うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

姪っ子

2009-11-30 | Weblog
めいはもう3歳になった。

わたしのこどもたちにとって、
はじめてのいとこだ。


ケーキを買っていき
みんなでお祝いした。


母親(わたしの妹)に顔を洗ってもらい
「はー、ぴかぴか。
お姫さまみたい。
あたち、お姫さまみたいね!」

と息子になんども聞いている。
息子、たじたじ。



娘も3歳くらいのとき
「あたしお姫さまよ。王子さま、けっこんしましょ」
とよく言ってたなあ。

わたしもそのむかし
お姫さまごっこよくやったなあ。

それも、日本のおひめさまじゃなくて
ディズニーにでてくるようなおひめさまだよ。なんだろね。すごい影響力だね。




部屋の模様替えを手伝った。
ご他聞にもれず、妹のお連れ合いは、アルバムを見だしてにやにやしてる。
「2000年○○中学校卒業」

「はい、どれがぼくでしょうか」
と集合写真をみせてみんなに聞く。


すごく若いのはわかっていたけど、
なんか、こう数字でみるとあらためてショック。
わたしが娘が生んだとき、まだ中学生だったんだね・・・・。なんじゃそりゃ・・。




友人の陶展

2009-11-28 | Weblog
兼藤さんの陶展にいきました。

この絵はわたしの、兼藤さんの作品のイメージです・・・。
本物はもっと違います。ごめんなさい。


ー軌跡(1997年~2009年)ー 兼藤忍 陶展
2009年11月23日~29日 11:00~18:00( 最終日16:00まで)
丹沢美術館 神奈川県秦野市寿町6-19みどりやビル2F 


兼藤さんとはじめて会ったのは、もう17年くらい前です。

わたしも、兼藤さんも、そのころは東京在住でした。
吉祥寺のアトリエ飛行船という陶芸の教室&研究所に通っていたのです。


細身で、おかっぱで、サイケな服を着て
ずっと土に穴をあけているお姉さん・・・という印象でした。
話してみるとすごく面白くて、朗らかで、元気な人でした。


わたしは23のとき、インド旅行にいきましたが
その前にいろいろ安い宿情報や、地図をメモにしてくれながらも

「あ~・・・心配だな~。
ほんとに一人でいくの?
うん、大丈夫だよね。
あ~、でも心配だな~」


と、たくさん心配してくれたのをよく覚えています。



わたしはずっとへなちょこ生徒でしたが
兼藤さんはずっと作品を作り続けていました。


偶然、10年前、二人とも東京からこちらに越してきました。






きょうは、飛行船アトリエ時代に作って、
谷中で個展をしたときの作品もありました。ひさしぶり!


兼藤さんの作品は、さわるとなんだか温かくて
なんか動物とか、生き物みたいで、きもちいいです。





イワナ

2009-11-26 | Weblog
息子が描きました。

いきあたりばったりの私たちらしく
夕陽が沈む前に、と車飛ばして
途中で無人販売の野菜を並べていたおばさんに道きいて

はじめて釣堀にきました。
南足柄の「金太郎自然園」。



駐車場のそばにコンクリの水槽があって
手書きの札がかかってる。
「チョウザメ」
暗くて透明な水のなかで、静かにたくさん泳いでました。
これは釣らないの。
キャビアをとりたいんですって。




電話を前もってくださいね。
と言われながら。
でも親切に釣り場までおばさんが案内してくれました。

もっといかにもレジャー施設みたいな感じで
お金払えばみんな三々五々、というイメージで行ったら、違います。


お宅のお庭にちょっとお邪魔します・・・て感覚です。
起伏のある金太郎自然園
紅葉を見ながら坂道をのぼると
上を見ればみかん山
奥をみれば森があって、川が流れる音がする。
釣り場は大きなコンクリのプールが3つくらいあって
どうどうときれいな水が流れ込んでます。

「にじます」
「やまめ いわな」て札があります。




さおを借りて
夫と息子で順番に釣りました。


群れで泳いでるのも、針につけた練り餌も、よく見える。


娘は漫画読んでる。
わたしは眺めてる。


お客さんはわたしたちだけ。
おじさんが小屋で炊いてるストーブの、灯油のにおいが流れてくる。
空がだんだん冷えた色になってくる。


夫がいわな1匹、やまめ1匹
息子がやまめ1匹
最後に娘がやまめ1匹釣りました。



1キロ1800えん。
焼くのに1匹300えん。だったかな。


「全部焼いていいの」とおじさんが手際よく串にさして
真っ赤になった炭の上に置いてくれました。
じーと待つ。
魚からぽたぽた、水がおちて
炭がじゅっ、じゅっという。
じーと。待つのだ。


身がほろほろして、ほかほかして、とてもおいしかった。
また行こっと。


チェルシー

2009-11-21 | Weblog
子どものころ、あこがれのキャンデーでした。

母は「わたしはバタースカッチが好きだけど」
と言って、わたしの好きなヨーグルトスカッチを買ってくれました。


母をみると、ちゃんとバター味をなめてる。



子ども心に、黒い背景がおしゃれでした。


今わたしの子どもたちもヨーグルト派です。
わたしはどっちがいいかな・・・。





隔離から共生へ

2009-11-19 | Weblog
一昨日あったのは「ハンセン病  隔離の100年を問う」
という集会でした。



九段会館で、18時から21時まで。
これまで数回ですが、ハンセン病の元患者さんのお話を聞いたり、
交流会に参加したことがあり、
この集会も、たっぷりお話をきけるんだろうな、と思ったのでちょっと無理して行ってきました。


デイサービスの仕事がおわったのは17時半。
そこから小田原発17時38分の東海道に飛び乗って、会館についたのは19時半。

「もう半分も過ぎちゃった!!」とホールにはいれば
シンポジウムはこれからだという。


「???」とパンフレットをみると
18時から19時までがごあいさつ。
全国ハンセン病療養所入所者協議会会長や、市民学会事務局長のほかに、


舛添議員、江田五月参議院議長、長妻厚生労働大臣、横路衆議院議長・・・

いちじかんも、あいさつって。すごいな。



でもわたしは始めからシンポジウム聞けたので、よかったけど。

シンポジウムのコーディネーターは、
徳田靖之弁護士さん。
ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団代表。

シンポジストは、
内田博文さん。
九州大学大学院法学研究員教授。


神(こう)美知宏さん。
全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)事務局長。



谺(こだま)雄二さん。
ハンセン病国賠訴訟全国原告団協議会会長。




徳田弁護士さんの講演録を以前読んだことがあります。

「らい予防法」が廃止されたあとの1998年、
これからなにをすべきかというシンポジウムで、徳田さんが薬害エイズの話をしたところ、
会場から手が挙がり、元患者さんが
「この隔離政策が憲法違反なら、法律家としてはっきりさせてほしい。
もし憲法違反だというなら、自分たちが裁判を起こす際、引き受けてほしい」
と発言されたのを受け、それをきっかけに裁判にかかわるようになったということです。


内田博文さんは、「ハンセン病問題検証会議」の一員として、医学・医療、福祉、宗教、教育、マスメデイア、法曹、法学会その他の専門家の人たちと共同で、多角的な検討を進めています。

この重大な人権侵害を放置した、司法、法曹、法律家の責任は大きい、と語りました。





世界的に評価を受ける日本国憲法がありながら、なぜ私たちは隔離されつづけたのか。
神美知宏さんは言います。




17歳の多感な時期、ハンセン病と診断されました。
診察したドクターの、
「熱心に治療を受け、治ったとしても、らい予防法があるかぎり、社会復帰はできないよ」の言葉に

「太い杭を体じゅうに打ち込まれたようだった」と。


「治療を受けるための施設ではなく、収容所、または
刑務所、刑務所よりも過酷で非人間的な、強制労働の場所でした」


「入所者の義務として、仲間の火葬をするのも我々の仕事だった。職員たちは遠くから腕組みをして眺めていた。こんな屈辱的なことはない」


弾圧ともいえる過酷な当時の状況が語られました。


あるときドクターに「前途ある若者なのだから、社会復帰してほしい。医者の良心としてそう思っている。」
と社会へ出ることを黙認することを示唆されますが断ります。


こんなひどい場所に隔離されている人間たちへの待遇を改善するために働こうと決意、昭和35年から厚生省へ陳情を出し続けてきたということです。



「こんなにずっと訴え、運動を続けてきたが、なぜ私たちの訴えが広まらなかったか。私たちの運動が、市民のものにならなかったからだ。」

運動とは、市民を巻き込んではじめて動いていく。いくら私たちが正当性を持っていてもだめなのだ、という言葉がありました。


しかし市民の差別、偏見こそ反省されるべきでしょう。


2005年の神さんの講演録には
「私たちは市民に対して、50年間の運動の中であまりにも訴えることを逡巡してきました。
その理由の一つは、家族の反対があったからです。
お前のことはこの町や村からようやく忘れられているのに、再び社会問題になるような運動を展開してくれたら困るという圧力が、私どもの運動に対していろんな形で持ち込まれていました。
自分一人だけが犠牲になれば家族を守れるんだという考え方も支配的でしたので、
私たちは市民の目から見えない形での運動を継続するしかなかったのです。
振り返ってみると、それは正しい運動の仕方ではなかった。
だから苦労ばかり多くて多くの犠牲者を出す結果となってしまった、という反省をしております」
とありました(好善社ブックレット1・人間回復の証言)。



市民が国策に協力して、根こそぎに患者を強制隔離させた「無らい県運動」。
「終生この施設で暮らすことが国のため、家族のため」といわれ続け、自分を納得させて、
生を終えていった2万4千人以上ものひとたち。
強制労働だけではない。
改名、断種、中絶、重監房の存在・・・。
たとえ犯罪を犯した人間にさえこんな人権侵害は許されるはずはないでしょう。
あるひとつの病にかかったというだけで終生市民権を奪われた人々。


差別と偏見のなか、ひっそりと息をひそめていることをやめて
国に賠償をもとめた裁判は、想像を絶するほど勇気の要ることだったのだろうと思いました。
原告になることを決めたとき、同じ仲間であるはずの入所者たちから多くの中傷や嫌がらせを受けた、という女性のお話を読んだことがあります。




2001年の熊本判決のあと、
今年の4月には「ハンセン病問題基本法」という法律が施行されています。


「入所者の大半が80代を超えた以上、私たちが社会復帰することはできない。ふるさとの墓参りをするのが夢だけれど、それもかないそうもない。ならばせめてハンセン病の療養所を社会復帰させたい」


この法律ができたことで、療養所の社会化を達成するための根拠ができたということです。
げんに東村山市の全生園をはじめとするいくつかの施設には、
保育所を作らせてほしいという要望が寄せられているそうですが、施設側はまったく動きをみせず、国有地を民間に貸すことには複雑な手続きがあるといいます。

神さんは
「国はまったく以前と変わらない」といいます。


そんな手続きは抜きにして、無償で開放するための運動をしたい、と宣言しました。



また、入所者の高齢化、減少にともない、医師、看護師、看護助手の削減も進み、
深刻な人手不足におちいっている施設も少なくないそうです。
どこまでこのひとたちを苦しめればいいのでしょう。


もう80代が平均年齢という元患者さんには、隔離された「仮の住まい」とはいえ、
ここが終の棲家となることがほとんどだと思います。
ハンセン病は治癒していても、さまざまな加齢による症状がでてきます。
施設の外に簡単に通院できるかといえば、それも難しいのが現状ではないかと思います。
ハンセン病の元患者さんを診たことのある医師が、施設の外にどれくらいいるのか、
またその人を傷つけるような誤った対応や言動がないか、懸念はいくらでも挙がるのではないでしょうか。


十分な介護や治療がうけられず、安心して暮らせないというのでは
「裁判で勝ってもなにも変わらない」といわれるのが当然でしょう。


「わたしたちが外に出られないなら、市民のみなさんがこちらにきてほしい、
行き場のないお年寄りの方たちもここで共にすごす場所作りができれば」
と医療、福祉の充実をはかる希望が語られました。



谺雄二さんは、わたしたちは憲法を生かさなかった。生かせなかった。
と言いました。
谺さんは7歳で発病、同じ病の母親とも引き離され、1939年から60年間の入所生活を送られています。

アウシュビッツのように負の遺産として残してほしい、といいます。
谺さんは、現在の新型インフルエンザにたいする国の対応が、かつての無らい県運動を思い起こさせ、非常に危惧しているとのことでした。


医療が国策のレールに乗って、個人をふみにじっていく恐ろしさを知る人の言葉でした。




もっともっと聞きたかったのですが、時間切れとなってしまいました。
最初に挨拶をした大臣さんたちは、最後まで会場にいたでしょうか。
もちろん、聞いていたよね!!


会場のあちこちには、元患者さんとみられる方たちが座っていました。
親しげに談笑する様子がみられ、たぶん遠いところから、雨の中いらしたんだろうな、同窓会みたいな気持ちかな、
と勝手に想像しました。



家族と切り離された人々にとっては、仲間がかけがえのない家族でしょう。
この方たちが心穏やかに安心して暮らせるように切に願います。

























ごあんない

2009-11-18 | Weblog
ナオさんからきた
「佐々木ナオミの議会な日々メール」より。


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11月12日から25日まで小田原女性プラザ「チャットチャット」
でDV防止週間のパネル展をしています。
 DAYSJAPANの許可を得て、フランスの女性写真家の撮ったDV
に遭った女性の写真(カラーコピー)も展示しています。
被害者の実像に迫る貴重な写真です。
どうぞご覧下さい。

 又、展示協力している「ウエスト神奈川女性の人権を守る会」は
県西地域を中心に被害女性の支援をしています。
会員と寄附を募っています。

 小田原女性プラザはお堀端通り、茶半家具向かい。
音羽ビルの二階にあります。
駐車場はありません。
もちろん入場無料です。
 

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わたしはこのDAYSJAPANの写真パネル作りのお手伝いしました。
写真の強さと重さがショックでした。

いつ撮った写真だったか。たしか10年くらい前のものだとおもうけれど。

「3日に一人はDVで命を失っている」というフランスのデータは
日本にくらべて多いのかすくないのか。



この「チャットチャット」というスペース、
小田原の人じゃないと(小田原のひとでも?)わからないかもしれません。

どんな風に展示されているか気になりつつ
ほとんど人が来ないよー、といううわさばかり耳にし、まだ行けていません。


でも行こう。今週いこ!






らふらんす

2009-11-16 | Weblog
はじめて食べたのは何年前だったでしょうか。


母のパートナーが山形出身なので。それでいただいたのでした。


洋ナシは苦手で、セザンヌが食べるもんだぜーとちょっと敬遠していましたが
昨日剝いたら、おいしかったです。








wam

2009-11-12 | Weblog
women’s active museum on war and peace

の略です。

「女たちの戦争と平和資料館」は、高田の馬場からバスに乗って(学02 早大正門行き) 西早稲田下車 
AVACOビルの二階にあります。


水曜~日曜の13時から18時まで開館しています。



前からずっと行きたいと思っていました。
雨のなか行ってきました。



ここには、
かつて「慰安婦」と呼ばれた女性たちの
重い問いかけが詰まっています。


民間の、小さなスペースですが
声をあげた女性たちの勇気に真摯に向き合った、稀有な資料館です。
歴史年表、当時の資料、写真、書籍、ビデオなどがひしめいています。


ぜひ、足を運んでみてくださいね。




今やっている特別展は
「証言と沈黙  加害に向き合う元兵士たち」です。



 中帰連の方たちの証言パネルも展示されています。
館を大学生のグループに案内していた若い女性のスタッフは
「一枚でもいいので、最初から最後まで読んでみてください」
と力強く呼びかけていました。



いまも、さまざまな形での性暴力が、世界中で起こっているということ。
いまと同じくらい、過去のことも大きな問題で
わたしはそれをちゃんと見よう、と思います。




エントランスに並んだ、100人以上もの年老いた女性たちの顔写真。
この後ろにも、たくさん、たくさんの女性たちが隠れて、息をひそめて
ため息をついていること


思いをはせてください、と言うスタッフの方の言葉が印象に残りました。