~10人くらいがやっとです。
売り上げは父母の会の収益になりますが、効率は悪いでしょう。


それでも毎年人気なので、ありがたいことです。


怒涛のようにレジに人がならび
飛ぶように品物が売れ
ごったがえす嵐のような時間と

ちがった時間で子どもとわたしは向かい合って


でもわたしはちょっと
がさがさした空気が伝わってきて描きにくいのだけど


4歳の子でもちゃんとみててくれるので

気が散ってるのはわたしのほう!
ゴメンナサイと立て直します。
そっくりに描くからね。

れいたいさい。

2008-10-19 | Weblog
「例大祭日  四月二十二日 十月十八日 勅裁件如 靖国神社」
と、第二鳥居の右手にある高札には書かれています。


ちょくさいくだんのごとし。

勅裁、とは天皇がきめました、という意味です。





あー、やっぱり、天皇の神社なんだなあ。というこの日の感想。



まえからずっと興味があった靖国神社を、
今回ガイドさんの説明つきで巡ることができました。


土曜日は例大祭の日。
戦前は、御親拝といって天皇の参拝か、宮内庁からの勅使(お使い)の参向
どちらかがあったそうです。
戦後になった現在でも、この年2回勅使がお参りし、天皇からの御幣物をささげています。



午前10時09分、品川ナンバーの黒塗りの車が2台、仮設スロープの敷かれた神門をとおり、斎館にすべりこみました。
靖国会のひとたちは和服を着用して(振袖の若い女性たちが目立ちます)最敬礼です。


中からは、黒い装束を着けたひと(勅使だそうです)、
朱色、緑色などの装束を着けたひと(おつきのひとのようです)が出てきて、
うやうやしく、紫色の箱を二つ、もってはいって行きました。
中身はおそらく、反物や玉ぐし料でしょうと教えてもらいました。

おつきのひとは、公務員であろうとのことです。


わたしたちは、ぼそぼそとお話ししながら待ちます。
頭が暑い。じりじりする。
斎館の左側に掲げられた大きな看板に目をやると
来年は靖国神社の創立140周年だそうで、
相撲場などさまざまな箇所の修復や改修のために寄付をつのりたいといいます。
寄付の目標額3億超、だったかな。



10時20分、白装束の、靖国の神職のひと二人が斎館へ。
お出迎えだそうです。

10時25分、みんな出てきました。
金ボタンの服を着た、衛士でしょうか、宮内庁のひとでしょうか、
二人を先頭に装束のひとたちが
唐櫃を担いで歩いてきます。


金ボタンの「前へー、すすめ!!」という掛け声と行進は、いかにも勇ましく、
拝殿へ進んでいきました。
写真を撮る外国人。Tシャツに「米国勢調査」と書いてありました。




今回ガイドをしてくださったのは、平和ガイドの長谷川さんと、明大の院生の石橋さんでした。

長谷川さんは、今年で71歳。
新宿戦跡ガイドから始まり、現在は靖国神社・遊就館の平和案内人として忙しい日々を過ごしていらっしゃるそうです。
この4年間に何百回も、遊就館には入場料を払っているとか。


「最近は平日の入場者は100人ほどです。わたしは靖国にはとても貢献していますよ!」とのことでした。


長谷川さんのこの日配られた資料の表紙には、

「「松代大本営を保存する会」が01年4月に開催した一橋大学吉田裕教授による講演と靖国神社ツアーから学び、平和ガイドができるようになりました。
吉田教授が「靖国神社は、批判精神さえ、しっかりしていれば、
戦争の時代を追体験するという意味でも、多様な歴史教材を豊富に提供してくれるという意味でも、
とても興味深い空間です。
なお、境内には、戦死者の遺書などを前にして涙ぐむ老夫婦の姿などが、そこかしこにみられます。
見学に当たっては、こうした人々の思いに対する配慮も必要でしょう」
と述べられたことをガイドの基本にしています。」


とあります。
そのとおり、長谷川さんは淡々と事実をガイドしてくださるのでした。

小石川の東京砲兵工場で鋳造された大村益次郎の銅像のこと。
銘文には
「大いに陸海空軍制の基礎を定む」
と彫られています。

富国徴兵保険相互会社(現在のフコク生命)が戦前つくった「爆弾(肉弾)三勇士」などのレリーフがついた大灯篭のこと。

これは戦後、警視庁保安課、都の教育局の指示でコンクリートで塗りつぶしましたが、いつでも復元できるようベニヤをはった上にコンクリートを塗っただけでした。57年、はがして復元、現在に至っているそうです。


戦没者の魂を招く儀式を行う「招魂斎庭」だった場所は現在月ぎめの駐車場になっていて、ここの収入は貴重な収益事業のひとつになっていること、などなど。


長谷川さんはここの衛士さんや売り子さんとも、すっかり顔なじみだそうです。


ひととおり、神社の境内のさまざまな場所を案内していただいたあと
遊就館のレストランで「海軍カレー」を食べて、遊就館は今度は石橋さんに案内してもらいました。

まだ20代の若さですが、登戸の旧陸軍研究所のガイドもされています。
石橋さんも、笑顔を絶やさない、おだやかでユーモアのあるひとでしたが、
解説のそこここに、彼自身の思いがにじんでくるところがまた、ふかく印象に残りました。


ひめゆりの記述を指して
「砲弾がとびかう中も笑顔を忘れず、って本当でしょうか」


人間魚雷回天の前では
「これは、敵に命中してもしなくても、5分で爆発する運命なんです。
もし自分がこれに乗り込んで、敵の船のスクリュー音が遠く去っていくのがわかって
「ああ、外れたな・・・」と、自分の命があと5分となったときにどうなると思いますか。
僕なら間違いなく発狂します。この中真っ暗ですよ。
逃げられないんです。
なにを思いますか?自分のふるさとや家族のことを思うでしょう?どうです?」


戦車の前では
「これは動く棺桶と呼ばれていたそうです。材質が薄いので、敵弾がすぐ貫通し、
弾が戦車のなかで跳びまわったそうです。だから、兵士たちは、棺桶と呼びました」


など、一般のお客さんもいつのまにか囲んで聞いているので、
わたしもひやひやしましたが、トラブルはありませんでした。


朝9時から15時すぎまで、みっちり6時間のツアーでしたが、
かなり駆け足でした。
まだまだ見たりません。今度は自分のペースでまわってみたいです。


長谷川さんが言うには、最近はめっきり客足も落ちているそうです。
「本当なら8月15日ではなくって、今日みたいな例大祭にたくさん来るべきなんだけどね、軍服の扮装の人とかは」と笑っていました。

たしかに、兵隊さんの格好をした人は、数えるほどでした。




はじめての靖国めぐり、最後のほうはちょっと頭がくらくらして、
今日もいろいろ考えて、
感想もうまくまとまらないのだけど。


最後のほうにあったたくさんの顔写真。
だれでも
こんなにたくさんのひとたちが戦死したのか、とおもうとおもう。

そしてその気持ちから、先。

今の日本があるのは、この方たちのおかげです。自分はこんなのんきではずかしい。
なのか、
なぜこの方たちは死ななければならなかったのですか。誰が責任とるのですか。
なのか。


わたしの頭をめぐる、なんで、なんで。
ここには、なにかが抜けてないかい。


でも、もし当時の日本がまるごとこの神社だったら。
まるごと遊就館だったら。


わたしは今みたいにものを言えたかな?考えられたかな?
非常にすわり心地の悪いような、自信のない心持ちになりました。











水切り

2008-10-16 | Weblog
月曜日に友人がやっていたのを真似して、
酒匂川でがんばる子どもたち。

この背後には、夕焼けにはえる富士山と、松並木があります。


たぶん水底の石に当たって
「がち」って跳ねてるんだと思うけど、
できたって喜んでるから、なにも言わないです。