大阪で花岡事件のミニ学習会がありました。いってきました。
花岡事件は、1945年秋田県北東部にある同和鉱山(当時の地名は花岡)で起きました。
「花岡蜂起」と呼ぶ人もいます。
強制連行されて過酷な労働を強いられていた中国人労働者たち約800人が蜂起したものの、憲兵や市民に捕らえられたのち暴行・虐待を受け多数が殺された事件です。
長引く戦争で不足した労働力を補うため日本政府は、1942年、中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定。
のべ38935名が強制連行されました。
外務省報告書によれば中国人を使役したのは35企業135事業所にのぼります。
産業別でみると発電所建設、飛行場建設、鉄道港湾建設などの土建業が約28%。
石炭、鉄鋼、水銀などの採掘の鉱山業が約53%。
その他造船業、港湾荷役など。
連行された中国人を使役した主な企業は、鹿島組、飛鳥組、大成建設、西松組、熊谷組、古川鉱業、宇部興産、三菱鉱業、三井鉱山、三井造船、播磨造船などなど。
外務省報告書では連行された中国人約40000人の名前も確認できるそうです。
秋田県の鹿島組花岡出張所には1944年8月から翌1945年6月の間に986名の中国人が強制連行されました。
同和鉱山の採掘と花岡川の改修工事に使役されていたが、そこではじゅうぶんな食事も与えられずすさまじい虐待や暴行が加えられていました。
1945年6月までに137名が死亡したといいます。
1945年6月30日深夜、約800名の中国人労働者が逃亡をはかりますが、鎮圧のため秋田と青森の憲兵隊、警察、警防団、消防団、在郷軍人、青年学校生、婦人会などの地元住民含め2万3千人以上が動員されます。
衰弱しきった彼らは次々と捕らえられ花岡町内の「共楽館」前広場に運ばれました。
2人1組に後ろ手に縛られ、炎天下の砂利の上に座らされた中国人たちは憲兵、警察、市民らによって間断ない暴行を受けます。
3日3晩水も食料も与えられず放置され虐待され続ける中で3日間で実に100名を超える人々が虐殺されたといいます。
この事件は戦争中の厳しい規制の中で秘匿されました。
敗戦後の45年9月にまで及ぶ強制労働によって、最終的に鹿島組花岡出張所に強制連行された986名のうち418名が殺されたそうです。
この学習会で解説してくれた中国人男性は南京虐殺問題にも関わっている方でした。
「花岡『蜂起』と英雄的な意味合いをこめて呼ぶ人もいるが実際は逃亡劇に近かったのでは。衰弱しきって死に物狂いで這って逃げたのだ思う。それほど鹿島の虐待が酷かったというところに目をむけてほしい」と。
この男性によれば、花岡事件は「一鍬運動」(犠牲者の遺骨再発掘、収集)や、脱走を指揮した国民党将校だった耿諄(こうじゅん)さんによる鹿島への訴訟、和解でも事件が知られ、1950年代から寺による慰霊祭も行われているが、やはりこの虐待、虐殺事件の全容を知ることは困難だということです。
逃亡した中国人に拷問、暴行を加えたのは憲兵や警察だけでなく、地元住民、ましてや子どもたちまで関わっていました。
今でも聞き取りは困難で、まとまった資料もない。わからないことがまだたくさんある。ネットの情報も信憑性にかけるものが多い、とのことです。
1989年、花岡事件の生存者や遺族は、謝罪・記念館の建設・補償の3項目を要求する「公開書簡」を鹿島建設に送ります。
翌90年には耿諄さんらが来日し、鹿島建設と交渉、鹿島は「虐待の事実があった」と謝罪を共同発表に盛り込みました。
しかし後日HPで「謝罪」は遺憾と言う意味で謝意はないなどと発表。1995年耿諄さんら11名は、鹿島に損害賠償を求めて提訴しました。
要求内容は、耿さんが最初に要求した三条件でした。
第1審は敗訴。2000年の第2審で和解が成立。
当時の被害者全員を対象に和解金(1人50万円)が支払われます。
この解説をしてくれた中国人の男性は「これは画期的な和解内容で素晴らしい。被害者たちも全額自分たちがもらうというのではなく、若い後世への教育や支援してくれた日本人、犠牲者の慰霊の為に使ってほしいと申し出たというので感動した」と語っていました。
彼は和解を肯定していましたが、わたしは複雑な気持ちで聞きました。
わたしの参加していた戦後責任問題を考えるグループは、和解をめぐって議論がまっぷたつに割れたからです・・・
わたしがよく会い、ともに活動していた人たちが和解の解釈をめぐって互いに中傷しあい、MLからも和解に反対した人は排除されてしまいました。
「和解内容の中の『救済』という文言が酷い、金額が少ない、正確な内容が原告の耿諄さんに伝わっておらず、当人が激怒した」というのが反対する人たちの主張でした。
今もそれはグループの中でくすぶっています。
もちろん重要なことは中国の人々を分裂させるような戦後処理をしてしまったということです。
中国人労働者が収容されていた中山寮というところは今は有害物質埋立処理施設になっています。
六価クロム、水銀、ヒ素、カドミウム、鉛など。全国で不法投棄された有害物質の土砂が埋立てられています。
酷い話です。
鉱山跡地の利用とありますが、加害の歴史を繰り返さないように後世に伝えるという姿勢は伝わってこないです。
有志の市民が花岡記念館を建て、語り継ごうとしています。
先日の学習会では触れられなかったけれど、花岡鉱山は秋田の中で一番多くの朝鮮人がいたことも忘れてはいけないと友人に教えてもらいました。
「七ツ館事件」
わたしが過去にこだわるのは、まだ「過去」ではなく現在進行形で苦しんでいる人がいることを忘れないためと、
その出来事をよくかみしめ生きることが未来のためになると思うからです。
花岡事件は、1945年秋田県北東部にある同和鉱山(当時の地名は花岡)で起きました。
「花岡蜂起」と呼ぶ人もいます。
強制連行されて過酷な労働を強いられていた中国人労働者たち約800人が蜂起したものの、憲兵や市民に捕らえられたのち暴行・虐待を受け多数が殺された事件です。
長引く戦争で不足した労働力を補うため日本政府は、1942年、中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定。
のべ38935名が強制連行されました。
外務省報告書によれば中国人を使役したのは35企業135事業所にのぼります。
産業別でみると発電所建設、飛行場建設、鉄道港湾建設などの土建業が約28%。
石炭、鉄鋼、水銀などの採掘の鉱山業が約53%。
その他造船業、港湾荷役など。
連行された中国人を使役した主な企業は、鹿島組、飛鳥組、大成建設、西松組、熊谷組、古川鉱業、宇部興産、三菱鉱業、三井鉱山、三井造船、播磨造船などなど。
外務省報告書では連行された中国人約40000人の名前も確認できるそうです。
秋田県の鹿島組花岡出張所には1944年8月から翌1945年6月の間に986名の中国人が強制連行されました。
同和鉱山の採掘と花岡川の改修工事に使役されていたが、そこではじゅうぶんな食事も与えられずすさまじい虐待や暴行が加えられていました。
1945年6月までに137名が死亡したといいます。
1945年6月30日深夜、約800名の中国人労働者が逃亡をはかりますが、鎮圧のため秋田と青森の憲兵隊、警察、警防団、消防団、在郷軍人、青年学校生、婦人会などの地元住民含め2万3千人以上が動員されます。
衰弱しきった彼らは次々と捕らえられ花岡町内の「共楽館」前広場に運ばれました。
2人1組に後ろ手に縛られ、炎天下の砂利の上に座らされた中国人たちは憲兵、警察、市民らによって間断ない暴行を受けます。
3日3晩水も食料も与えられず放置され虐待され続ける中で3日間で実に100名を超える人々が虐殺されたといいます。
この事件は戦争中の厳しい規制の中で秘匿されました。
敗戦後の45年9月にまで及ぶ強制労働によって、最終的に鹿島組花岡出張所に強制連行された986名のうち418名が殺されたそうです。
この学習会で解説してくれた中国人男性は南京虐殺問題にも関わっている方でした。
「花岡『蜂起』と英雄的な意味合いをこめて呼ぶ人もいるが実際は逃亡劇に近かったのでは。衰弱しきって死に物狂いで這って逃げたのだ思う。それほど鹿島の虐待が酷かったというところに目をむけてほしい」と。
この男性によれば、花岡事件は「一鍬運動」(犠牲者の遺骨再発掘、収集)や、脱走を指揮した国民党将校だった耿諄(こうじゅん)さんによる鹿島への訴訟、和解でも事件が知られ、1950年代から寺による慰霊祭も行われているが、やはりこの虐待、虐殺事件の全容を知ることは困難だということです。
逃亡した中国人に拷問、暴行を加えたのは憲兵や警察だけでなく、地元住民、ましてや子どもたちまで関わっていました。
今でも聞き取りは困難で、まとまった資料もない。わからないことがまだたくさんある。ネットの情報も信憑性にかけるものが多い、とのことです。
1989年、花岡事件の生存者や遺族は、謝罪・記念館の建設・補償の3項目を要求する「公開書簡」を鹿島建設に送ります。
翌90年には耿諄さんらが来日し、鹿島建設と交渉、鹿島は「虐待の事実があった」と謝罪を共同発表に盛り込みました。
しかし後日HPで「謝罪」は遺憾と言う意味で謝意はないなどと発表。1995年耿諄さんら11名は、鹿島に損害賠償を求めて提訴しました。
要求内容は、耿さんが最初に要求した三条件でした。
第1審は敗訴。2000年の第2審で和解が成立。
当時の被害者全員を対象に和解金(1人50万円)が支払われます。
この解説をしてくれた中国人の男性は「これは画期的な和解内容で素晴らしい。被害者たちも全額自分たちがもらうというのではなく、若い後世への教育や支援してくれた日本人、犠牲者の慰霊の為に使ってほしいと申し出たというので感動した」と語っていました。
彼は和解を肯定していましたが、わたしは複雑な気持ちで聞きました。
わたしの参加していた戦後責任問題を考えるグループは、和解をめぐって議論がまっぷたつに割れたからです・・・
わたしがよく会い、ともに活動していた人たちが和解の解釈をめぐって互いに中傷しあい、MLからも和解に反対した人は排除されてしまいました。
「和解内容の中の『救済』という文言が酷い、金額が少ない、正確な内容が原告の耿諄さんに伝わっておらず、当人が激怒した」というのが反対する人たちの主張でした。
今もそれはグループの中でくすぶっています。
もちろん重要なことは中国の人々を分裂させるような戦後処理をしてしまったということです。
中国人労働者が収容されていた中山寮というところは今は有害物質埋立処理施設になっています。
六価クロム、水銀、ヒ素、カドミウム、鉛など。全国で不法投棄された有害物質の土砂が埋立てられています。
酷い話です。
鉱山跡地の利用とありますが、加害の歴史を繰り返さないように後世に伝えるという姿勢は伝わってこないです。
有志の市民が花岡記念館を建て、語り継ごうとしています。
先日の学習会では触れられなかったけれど、花岡鉱山は秋田の中で一番多くの朝鮮人がいたことも忘れてはいけないと友人に教えてもらいました。
「七ツ館事件」
わたしが過去にこだわるのは、まだ「過去」ではなく現在進行形で苦しんでいる人がいることを忘れないためと、
その出来事をよくかみしめ生きることが未来のためになると思うからです。
介護福祉士の資格をとったものの体調不良と鬱気味な気分によりどうにも体がうごかず宝の持ち腐れ状態だったのですが
先月から訪問介護と介護に関わる事務方のお仕事を、大阪の事業所で再開することにしました。
今回のとこは、前働いてた西成の事業所よりずっと小さくて、人数もすくなくて、仕事量もすくないとこ。
ぼちぼちがんばるよ^^
先月から訪問介護と介護に関わる事務方のお仕事を、大阪の事業所で再開することにしました。
今回のとこは、前働いてた西成の事業所よりずっと小さくて、人数もすくなくて、仕事量もすくないとこ。
ぼちぼちがんばるよ^^