続きです。
13時からは写真家、樋口健二さんの講演でした。
原発内部に入り込み、労働者を撮った写真家としてその名前は以前から知っていましたが
まさか小田原でお話を聴けるとは思いませんでした!
樋口さんのお話、聴いたことありますか?すごく引き込まれるんです。面白い・・・。
なんだか江戸っ子みたいなべらんめえ口調で、とても熱い語り口です。
ご自分の写した労働者たちの写真を示しながら
「安全だクリーンだ平和利用だって何だ!?
東電第一原発で働いて、ボロ雑巾。
命がけでやりましょうよ、みなさん!本当にこれしかないんだよ!
日本の真の幸せには、平和には、原発があったらダメですよ!
あなたたちの幸せを保つためには、こういう人たちが踏みつけにされてると思えばいいじゃねえか!」
と、舌鋒鋭く、ユーモアもあって、パワフルな74歳でした!
樋口さんは72年の四日市公害裁判勝訴にかかわったことをきっかけに
原発、公害など社会問題を問い続ける写真を撮り続けてきたそうです。
自分で言うように、こういう写真はまったく売れないそうです。
「売れない写真家になるには」という本も出版されています・・・。
ところが、今は売れっ子になってしまい、絶版になった本の再販が相次いでいる状態。
「38年も撮ってきて、こんな事ははじめて」と言います。
パワーポイントを使ってまずは原発のお勉強から!
「日本のエネルギー産業」
明治維新によって日本の近代化が始まった頃、産業の主流は製鉄、すなわち石炭が主役でした。
三井、三菱、住友などの財閥がこれを取り仕切ります。
60年代からは石油がもっとも重要になり、コンビナート列島が出現します。公害列島とも言われましたね。
樋口さんの関わった四日市の公害もこの頃からです。
66年7月25日、東海村で、原子炉による日本で最初の商用原子炉による発電が行われます。
原子力時代の到来です。
現在を樋口さんは「プルサーマル時代」と位置付けていました。
つづいて「原発輸入経路」のお勉強です!
アメリカのGEからは三井物産が。ウェスチングハウスからは三菱商事が輸入していました。
GEは沸騰水型。ウェスチングハウスは加圧水型。
GE(モルガン財団)から三井物産へ。これが東芝・日立のプラントに。
東電、中電、東北電力の原発が作られています。
ウェスチングハウス(ロックフェラー(WH))から三菱商事へ。
三菱重工は関電、四電、九電、北電なんだそうです。
恥ずかしいことに、知りませんでした。
「東芝が、日立が、三菱が和製プラントを作ったから、今止められないの」だそうです。
(うろ子・註、2006年に東芝はウェスチングハウス社の株式を54億ドルで買い取り、全株式の51%以上を保有して子会社化しました。沸騰水型原発のプラントが加圧水型のメーカーを傘下に入れ、世界各地の原発ビジネスに参入しているわけです)
「原発は電力会社じゃないの。日本の財閥がやれって言ってんだ!!」と叫ぶ樋口さんです。
この国はいつのまにか原発が企業をがんじがらめにしてしまった、と言います。
つづいて「原発労働形態」のお勉強!
あのー、樋口さんの写真がみたい・・・
「みてーだろ、ちょっとマッテナ!」
話しだすと止まらないタイプの方みたいです。
1970年から2006年の間に原発内部で労働した人間の総数は169万人。
うち40万人が被曝したとみられています。
労働形態を図にしてみると
原発(電力メーカー)を頂点に、元請け(三井、三菱、日立)があり、
以下
下請け→孫請け→ひ孫請け→人出(ひとだし)業(親方)の図になります。
この下請け以下の労働者は「未組織労働者」といわれ
人出業の集める労働者は漁農民、被差別民、元炭鉱、寄せ場、都市労働者、連合労働者などです。
樋口さんいうところの「エリートではない人たち」です。
人出業者に2万、労働者本人には1万円の世界だそうです。
この人たちを何万人もつぎ込んで、現在は100ミリシーベルトまで浴びていいことになっているので、樋口さんはこの人たちは10年20年後には必ず死ぬ、と断言します。
作業内容とは、
除染、ランドリー(汚染された服の洗濯)、パイプ補修、パイプ掃除、スラッジ(ヘドロ)かい出し、
核廃棄物処理、運搬、溶接、サンダー掛けなど300種以上もの雑役なのでした。
除染といって、雑巾で汚染水をふき取る作業などは、よく「ロボットがやればいいじゃない」と言う人がいるそうですが、内部はパイプだらけで人の手に頼らざるをえないそうです。
丁寧にやれば数カ月かかるこのような危険な仕事を、現場では40~60日で行うよう求められているとのこと。
原子力産業を俺は人殺し産業と呼ぶ!と樋口さん。
海外では一応権利が保障されているのに比べ、日本は差別構造の上に成り立っているのが特徴だそう。
差別。またここでも。
もうなんども目にしているな。いやになっちゃうな。
さて、樋口さんの写真登場です。
美浜原発の建つ海岸で楽しそうに泳ぐ人たち。
蒸気漏れの事故により5人が全身やけどで死亡した美浜原発事故の直後、
2004年8月の風景でした。
欧米では大変な反響を呼び「原爆がおとされたのにこの鈍感さはなんだ?」と聞かれるそうです。
鈍感・・・たしかにそうだ。
赤い防護服を着た労働者。わたしが今ここに描いたものです。
現在は半面のマスクではなく、顔全体を覆う全面マスクになっているそうですが
非常に暑いそうです。はずさなければ仕事にならないほどだといいます。
敦賀原発では、黄と赤の服で危険度を分けており
赤は危険区域の作業だったそうですが、樋口さんが本で「赤は危険」と書くと
いつのまにか青い服に変わっていたという笑えない話も聴きました。
全身を洗ったあと、モニターにかけられる作業員たち。
外に出るために何度も何度も洗うこともあるそうですが、このモニターでは内部被曝は測れないのです。
さまざまな測定機械やカウンター、アラームメーターの写真を示しながら
どんなに改良したって本質が変わらないんだ、なにがクリーンなエネルギーだ、と
身振り手振り大きくお話が続きます。
原発を渡り歩く労働者たちや、マイクロバスに乗せられて原発に運ばれる農民たち。
寝泊まりさせられる粗末なプレハブ小屋。
「こういう人たちを利用して、とことん収奪しているのが原発!」
「マスコミは金をもらっちゃったんだよね。がばがば。だから報道出来なかった」
どんどん続きます。
日本初の被曝裁判を闘った岩佐さん。敦賀にいました。
国、教授、医師などよってたかって裁判を潰そうとしてきましたが
74年から大阪地裁、高裁、最高裁判所と闘いました。
結果は全面棄却。苦しみながら亡くなったそうです。
被差別出身の村居国雄さん。敦賀です。
村居さんは被曝に苦しみながらも岩佐訴訟に励まされ、自らも裁判を決意しますが
敦賀の下請けであったビル代行に600万円で裁判をつぶされました。
このとき「被曝していない」と診断書を書いたのは放医研の重松教授です。
(うろ子・註、放射能影響研究所RERFの前身は、原子爆弾による被害を詳細に調査記録するために、広島市への原子爆弾投下後、アメリカが設置した機関、原爆傷害調査委会ABCCです。
重松逸造はこのABCCの日本側代表でした。チェルノブイリ原発事故当時はIAEA事故調査委員で、4年後「異常はない」との報告書を提出。
現在福島県放射線健康リスク管理アドバイザー等を務める山下俊一教授は重松の弟子とも呼ばれ、流れをくんでいます)
労災認定を勝ち取った長尾光明さん。福島、ふげん、浜岡の配管に携わります。
年間70ミリシーベルトという非常に高い値の被曝をし、多発性骨髄腫を患いました。
2004年に労災認定を受け、さらに提訴もおこないますが、棄却されました。
長尾さんはこの判決を聞く前に死去しています。
29歳で亡くなった嶋橋伸之さんの遺影と両親。
浜岡原発で働いたあと、慢性骨髄性白血病で亡くなりました。
両親の手元に放射線管理手帳が戻ってきたのは嶋橋さんの死後1年もたってから。
しかも亡くなった翌日に被曝線量が書き換えられていました。
佐藤茂さん。福島です。
宇宙人みてーな服着て暑くて暑くてよー、と内部の状況を詳しく樋口さんに語って亡くなったそうです。
樋口さんの背中を押した人だといいます。
とび職の家族の写真。奥さんとたくさんの子どもを残して、福島第一原発で働き、亡くなりました。
台湾の遺骨の写真。
台湾には、遺体を焼かずに棺桶に入れ、6,7年後白骨化したのをとりだして再び弔うという風習があるそうですが
34歳で原発内部の事故で亡くなった男性の遺骨は、6,7年経っても黒ずみ、肉が残っていたそうです。
調査したところ、通常の1000倍の放射能が検出されたということ。
台湾から出た核廃棄物のドラム缶が積み重なる部屋の写真。
これは台湾から離れた島に住む民族を騙してそこに作らせたという事でした。
最後に、昔は水晶浜と呼ばれた美しい珊瑚の海に、
毎秒80トンの温排水が流れ込む写真を見ておひらきとなりました。
確かに、いま福島の原発に「つっこまされて」いる作業員は、まったく報道されません。
まるで居ないかのように慣れてしまっているわたしがいます。
どうなっているのでしょう。
樋口さんの取材した70年代とまったく同じで、
使い捨てられて、被曝症状に苦しみもがいているのでは?
金でもみ消されたり
手帳の数値を改ざんされたり、医師まで結託して嘘の診断書を書かれたり
「今の日本でははそんなことないよ」なんて、ぜーんぜん思えない!!
むしろ今のほうが取材なんかできないかもしれない。
闇から闇に葬られているかもしれない。
樋口さんはJCOの事故の取材後、鼻血が止まらない症状に襲われ、現在は骨髄を患っています。
病身をおしての精力的な講演活動でした。
「それでも、まっとうできるんだからいいんですよ」
と本にサインをしながらお話してくださいました。
自身も被曝しながらこの問題を追い続けたのには
大きな権力が人の命を踏みつけにして、それを隠して成長を目指す社会を見過ごすことができなかったからだろうと思いました。
もし機会があったら、ぜひ樋口さんのお話生で聴いてください。
国内ではNHKからストップがかけられ放送できなかった
「隠された被曝労働~日本の原発労働者」1~3の動画です。
1995年イギリス。題名はNUCLEAR GINZAです。
13時からは写真家、樋口健二さんの講演でした。
原発内部に入り込み、労働者を撮った写真家としてその名前は以前から知っていましたが
まさか小田原でお話を聴けるとは思いませんでした!
樋口さんのお話、聴いたことありますか?すごく引き込まれるんです。面白い・・・。
なんだか江戸っ子みたいなべらんめえ口調で、とても熱い語り口です。
ご自分の写した労働者たちの写真を示しながら
「安全だクリーンだ平和利用だって何だ!?
東電第一原発で働いて、ボロ雑巾。
命がけでやりましょうよ、みなさん!本当にこれしかないんだよ!
日本の真の幸せには、平和には、原発があったらダメですよ!
あなたたちの幸せを保つためには、こういう人たちが踏みつけにされてると思えばいいじゃねえか!」
と、舌鋒鋭く、ユーモアもあって、パワフルな74歳でした!
樋口さんは72年の四日市公害裁判勝訴にかかわったことをきっかけに
原発、公害など社会問題を問い続ける写真を撮り続けてきたそうです。
自分で言うように、こういう写真はまったく売れないそうです。
「売れない写真家になるには」という本も出版されています・・・。
ところが、今は売れっ子になってしまい、絶版になった本の再販が相次いでいる状態。
「38年も撮ってきて、こんな事ははじめて」と言います。
パワーポイントを使ってまずは原発のお勉強から!
「日本のエネルギー産業」
明治維新によって日本の近代化が始まった頃、産業の主流は製鉄、すなわち石炭が主役でした。
三井、三菱、住友などの財閥がこれを取り仕切ります。
60年代からは石油がもっとも重要になり、コンビナート列島が出現します。公害列島とも言われましたね。
樋口さんの関わった四日市の公害もこの頃からです。
66年7月25日、東海村で、原子炉による日本で最初の商用原子炉による発電が行われます。
原子力時代の到来です。
現在を樋口さんは「プルサーマル時代」と位置付けていました。
つづいて「原発輸入経路」のお勉強です!
アメリカのGEからは三井物産が。ウェスチングハウスからは三菱商事が輸入していました。
GEは沸騰水型。ウェスチングハウスは加圧水型。
GE(モルガン財団)から三井物産へ。これが東芝・日立のプラントに。
東電、中電、東北電力の原発が作られています。
ウェスチングハウス(ロックフェラー(WH))から三菱商事へ。
三菱重工は関電、四電、九電、北電なんだそうです。
恥ずかしいことに、知りませんでした。
「東芝が、日立が、三菱が和製プラントを作ったから、今止められないの」だそうです。
(うろ子・註、2006年に東芝はウェスチングハウス社の株式を54億ドルで買い取り、全株式の51%以上を保有して子会社化しました。沸騰水型原発のプラントが加圧水型のメーカーを傘下に入れ、世界各地の原発ビジネスに参入しているわけです)
「原発は電力会社じゃないの。日本の財閥がやれって言ってんだ!!」と叫ぶ樋口さんです。
この国はいつのまにか原発が企業をがんじがらめにしてしまった、と言います。
つづいて「原発労働形態」のお勉強!
あのー、樋口さんの写真がみたい・・・
「みてーだろ、ちょっとマッテナ!」
話しだすと止まらないタイプの方みたいです。
1970年から2006年の間に原発内部で労働した人間の総数は169万人。
うち40万人が被曝したとみられています。
労働形態を図にしてみると
原発(電力メーカー)を頂点に、元請け(三井、三菱、日立)があり、
以下
下請け→孫請け→ひ孫請け→人出(ひとだし)業(親方)の図になります。
この下請け以下の労働者は「未組織労働者」といわれ
人出業の集める労働者は漁農民、被差別民、元炭鉱、寄せ場、都市労働者、連合労働者などです。
樋口さんいうところの「エリートではない人たち」です。
人出業者に2万、労働者本人には1万円の世界だそうです。
この人たちを何万人もつぎ込んで、現在は100ミリシーベルトまで浴びていいことになっているので、樋口さんはこの人たちは10年20年後には必ず死ぬ、と断言します。
作業内容とは、
除染、ランドリー(汚染された服の洗濯)、パイプ補修、パイプ掃除、スラッジ(ヘドロ)かい出し、
核廃棄物処理、運搬、溶接、サンダー掛けなど300種以上もの雑役なのでした。
除染といって、雑巾で汚染水をふき取る作業などは、よく「ロボットがやればいいじゃない」と言う人がいるそうですが、内部はパイプだらけで人の手に頼らざるをえないそうです。
丁寧にやれば数カ月かかるこのような危険な仕事を、現場では40~60日で行うよう求められているとのこと。
原子力産業を俺は人殺し産業と呼ぶ!と樋口さん。
海外では一応権利が保障されているのに比べ、日本は差別構造の上に成り立っているのが特徴だそう。
差別。またここでも。
もうなんども目にしているな。いやになっちゃうな。
さて、樋口さんの写真登場です。
美浜原発の建つ海岸で楽しそうに泳ぐ人たち。
蒸気漏れの事故により5人が全身やけどで死亡した美浜原発事故の直後、
2004年8月の風景でした。
欧米では大変な反響を呼び「原爆がおとされたのにこの鈍感さはなんだ?」と聞かれるそうです。
鈍感・・・たしかにそうだ。
赤い防護服を着た労働者。わたしが今ここに描いたものです。
現在は半面のマスクではなく、顔全体を覆う全面マスクになっているそうですが
非常に暑いそうです。はずさなければ仕事にならないほどだといいます。
敦賀原発では、黄と赤の服で危険度を分けており
赤は危険区域の作業だったそうですが、樋口さんが本で「赤は危険」と書くと
いつのまにか青い服に変わっていたという笑えない話も聴きました。
全身を洗ったあと、モニターにかけられる作業員たち。
外に出るために何度も何度も洗うこともあるそうですが、このモニターでは内部被曝は測れないのです。
さまざまな測定機械やカウンター、アラームメーターの写真を示しながら
どんなに改良したって本質が変わらないんだ、なにがクリーンなエネルギーだ、と
身振り手振り大きくお話が続きます。
原発を渡り歩く労働者たちや、マイクロバスに乗せられて原発に運ばれる農民たち。
寝泊まりさせられる粗末なプレハブ小屋。
「こういう人たちを利用して、とことん収奪しているのが原発!」
「マスコミは金をもらっちゃったんだよね。がばがば。だから報道出来なかった」
どんどん続きます。
日本初の被曝裁判を闘った岩佐さん。敦賀にいました。
国、教授、医師などよってたかって裁判を潰そうとしてきましたが
74年から大阪地裁、高裁、最高裁判所と闘いました。
結果は全面棄却。苦しみながら亡くなったそうです。
被差別出身の村居国雄さん。敦賀です。
村居さんは被曝に苦しみながらも岩佐訴訟に励まされ、自らも裁判を決意しますが
敦賀の下請けであったビル代行に600万円で裁判をつぶされました。
このとき「被曝していない」と診断書を書いたのは放医研の重松教授です。
(うろ子・註、放射能影響研究所RERFの前身は、原子爆弾による被害を詳細に調査記録するために、広島市への原子爆弾投下後、アメリカが設置した機関、原爆傷害調査委会ABCCです。
重松逸造はこのABCCの日本側代表でした。チェルノブイリ原発事故当時はIAEA事故調査委員で、4年後「異常はない」との報告書を提出。
現在福島県放射線健康リスク管理アドバイザー等を務める山下俊一教授は重松の弟子とも呼ばれ、流れをくんでいます)
労災認定を勝ち取った長尾光明さん。福島、ふげん、浜岡の配管に携わります。
年間70ミリシーベルトという非常に高い値の被曝をし、多発性骨髄腫を患いました。
2004年に労災認定を受け、さらに提訴もおこないますが、棄却されました。
長尾さんはこの判決を聞く前に死去しています。
29歳で亡くなった嶋橋伸之さんの遺影と両親。
浜岡原発で働いたあと、慢性骨髄性白血病で亡くなりました。
両親の手元に放射線管理手帳が戻ってきたのは嶋橋さんの死後1年もたってから。
しかも亡くなった翌日に被曝線量が書き換えられていました。
佐藤茂さん。福島です。
宇宙人みてーな服着て暑くて暑くてよー、と内部の状況を詳しく樋口さんに語って亡くなったそうです。
樋口さんの背中を押した人だといいます。
とび職の家族の写真。奥さんとたくさんの子どもを残して、福島第一原発で働き、亡くなりました。
台湾の遺骨の写真。
台湾には、遺体を焼かずに棺桶に入れ、6,7年後白骨化したのをとりだして再び弔うという風習があるそうですが
34歳で原発内部の事故で亡くなった男性の遺骨は、6,7年経っても黒ずみ、肉が残っていたそうです。
調査したところ、通常の1000倍の放射能が検出されたということ。
台湾から出た核廃棄物のドラム缶が積み重なる部屋の写真。
これは台湾から離れた島に住む民族を騙してそこに作らせたという事でした。
最後に、昔は水晶浜と呼ばれた美しい珊瑚の海に、
毎秒80トンの温排水が流れ込む写真を見ておひらきとなりました。
確かに、いま福島の原発に「つっこまされて」いる作業員は、まったく報道されません。
まるで居ないかのように慣れてしまっているわたしがいます。
どうなっているのでしょう。
樋口さんの取材した70年代とまったく同じで、
使い捨てられて、被曝症状に苦しみもがいているのでは?
金でもみ消されたり
手帳の数値を改ざんされたり、医師まで結託して嘘の診断書を書かれたり
「今の日本でははそんなことないよ」なんて、ぜーんぜん思えない!!
むしろ今のほうが取材なんかできないかもしれない。
闇から闇に葬られているかもしれない。
樋口さんはJCOの事故の取材後、鼻血が止まらない症状に襲われ、現在は骨髄を患っています。
病身をおしての精力的な講演活動でした。
「それでも、まっとうできるんだからいいんですよ」
と本にサインをしながらお話してくださいました。
自身も被曝しながらこの問題を追い続けたのには
大きな権力が人の命を踏みつけにして、それを隠して成長を目指す社会を見過ごすことができなかったからだろうと思いました。
もし機会があったら、ぜひ樋口さんのお話生で聴いてください。
国内ではNHKからストップがかけられ放送できなかった
「隠された被曝労働~日本の原発労働者」1~3の動画です。
1995年イギリス。題名はNUCLEAR GINZAです。
根府川の旧片浦中学で金曜日まで開催しています!みなさん是非!
夫と息子と、友人のKさんRさんと行ってきました。お目当ては映画と樋口健二さん。
11時から映画「チェルノブイリハート」の上映でした。
2003年に米アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した映画(マリアン・デレオ監督、ウクライナ、米国合作)です。
チェルノブイリ事故後16年たった後の、子どもの障害や病気を追った映像です。
石棺付近の放射線値はいまだ都市部の10000倍の数値を示します。
続出する奇形や障害をもった子どもたちの誕生。
親が育てられず、手放された子どもたちのための孤児院。
これらは事故のまえには見られなかったものでした。
今でも、ベラルーシ(チェルノブイリから80km程の町)で生まれる赤ちゃんのうち
15〜20%だけが健康であると言う事でした。
そのままにしていては確実に死に至るため、心臓の手術待ちの子どもがたくさんいるのですが
穴を塞ぐ一枚三万円のゴアテックスがあまりに高価で手術のできない家族もたくさんいるということ。
思わず目を伏せたくなるような、でも一生懸命生きようとしているさまざまな症状の子どもたちが映され、
なにも言葉が有りませんでした。
たぶん、わたしは福島の事故が起きるまでは、この映画が小田原で上映されるとしても
観にいかなかったかもしれない。
そして、行ったとしても、遠い国の出来事で
「大変だ、日本の医療技術も注いでなんとかしなくちゃ」
と思うくらいだったと思います。
今はこの映像のすべての子どもたちが、未来の日本の子どもたちと重なって
悲壮な気持ちになりつつも
わたしはずいぶん勝手だな、とも思いました。
チェルノブイリ・ハートも短編ですが
このあと併映された「ホワイト・ホース」はもっと短編でした。
この映画に登場するのはマキシムという青年だけ。
チェルノブイリから3Kmにあるウクライナ共和国プリピャチに住んでいました。
6歳のとき事故が起こり、夜中に原発から立ち上る炎を見たと言います。
3日以内に私物を持つことも許されないまま退去させられた人々の一人です。
そして事故から20年後(2006年)。
かつて家族と暮らした団地を訪れます。
冬空はどんよりと雲がたちこめ、物音は木々をゆらす風の音だけ。
灰色の風景の中に、昔のとおり、団地はありました。
マキシムは人気のない、廃墟となった住まいの階段を駆け上ります。
長身に軽いコートをひっかけた青年は、父が作った肋木や、
ベッドルームに貼られた馬の大きな壁紙(写真)をたしかめるように、いとおしむように
静かに見つめたり、触ったりしていました。
父母の撮ったホワイトホースの写真。
ここで眠っていたんだ、と。
それはマキシムにとって幸せな、なににも代えがたい日々の象徴だったようです。
ドアに貼られたままの1986年のカレンダーを5月から引き裂きました。
怒りに身を震わせているようにも、呆然としているようにも、また何かを反すうしているようにも見え
ひとつひとつの言葉をかみしめるように
「これは俺の運命ではない」
とつぶやく言葉に、彼のどう埋めようもない深い喪失を感じました。
だいじょうぶだよマキシム、元気で避難できたならさ、いいこともあるよ、
わたしは心のなかで呼びかけていましたが、映画の最後、2007年に病死との字幕が流れました。
重くて、言葉をしばらく発することもできませんが
今のわたしたちはこの映画を観て、考えましょう、
そして子どもたちのために知恵を出し合いましょうと呼びかけたいです。
絶望してはいけません。そんな暇はないのです。
26日金曜日も、昼12時から上映の予定だそうです。
どうぞおでかけください。
樋口健二さん講演会につづく!
夫と息子と、友人のKさんRさんと行ってきました。お目当ては映画と樋口健二さん。
11時から映画「チェルノブイリハート」の上映でした。
2003年に米アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した映画(マリアン・デレオ監督、ウクライナ、米国合作)です。
チェルノブイリ事故後16年たった後の、子どもの障害や病気を追った映像です。
石棺付近の放射線値はいまだ都市部の10000倍の数値を示します。
続出する奇形や障害をもった子どもたちの誕生。
親が育てられず、手放された子どもたちのための孤児院。
これらは事故のまえには見られなかったものでした。
今でも、ベラルーシ(チェルノブイリから80km程の町)で生まれる赤ちゃんのうち
15〜20%だけが健康であると言う事でした。
そのままにしていては確実に死に至るため、心臓の手術待ちの子どもがたくさんいるのですが
穴を塞ぐ一枚三万円のゴアテックスがあまりに高価で手術のできない家族もたくさんいるということ。
思わず目を伏せたくなるような、でも一生懸命生きようとしているさまざまな症状の子どもたちが映され、
なにも言葉が有りませんでした。
たぶん、わたしは福島の事故が起きるまでは、この映画が小田原で上映されるとしても
観にいかなかったかもしれない。
そして、行ったとしても、遠い国の出来事で
「大変だ、日本の医療技術も注いでなんとかしなくちゃ」
と思うくらいだったと思います。
今はこの映像のすべての子どもたちが、未来の日本の子どもたちと重なって
悲壮な気持ちになりつつも
わたしはずいぶん勝手だな、とも思いました。
チェルノブイリ・ハートも短編ですが
このあと併映された「ホワイト・ホース」はもっと短編でした。
この映画に登場するのはマキシムという青年だけ。
チェルノブイリから3Kmにあるウクライナ共和国プリピャチに住んでいました。
6歳のとき事故が起こり、夜中に原発から立ち上る炎を見たと言います。
3日以内に私物を持つことも許されないまま退去させられた人々の一人です。
そして事故から20年後(2006年)。
かつて家族と暮らした団地を訪れます。
冬空はどんよりと雲がたちこめ、物音は木々をゆらす風の音だけ。
灰色の風景の中に、昔のとおり、団地はありました。
マキシムは人気のない、廃墟となった住まいの階段を駆け上ります。
長身に軽いコートをひっかけた青年は、父が作った肋木や、
ベッドルームに貼られた馬の大きな壁紙(写真)をたしかめるように、いとおしむように
静かに見つめたり、触ったりしていました。
父母の撮ったホワイトホースの写真。
ここで眠っていたんだ、と。
それはマキシムにとって幸せな、なににも代えがたい日々の象徴だったようです。
ドアに貼られたままの1986年のカレンダーを5月から引き裂きました。
怒りに身を震わせているようにも、呆然としているようにも、また何かを反すうしているようにも見え
ひとつひとつの言葉をかみしめるように
「これは俺の運命ではない」
とつぶやく言葉に、彼のどう埋めようもない深い喪失を感じました。
だいじょうぶだよマキシム、元気で避難できたならさ、いいこともあるよ、
わたしは心のなかで呼びかけていましたが、映画の最後、2007年に病死との字幕が流れました。
重くて、言葉をしばらく発することもできませんが
今のわたしたちはこの映画を観て、考えましょう、
そして子どもたちのために知恵を出し合いましょうと呼びかけたいです。
絶望してはいけません。そんな暇はないのです。
26日金曜日も、昼12時から上映の予定だそうです。
どうぞおでかけください。
樋口健二さん講演会につづく!
今日は涼しいですね。
涼しくても暑くても、お酒はおいしいですね。
表記のタイトルのイベントが今日から26日まで、
小田原の片浦中学(小田原市根府川)でおこなわれています。
ジャーナリスト岩上安身さんの企画です。
3.11以降のこれからを考えるトークイベント、展示など盛りだくさんの内容みたいです。
福島から子どもたちは来ているのでしょうか?
わたしも時間がとれれば、ぜひ行ってみたいです。
この片浦中学校、廃校になったといってもさまざまなイベントやワークショップで人のあつまる、すてきな場所です!
若き小田原在住のアーティスト、安藤ニキさんの絵画も展示されています。
メモリアルウィークin小田原のHP
ニキさんのブログ
写真で会場の雰囲気がよくわかります、&Oさんのブログ
涼しくても暑くても、お酒はおいしいですね。
表記のタイトルのイベントが今日から26日まで、
小田原の片浦中学(小田原市根府川)でおこなわれています。
ジャーナリスト岩上安身さんの企画です。
3.11以降のこれからを考えるトークイベント、展示など盛りだくさんの内容みたいです。
福島から子どもたちは来ているのでしょうか?
わたしも時間がとれれば、ぜひ行ってみたいです。
この片浦中学校、廃校になったといってもさまざまなイベントやワークショップで人のあつまる、すてきな場所です!
若き小田原在住のアーティスト、安藤ニキさんの絵画も展示されています。
メモリアルウィークin小田原のHP
ニキさんのブログ
写真で会場の雰囲気がよくわかります、&Oさんのブログ
加害国としての日本の戦争の話などは子どもたちには教えていますか、と大人のスタッフにたずねました。
ここでは日本のまず原爆という被害を知ってもらって
日本の他の国への加害のことなどはおいおい個人で学んでほしい、という答えでした。
でも、個人で学ぶ機会はなかなか今ないですよね、と言うと
価値観の違いもありますし、と別のスタッフに言われました。
価値観。その言葉に立ち止まってしまいました。
自分自身が子どものころから、突如として無辜の市民の上に原爆を落とされたという、
100%非がこちらにはなかったという視点からしか学んでこなかったゆえ
他の国の人の苦しみが全然見えていなかったことに気づいたことが、
わたしにとって衝撃的な出来事でした。
人の頭の上に原爆を落としたアメリカの行為
たくさんの兵を送り込んで侵略を繰り広げた日本の行為
それらの行為は「加害」とよばれるけれど
実はアメリカでもヒバクシャは原爆以前にもたくさんいて
実は日本の兵隊さんも赤紙ひとつで捨て駒のようにあつかわれて
それでも、こんな事を書きながらも、心はやはりヒロシマの人々に思い入れてしまいます。
どうしてこんな優しい人の上に原爆を落としたの?と。
よく平気で落とせたね、と。
それはヒロシマの人にわたしが出会ったから。
中国でも朝鮮でも、他の国でも。
想像でもいい、本のなかでも。
その土地に触れ、人と出会えば、
傷つけられていい人なんていないのは、ちょっと考えれば子どもたちだってわかる。
子どもたちのほうがわかるかもしれない。
ひとりひとりの市民にとっての戦争は、加害も被害もまったくほぐれない糸のように
その人に絡みついているということ。
それは価値観どうのという問題じゃない。
そしてうまいこと逃げおおせている、ほんとの悪いやつがいる。
どちらの国がより悪い、とか、報復は当然、ということでなく
どちらもまっすぐな目で見てきいて、感じる。
そこから自分の答えをみつける。
そういうことが子どもたちにはできるとわたしは思っています。
8月7日。ツアー最終日は平和記念資料館の見学。
その前に資料館前の被爆アオギリを皆で見ました。
このアオギリは元は中区東白島町の広島逓信局の庁舎(現在の日本郵政グループ広島ビル。以前の中国郵政局)の中庭にありました。
ここで働いていた沼田鈴子さんは原爆が落ちたとき、建物の下敷きになって左足首を切断、
その後医師のノコギリによって、無麻酔で大腿部から切断され、命をとりとめます。
しかし3日後に控えた婚約者との結婚も、婚約者の戦死の報によって打ち消されます。
すべてに絶望した鈴子さんの自殺をとどまらせたのは、
被爆しながらも新しい芽をだしたアオギリだったそうです。
スタッフの一人によれば、100歳まで証言します、とお話してくださったそうですが
先月7月12日にお亡くなりになりました。
今回の原発の事故以来、ふさぎ込み、どんどん弱られていったそうです。
よほどショックを受けたのでしょう、とのことです。
被爆証言を続けながら反戦、反核を訴えられていた人々の、この事故によせる思いは
わたしの想像以上に胸がはりさけるようなものなのかもしれません。
資料館では、思い思いの場所でじっくり観察したり、メモをとったりする子どもたちでした。
資料館1階は広島の街の歴史の展示がありますが
2,3人の女の子たちが人垣の間からおずおずと覗いていたので
「ここは広島の街がどう変わっていったかをあらわしているの。
広島には日本の軍隊の施設がたくさんできて、港からは兵隊さんが中国やアジアの国に送られて、
たくさん土地を奪ったり、人を殺したりさせられたんだよ」
と話しました。
「そっか。自分の国の被害だけじゃないんだ」
とほんとにすんなり答える子。すんなりすぎて、拍子抜けするくらい。
お昼には皆でお好み焼きを食べて
広島駅でおみやげを買って、新幹線に乗って帰ってきました。
みんな、おかあさん、おとうさんに会ったら、ちょっとだけ甘えっ子の顔になって、
それぞれ帰って行きました。
子どもたちの寄せた感想はそれぞれ。
原爆ってさいあくっていうか、すごくこわいし。
ドームの前でこんなにたくさんの人が平和を願っているんだ、と思ってびっくりした。
福島の人がドームの前で力強く話していたのがすごかった(×複数)。
お年寄りばかりががんばっていたので、若いわたしたちがもっとがんばろうと思った。
本当に原爆の怖さがよくわかった。今回の福島の原発の事故は、わたしたちが原爆の恐ろしさを忘れてしまったから起きたのではないだろうか。
などなど、聞いていておもわずじーん!とするようなものでした。
毎年暑さも疲労もものともせず、子どもたちを広島につれていく取り組みをされているスタッフの方々に感服です。
こうして少しずつですが、種まきできてるんだね、と感じた今回の旅でした。
今年は66年前と現在が、放射能汚染でつながってしまった夏でした。
来年、再来年・・・これからもずっとなんだと思うと、悲しくてやりきれません。
過去の被害としてわたしたちが見て来た資料館の「放射能が人に与える影響」などの展示が
そのまま今の子どもたちは自分への脅威としての学習になるのです。
わたしはもっと、子どもたちのために怒ろう。
前向きに怒るんだ。
絶望はしません。
子どもたちは、どんなときも前向きで、未来をみています。
子どもたちに希望をみたヒロシマツアーでした!!
最後にわたしが会う事のかなわなかった沼田鈴子さんの証言を引用させてもらいます。
長々と読んでくださってありがとうございました!!
原爆を受けて、半世紀を生きることができたことは、ひとつの区切りであるでしょうが、私にとって、過去における歴史的時代背景の真実を正しく学び、謙虚な反省のもとに、人類が犯した過ちを、再び繰り返さないために、人類が幸せに生きのびるために、反戦、反核、反差別、環境汚染、自然破壊反対の運動にしっかり目をむけ、被爆の実相を、後世に語り伝えることが、大切な出発点であります。
常に感謝をし、自らの学びにしておりますのが、戦後の復興の中から、あらゆる困難を乗り越え「平和」へのために、一生懸命に立ち上がった被爆者の運動の力、市民の草の根の運動の力、各運動家のかたがたが、いまを語る私どもに、路線のレールを敷いてくださったことです。
敷かれたレールを大切に維持をし、21世紀を生きる人達が引きついでいかねばなりません。ヒロシマを風化させてはなりません。
私はヒロシマを学んでくださるたくさんの方々の出会いに恵まれ、旅のつかれもみせず、目を輝かせて真剣に耳をかたむける小さな子どもたち、中学生、高校生、大学生、大人、諸外国の方々の姿に接し、沢山のことを私は教えられ、交流もふえますことを幸せに思うと共に、生きがいを感じ「明日に昇る太陽」に希望と勇気を与えられております。
証言は、私の平和の一粒の種まきです。
多くの方々が手をとりあって一粒ずつの種まきの輪をひろげましょう。
美しい地球、素晴らしい未来のために、身近なところから、心の種をふやしてまいりましょう。
最高の幸せは平和であること、無知であることは、おろかなことにつながります。
平和なときこそ、真実をみつめ、狂っている世の中、社会に目をむけ、耳をかたむければ、自分自身の行動がみえるのではないでしょうか。
国と国が理解し、民族と民族が信頼し、愛し合えば、心と心は通じあうのではないでしょうか。
世界すべての人達が平和で幸せに安心して暮らせるように願ながら、歴史への旅をつづけています。
訪問しているところは、アメリカ各地、ヨーロッパ各地、ソ連、マレーシア、シンガポール、ベラウ、フィリピン、ベトナム、アウシュビッツ、中国、韓国、パナマ、沖縄で、韓国、沖縄は毎年訪ねています。
最後に出会--感動--発見--出発の四つの言葉を自分の日々の行動につながるものとしております。
炎天下の中、広島城まで歩きます。
なんか、アスファルトも、城の砂利も真っ白に見えます~・・・・。
ガイドのおじさんは超元気で、大音量で話します。
日陰のまったくないとこに立たせて・・・・。
でも、ガイドさんはとても子どもの発言を引き出すのがうまいので、皆ぐいぐい引き込まれていきます。
城内にぽつぽつと、長方形に礎が残っています。
被爆ユーカリのそばの広場。何の跡だったでしょう。
クイズで子どもたちに問いかけます。うーんと考える子どもたち。
正解は、厩(うまや)の跡でした。
広島城のように城内に馬小屋があるのは、全国でも珍しいそうです。
城マニアでないので、よくわかりませんが、そうなんだ!
この厩も、戦争中は違う使い方をされました。
城内には日清戦争の頃大本営が設置されて以来、
日本軍のさまざまな施設が作られましたが、ここはアメリカ人捕虜の収容所となりました。
原爆に引き起こされた猛烈な爆風によって潰れた収容所から、
捕虜たちは逃げ出ることができたそうですが
地元の住民によってくくりつけられ、暴行を受け亡くなったそうです。
去年も広島城には来たけど、この話ははじめて聞きました。
どんどんいきます。
城内に今も残る旧中国軍管区司令部の地下通信室へ。
ここには去年も行きましたが、暗くてじめっとしてて、やっぱりあんまり入りたくない場所だなーと思っていたところ
「あのー、なんか頭がくらくらするー」と話しかけてくる女の子。
女の子とわたしは地上に出て、木陰で休みました。
8月6日だし、土曜日といっても、そんなに人は歩いていません。
この暑さだからかな。
レジャーシートを敷きましたが女の子は横にはならず、スケッチブックに原爆ドームの絵を描きました。
「わたしは、はじめて原爆ドームをみました」と書いたあとは、しばらく思案していました。
わらわらと地下から出てくる元気な子どもたち。
城に上ったり、アイスを食べたり。
そのあとは、爆心に一番近い小学校、本川小学校(旧本川国民学校)の平和資料館を見学。
はだしのゲンにでてくる小学校はここです。
この頃は戦時体制で、夏休みは8月のうち10日間ほどと決められ、
8月6日も子どもたちは学校に登校していました。
たった二人を除いて、400人の児童と10数名の教職員は亡くなりました。
資料館には溶けたガラス瓶や、ぼろぼろになった三八式歩兵銃、
「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」の直筆の書(書いたのは誰だっけ…)
などが展示されています。
夕方からいつもお世話になっているというレトロな喫茶&食堂のお店へ。
2階の部屋をお借りしてミーティングと夕食と灯ろう作りを済ませ、
再び平和公園へ。
・・・読んでるだけでもとっても疲れてきませんか?
わたしもかなりこの時点でキテました。
でも引率なので、汗くさいよ~ビールのみたいよ~一人でだらだらしたいよ~、と思ってるとは全然周りに感じさせず(ほんとか?)
ハリキッテ川のほとりへ向かいました。
「灯ろう流し ここから1時間」との看板を横目に並びます。
たぶん、以前はもっとひっそりした行事だったのでは?
それがいまはイベントになって、長蛇の列なんです。
何度言っても列に並ばず、あちこち放浪しはじめる男子たち。
とっぷり日も暮れ、見わけがつかない「誰そ彼時」です。
女子は女子でおしゃべりに夢中。
「まじ受けるんですけどー」だって。君はしょうがくせいだろ。
常に何人いる!?とカウントしながらやっとこさっとこ、灯ろうを流しました。
そばには小さな女の子が灯ろうを流す場面を激写しようと、記者会見ばりのフラッシュをあびせまくる大人たちが。
無事に全員が流し終わったことを確認(平和への願いなんて余裕あった?)
汗だくでユースに戻りました。
また湿気たっぷりの風呂に入り、
汗びちょで眠りました・・・・。
最終日につづく!
なんか、アスファルトも、城の砂利も真っ白に見えます~・・・・。
ガイドのおじさんは超元気で、大音量で話します。
日陰のまったくないとこに立たせて・・・・。
でも、ガイドさんはとても子どもの発言を引き出すのがうまいので、皆ぐいぐい引き込まれていきます。
城内にぽつぽつと、長方形に礎が残っています。
被爆ユーカリのそばの広場。何の跡だったでしょう。
クイズで子どもたちに問いかけます。うーんと考える子どもたち。
正解は、厩(うまや)の跡でした。
広島城のように城内に馬小屋があるのは、全国でも珍しいそうです。
城マニアでないので、よくわかりませんが、そうなんだ!
この厩も、戦争中は違う使い方をされました。
城内には日清戦争の頃大本営が設置されて以来、
日本軍のさまざまな施設が作られましたが、ここはアメリカ人捕虜の収容所となりました。
原爆に引き起こされた猛烈な爆風によって潰れた収容所から、
捕虜たちは逃げ出ることができたそうですが
地元の住民によってくくりつけられ、暴行を受け亡くなったそうです。
去年も広島城には来たけど、この話ははじめて聞きました。
どんどんいきます。
城内に今も残る旧中国軍管区司令部の地下通信室へ。
ここには去年も行きましたが、暗くてじめっとしてて、やっぱりあんまり入りたくない場所だなーと思っていたところ
「あのー、なんか頭がくらくらするー」と話しかけてくる女の子。
女の子とわたしは地上に出て、木陰で休みました。
8月6日だし、土曜日といっても、そんなに人は歩いていません。
この暑さだからかな。
レジャーシートを敷きましたが女の子は横にはならず、スケッチブックに原爆ドームの絵を描きました。
「わたしは、はじめて原爆ドームをみました」と書いたあとは、しばらく思案していました。
わらわらと地下から出てくる元気な子どもたち。
城に上ったり、アイスを食べたり。
そのあとは、爆心に一番近い小学校、本川小学校(旧本川国民学校)の平和資料館を見学。
はだしのゲンにでてくる小学校はここです。
この頃は戦時体制で、夏休みは8月のうち10日間ほどと決められ、
8月6日も子どもたちは学校に登校していました。
たった二人を除いて、400人の児童と10数名の教職員は亡くなりました。
資料館には溶けたガラス瓶や、ぼろぼろになった三八式歩兵銃、
「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」の直筆の書(書いたのは誰だっけ…)
などが展示されています。
夕方からいつもお世話になっているというレトロな喫茶&食堂のお店へ。
2階の部屋をお借りしてミーティングと夕食と灯ろう作りを済ませ、
再び平和公園へ。
・・・読んでるだけでもとっても疲れてきませんか?
わたしもかなりこの時点でキテました。
でも引率なので、汗くさいよ~ビールのみたいよ~一人でだらだらしたいよ~、と思ってるとは全然周りに感じさせず(ほんとか?)
ハリキッテ川のほとりへ向かいました。
「灯ろう流し ここから1時間」との看板を横目に並びます。
たぶん、以前はもっとひっそりした行事だったのでは?
それがいまはイベントになって、長蛇の列なんです。
何度言っても列に並ばず、あちこち放浪しはじめる男子たち。
とっぷり日も暮れ、見わけがつかない「誰そ彼時」です。
女子は女子でおしゃべりに夢中。
「まじ受けるんですけどー」だって。君はしょうがくせいだろ。
常に何人いる!?とカウントしながらやっとこさっとこ、灯ろうを流しました。
そばには小さな女の子が灯ろうを流す場面を激写しようと、記者会見ばりのフラッシュをあびせまくる大人たちが。
無事に全員が流し終わったことを確認(平和への願いなんて余裕あった?)
汗だくでユースに戻りました。
また湿気たっぷりの風呂に入り、
汗びちょで眠りました・・・・。
最終日につづく!
6日午前。平和公園をあとにし、被爆者の米澤さん、日高さんのお話を聴くためにYMCAの会館へ向かいました。
途中、爆心地となった島病院前で、ボランティアガイドさんの説明をききます。
熱心に聞き入る金髪の外国人の一団。
どういうふうに思ってんのかなー、といつも思う。
そして河村病院の前を通りました。
K牧師さんによれば、この病院の1代目、故河村虎太郎は、
朝鮮人の被爆者治療を行うため、韓国ハプチョンで献身的な活動を行ってきたそうです。
虎太郎さんの息子さん(2代目)は在韓被爆者渡日治療広島委員会の会長さんだそう。
YMCAにやっとのことで到着。暑すぎます。
子どもたちも、大人も、だらーっとしてます・・・。
空調のきいた会議室に通され、ちょっとシャキッ!
まず米沢鐵志さんのお話から。
6月に京都の関西電力前で偶然お会いした方です。
米澤さんは当時小学5年生、福屋百貨店前を市電で通過したとき原爆がさく裂しました。
母方の田舎に身を寄せていましたが、広島の実家に荷物を取りにいくためにたまたま6日の朝、満員電車に乗ることになったといいます。
8時15分、阿鼻叫喚となった車内からやっとのことで人を踏みわけ、
米澤さんは母親と脱出します。
逃げ着いた太田川のほとりで二人は高熱と嘔吐と頭痛に襲われます。
さまざまな光景をお話してくれました。
土ぼこりで真っ暗な中逃げまどう人々。
自分の前を歩いている女の人のシャツの背中がだんだん穴が大きくなって燃え広がり、
髪の毛にまで燃え移っていたこと。
また別の女の人が大きなガラス片を背中に突き刺したまま歩いていたこと。
帽子が飛びゲートルがちぎれたぼろぼろの兵隊の集団の行進。
防火用水を埋め尽くした人々。
運び込まれたトラックで見た、飛び出た目玉を頬のところで手で受けていた人。
「人の目玉は、あんなに大きいんだなー」と思ったといいます。
もっともっと、言葉では言えないくらいひどい風景がたくさんありました、と語る米澤さんです。
命からがらやっとのことで迎えた8月15日の敗戦の日、
母親は「これでお父ちゃんが帰ってくる」と泣いたそうです。
しかし母親はこのあと髪の毛がすべて抜け、高熱と全身の紫斑に襲われ、亡くなります。
結婚し、7人の子どもを産みそだて、1943年に夫を軍医としてとられ
必死で生き抜いてきた母親の死でした。
米澤さんは脱毛と高熱に加え、ある朝洗面器一杯の回虫を嘔吐し、
「とうとう寄生虫もすめなくなった」と
もう誰もがこの子どもの死を覚悟しましたが、
それからは不思議なことにみるみる回復してきたそうです。
話のあちこちで「ひっ」と声にならない声をあげる子ども達。
想像しにくい話ばかりで、頭が追いつかないでしょう。もちろんわたしも。
続いて日高敦子さんのお話です。
日高さんは当時9歳、南観音町(広島市の南、海のほうです)の伯母宅に身をよせていました。
伯母さんは当時、三菱造船所の食料の配給所で働いていたそうです。
近くには徴用された朝鮮人の飯場がありましたが、朝鮮人はとても明るく、
伯母も仲良く会話していたといいます。
南観音町は爆心から4キロの地点で、
8月6日は実家のあった千田町(爆心地から1.5 - 2.5km前後)に連れていってもらうため待っていたところ、太陽と間違える程の火の玉を見たそうです。
しばらくすると、爆心となった街のほうから、髪の毛がちりちりで全身をやけどした人々が放心したように歩いて避難してきたので
伯母さんがかち割り氷をざるに入れ、家の前に置いたところ、
みんな一つずつ手に持って逃げていったといいます。
日高さんは首の両脇が腫れています。
これまでずっと貧血やめまいに悩まされ、病弱でしたが、60歳から2度の甲状腺がんを患い
数年前に原爆症認定を受けたそうです。
「見た事がないでしょう。わたしもあまり人には見せないんですが」
と厚生労働大臣からの認定書を見せてくれました。
日高さんは、今回の3月11日の震災後、やっと放射能と自分の病気の因果関係に納得がいったといいました。
最後にお二人から子どもたちへのメッセージは、との問いに
米澤さんは、
自分は原爆と原発は同じだと思っています。
核と人類は共存できないとの思いでスリーマイル事故でも、チェルノブイリ事故でも発言を続けてきました、と語り、
「安全だ」を繰り返す御用学者、政府、東電、メディア、電力会社の労組を厳しく批判しました。
子どもや若い大人たちの5年、10年後がとても心配で、福島の子どもたちを避難させたい、
原発をとめるよう、家に帰ったらお父さんお母さんに伝えてほしいと結びました。
日高さんは、
原爆、原発、核はこの地球上から無くなってほしいです。
1日1日、自分がどう生きて行動しているか振り返ってほしいですといいました。
子どもさんは、好き嫌いなくよく食べ、免疫力をつけて、人の役にたてる人になってほしいとのことでした。
子どもたちは一生懸命メモをとっていました。
みんなで広島一高い(高さもお値段も)ビルの1階でランチを食べ、
次は広島城見学です!
ヘビーな一日だ!だいじょうぶか子どもたち!
途中、爆心地となった島病院前で、ボランティアガイドさんの説明をききます。
熱心に聞き入る金髪の外国人の一団。
どういうふうに思ってんのかなー、といつも思う。
そして河村病院の前を通りました。
K牧師さんによれば、この病院の1代目、故河村虎太郎は、
朝鮮人の被爆者治療を行うため、韓国ハプチョンで献身的な活動を行ってきたそうです。
虎太郎さんの息子さん(2代目)は在韓被爆者渡日治療広島委員会の会長さんだそう。
YMCAにやっとのことで到着。暑すぎます。
子どもたちも、大人も、だらーっとしてます・・・。
空調のきいた会議室に通され、ちょっとシャキッ!
まず米沢鐵志さんのお話から。
6月に京都の関西電力前で偶然お会いした方です。
米澤さんは当時小学5年生、福屋百貨店前を市電で通過したとき原爆がさく裂しました。
母方の田舎に身を寄せていましたが、広島の実家に荷物を取りにいくためにたまたま6日の朝、満員電車に乗ることになったといいます。
8時15分、阿鼻叫喚となった車内からやっとのことで人を踏みわけ、
米澤さんは母親と脱出します。
逃げ着いた太田川のほとりで二人は高熱と嘔吐と頭痛に襲われます。
さまざまな光景をお話してくれました。
土ぼこりで真っ暗な中逃げまどう人々。
自分の前を歩いている女の人のシャツの背中がだんだん穴が大きくなって燃え広がり、
髪の毛にまで燃え移っていたこと。
また別の女の人が大きなガラス片を背中に突き刺したまま歩いていたこと。
帽子が飛びゲートルがちぎれたぼろぼろの兵隊の集団の行進。
防火用水を埋め尽くした人々。
運び込まれたトラックで見た、飛び出た目玉を頬のところで手で受けていた人。
「人の目玉は、あんなに大きいんだなー」と思ったといいます。
もっともっと、言葉では言えないくらいひどい風景がたくさんありました、と語る米澤さんです。
命からがらやっとのことで迎えた8月15日の敗戦の日、
母親は「これでお父ちゃんが帰ってくる」と泣いたそうです。
しかし母親はこのあと髪の毛がすべて抜け、高熱と全身の紫斑に襲われ、亡くなります。
結婚し、7人の子どもを産みそだて、1943年に夫を軍医としてとられ
必死で生き抜いてきた母親の死でした。
米澤さんは脱毛と高熱に加え、ある朝洗面器一杯の回虫を嘔吐し、
「とうとう寄生虫もすめなくなった」と
もう誰もがこの子どもの死を覚悟しましたが、
それからは不思議なことにみるみる回復してきたそうです。
話のあちこちで「ひっ」と声にならない声をあげる子ども達。
想像しにくい話ばかりで、頭が追いつかないでしょう。もちろんわたしも。
続いて日高敦子さんのお話です。
日高さんは当時9歳、南観音町(広島市の南、海のほうです)の伯母宅に身をよせていました。
伯母さんは当時、三菱造船所の食料の配給所で働いていたそうです。
近くには徴用された朝鮮人の飯場がありましたが、朝鮮人はとても明るく、
伯母も仲良く会話していたといいます。
南観音町は爆心から4キロの地点で、
8月6日は実家のあった千田町(爆心地から1.5 - 2.5km前後)に連れていってもらうため待っていたところ、太陽と間違える程の火の玉を見たそうです。
しばらくすると、爆心となった街のほうから、髪の毛がちりちりで全身をやけどした人々が放心したように歩いて避難してきたので
伯母さんがかち割り氷をざるに入れ、家の前に置いたところ、
みんな一つずつ手に持って逃げていったといいます。
日高さんは首の両脇が腫れています。
これまでずっと貧血やめまいに悩まされ、病弱でしたが、60歳から2度の甲状腺がんを患い
数年前に原爆症認定を受けたそうです。
「見た事がないでしょう。わたしもあまり人には見せないんですが」
と厚生労働大臣からの認定書を見せてくれました。
日高さんは、今回の3月11日の震災後、やっと放射能と自分の病気の因果関係に納得がいったといいました。
最後にお二人から子どもたちへのメッセージは、との問いに
米澤さんは、
自分は原爆と原発は同じだと思っています。
核と人類は共存できないとの思いでスリーマイル事故でも、チェルノブイリ事故でも発言を続けてきました、と語り、
「安全だ」を繰り返す御用学者、政府、東電、メディア、電力会社の労組を厳しく批判しました。
子どもや若い大人たちの5年、10年後がとても心配で、福島の子どもたちを避難させたい、
原発をとめるよう、家に帰ったらお父さんお母さんに伝えてほしいと結びました。
日高さんは、
原爆、原発、核はこの地球上から無くなってほしいです。
1日1日、自分がどう生きて行動しているか振り返ってほしいですといいました。
子どもさんは、好き嫌いなくよく食べ、免疫力をつけて、人の役にたてる人になってほしいとのことでした。
子どもたちは一生懸命メモをとっていました。
みんなで広島一高い(高さもお値段も)ビルの1階でランチを食べ、
次は広島城見学です!
ヘビーな一日だ!だいじょうぶか子どもたち!
平和公園での平和記念式典は、広島の人にとってとくに注目されるものではありませんでした。
新しく市長になった松井市長の平和宣言ひとつとってみても、こんな会話が。
どうして今の原発の状況について踏み込んだこと言わないかね。
やっぱり今の市長は周り固められて、言いたいこと言えないんでしょうなー。
言えないですねーあれは。
がんじがらめですかね。
がんじがらめでしょうなー。
秋葉さんは世界を意識してアピール力があった。
そう、全然ちがいます。
菅さんについても、言うに及ばず。
子どもたちはそれでも、貴重な現場体験です。
人垣で見られないので、公園内のあちこちに設置されたモニターを写真に撮っていました。
わたしの感覚だと、昨年のほうがものすごい人出だったような・・・・。
式典が終わったあとも、比較的すいすい道を歩けました。
ユースホステルも、他のスタッフによれば例年はもっと外国人旅行者が多い、ということでした。
そうは言っても、人出が少ないわけではなく、男子が何人か迷子になるとこでした・・・・。
今日もK牧師さんによる公園内の碑案内です。
今年は家で留守番のわたしの子どもたちが、昨年丁寧な訳文までもらった、
韓国人原爆犠牲者慰霊碑へ。
碑の土台になって支える亀は、死んだ人の魂は亀の背中に乗ってのぼっていくという言い伝えから作られたそうで、
韓国(朝鮮)の方角を向いています。
戦争中、労働力を補うためにたくさんの韓国人、朝鮮人が日本につれて来られ
たくさんの人が被爆したこと、
碑を建てたが、はじめは公園の中に入れてもらえなかったこと、
碑の近くには韓国の花ムクゲ(韓国語発音:ムグンファ)とサクラが交互に植えられていることや
昨年息子が教えてくれた、韓国人が、自国の恥を書くなと言って、石灰で塗りつぶした文章のことなど、じっくり時間をかけて丁寧にKさんは教えてくれました。
そして訳文。
「これは、とても大事なことが書いてあるから、君たちが大人になるまでとっておいてください」
と言います。
まわりでなんとなく聞いている他の大人のお客さんにも配っていました。
このツアーの高校生に、全文を皆にむかって読みあげてもらいました。
わたしはこの碑文について昨年も記事を書いたけれど、
ここはわたしもこだわりたい箇所なので、今年は全部紹介します。
李○公殿下の○には、金へんに禺の字が入ります。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑文、( )は、K牧師さん補注
(翻 訳:在日大韓基督教広島教会牧師 金 信煥 (キム・シンファン)さん)
悠久な歴史を通じて、我が韓民族は他民族のものをむさぼろうとしなかったし、他民族を侵略しようとはしませんでした。
だから他国よりも先に目覚めて、他国よりもよく暮らした誇るべき時代もありました。
しかし、大きく強い国の間にはさまれて、彼らの侵略によって国家が危うくなり、人民の生活が不安に巻き込まれることが数多くありました。
王孫と高官、高位にある者の子弟を人質に送らなければならない、恨みに満ちた話と、数多くの美しい娘を献女としてささげなければならない口惜しい話がそれであったし、わが国の王が敵の王の前に膝を屈しなければならなかった話がそれであります。
しかし、五千年の長い民族の歴史を通じて、ここに祭った二万余位の霊が受けたような、悲しくも痛ましいことはかつてありませんでした。
韓民族が国のない哀しみを骨の髄まで味わったものが、この太平洋戦争を通してであり、その中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でありました。
国を失った王孫であったために、人知れぬ哀しみと苦痛が一層加わった李○公殿下を初めとして、名分のない争いによって、無意味な死に場所に向かっていた同胞軍人たち。
鋤と鎌を持って牛馬のように働かせられた同胞徴用者たち。
離ればなれになって、生を求めてここに集まってきた同胞男女たち。
多分、五万にはなると思われる哀れな群衆たち。
この人たちが、広島市民とともに戦争の終局の、息も絶え絶えだった一九四五年八月六日、人類最大の悲劇がここに展開されました。
まばゆいばかりの閃光が光った瞬間、阿鼻叫喚、すべてのものは修羅場と化してしまいました。
日本国民に与えられたこの巨大な破壊魔は韓国民だからといって少しも寛大ではありませんでした。
この惨劇によって尊い生命を失った李○公殿下他の罪のない二万余位は、その後二十五年有余、未だ霊魂の休む場所も作られないまま今日に至ったので、おそれ多くて身の置場所もありません。
今、志のある同胞たちと、張 泰煕建立委員長ほか、委員たちを初めとして、日本人有志数名の真心の結晶によって遅ればせながら、ここに寄り所のない霊魂の休むところを作ることになりました。
願わくは、二万余柱の霊魂におかれては、すべての怨みと憎悪を皆忘れて、何とぞ安らかに眠ってください。
これからは、このような悲劇の種を蒔く者も、これを受ける者もないようにして、侵略の罪を犯す者も、侵略の哀しみを受ける者もないようにして、遠い国と近い隣人が永遠にお互いに助け合い、親しくし、仲良く暮らすことできるようにみまもってください。
平和を愛して侵略と殺戮を憎む人類は、ここにまつった霊魂の犠牲を心から悲しみ、
永遠の冥福を心に込めて祈ります。
また韓国民の熱い愛がいつまでも、これらの霊とともにあることでしょう。
碑 文: ハングル学会理事・ソウル大学教授 韓 甲洙 (ハン・カプス)
建立年月日 1970年4月10日
慰霊碑建立委員長 張 泰煕 (チャン・テヒ)
(建立当時:元・在日本韓国居留民団団長、
現在、「在日本韓国民団」に改称されている。)
新しく市長になった松井市長の平和宣言ひとつとってみても、こんな会話が。
どうして今の原発の状況について踏み込んだこと言わないかね。
やっぱり今の市長は周り固められて、言いたいこと言えないんでしょうなー。
言えないですねーあれは。
がんじがらめですかね。
がんじがらめでしょうなー。
秋葉さんは世界を意識してアピール力があった。
そう、全然ちがいます。
菅さんについても、言うに及ばず。
子どもたちはそれでも、貴重な現場体験です。
人垣で見られないので、公園内のあちこちに設置されたモニターを写真に撮っていました。
わたしの感覚だと、昨年のほうがものすごい人出だったような・・・・。
式典が終わったあとも、比較的すいすい道を歩けました。
ユースホステルも、他のスタッフによれば例年はもっと外国人旅行者が多い、ということでした。
そうは言っても、人出が少ないわけではなく、男子が何人か迷子になるとこでした・・・・。
今日もK牧師さんによる公園内の碑案内です。
今年は家で留守番のわたしの子どもたちが、昨年丁寧な訳文までもらった、
韓国人原爆犠牲者慰霊碑へ。
碑の土台になって支える亀は、死んだ人の魂は亀の背中に乗ってのぼっていくという言い伝えから作られたそうで、
韓国(朝鮮)の方角を向いています。
戦争中、労働力を補うためにたくさんの韓国人、朝鮮人が日本につれて来られ
たくさんの人が被爆したこと、
碑を建てたが、はじめは公園の中に入れてもらえなかったこと、
碑の近くには韓国の花ムクゲ(韓国語発音:ムグンファ)とサクラが交互に植えられていることや
昨年息子が教えてくれた、韓国人が、自国の恥を書くなと言って、石灰で塗りつぶした文章のことなど、じっくり時間をかけて丁寧にKさんは教えてくれました。
そして訳文。
「これは、とても大事なことが書いてあるから、君たちが大人になるまでとっておいてください」
と言います。
まわりでなんとなく聞いている他の大人のお客さんにも配っていました。
このツアーの高校生に、全文を皆にむかって読みあげてもらいました。
わたしはこの碑文について昨年も記事を書いたけれど、
ここはわたしもこだわりたい箇所なので、今年は全部紹介します。
李○公殿下の○には、金へんに禺の字が入ります。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑文、( )は、K牧師さん補注
(翻 訳:在日大韓基督教広島教会牧師 金 信煥 (キム・シンファン)さん)
悠久な歴史を通じて、我が韓民族は他民族のものをむさぼろうとしなかったし、他民族を侵略しようとはしませんでした。
だから他国よりも先に目覚めて、他国よりもよく暮らした誇るべき時代もありました。
しかし、大きく強い国の間にはさまれて、彼らの侵略によって国家が危うくなり、人民の生活が不安に巻き込まれることが数多くありました。
王孫と高官、高位にある者の子弟を人質に送らなければならない、恨みに満ちた話と、数多くの美しい娘を献女としてささげなければならない口惜しい話がそれであったし、わが国の王が敵の王の前に膝を屈しなければならなかった話がそれであります。
しかし、五千年の長い民族の歴史を通じて、ここに祭った二万余位の霊が受けたような、悲しくも痛ましいことはかつてありませんでした。
韓民族が国のない哀しみを骨の髄まで味わったものが、この太平洋戦争を通してであり、その中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でありました。
国を失った王孫であったために、人知れぬ哀しみと苦痛が一層加わった李○公殿下を初めとして、名分のない争いによって、無意味な死に場所に向かっていた同胞軍人たち。
鋤と鎌を持って牛馬のように働かせられた同胞徴用者たち。
離ればなれになって、生を求めてここに集まってきた同胞男女たち。
多分、五万にはなると思われる哀れな群衆たち。
この人たちが、広島市民とともに戦争の終局の、息も絶え絶えだった一九四五年八月六日、人類最大の悲劇がここに展開されました。
まばゆいばかりの閃光が光った瞬間、阿鼻叫喚、すべてのものは修羅場と化してしまいました。
日本国民に与えられたこの巨大な破壊魔は韓国民だからといって少しも寛大ではありませんでした。
この惨劇によって尊い生命を失った李○公殿下他の罪のない二万余位は、その後二十五年有余、未だ霊魂の休む場所も作られないまま今日に至ったので、おそれ多くて身の置場所もありません。
今、志のある同胞たちと、張 泰煕建立委員長ほか、委員たちを初めとして、日本人有志数名の真心の結晶によって遅ればせながら、ここに寄り所のない霊魂の休むところを作ることになりました。
願わくは、二万余柱の霊魂におかれては、すべての怨みと憎悪を皆忘れて、何とぞ安らかに眠ってください。
これからは、このような悲劇の種を蒔く者も、これを受ける者もないようにして、侵略の罪を犯す者も、侵略の哀しみを受ける者もないようにして、遠い国と近い隣人が永遠にお互いに助け合い、親しくし、仲良く暮らすことできるようにみまもってください。
平和を愛して侵略と殺戮を憎む人類は、ここにまつった霊魂の犠牲を心から悲しみ、
永遠の冥福を心に込めて祈ります。
また韓国民の熱い愛がいつまでも、これらの霊とともにあることでしょう。
碑 文: ハングル学会理事・ソウル大学教授 韓 甲洙 (ハン・カプス)
建立年月日 1970年4月10日
慰霊碑建立委員長 張 泰煕 (チャン・テヒ)
(建立当時:元・在日本韓国居留民団団長、
現在、「在日本韓国民団」に改称されている。)
6日朝7時半。
原爆ドーム前で朝ご飯っ!なんで君たちはそんな元気なの。
地べたに座って黙々とおにぎり、唐揚げ、漬物、卵焼きをきれいに平らげる17人の子ども達。
周りはぎゅうぎゅうに列をなして平和記念式典に向かう人の波
お経をあげるお上人たち
大音量で主張を繰り広げる絶叫系の人々
署名を呼び掛ける人たち
たくさんのおまわりさん
そんな人たちのまん前で陣取って食べている。まわりのほうがちらちら見ている。
子どもってたくましいです。
なるべくほったらかして育てましょう。
グラウンドゼロの集いという集会に参加しました。
8月6日午前8時15分。
皆で横たわる「ダイ・イン」を行いました。
ドームの前であおむけになります。
直前に女の子が水筒のお茶をこぼして、その辺が水浸しになりました。
何も手元になかったので仕方なく誰かがくれたチラシを敷いて吸い込ませましたが
だれもそこには横になりたくなかったので、わたしの足をそこに置きました。
木々の間から差し込む木漏れ日と、蝉しぐれ。
66年前の8時15分がこんなにおだやかなはずがない。
でも66年たって、この国はほんとに平和になったのかな、と思いながら数分寝転がっていました。
あとで中学生の男の子が寄せた感想には
「ダイインというのは、死の場面を再現することで、
そんな悲惨なことをもう一度やるのはどうなのかと自分の中で賛否両論だったけど
やっぱりやってみると、意味のあることだと思った」とありました。
ダイインの前に、被爆者の米澤鐵志さんがマイクで挨拶し、
「自分は人類と核は共存できないと思って400回、証言を続けてきましたがその運動が足りなかったために今回の事故が起きたのだと自分を責めています」
と言いました。
もっと自分を責めるべき人はたくさんいるのに!!
原爆ドーム前で、福島から避難してきた家族がドームを指し、
「みなさん、今の福島はこんな状態です!子どもたちはこれからも、苦しんでいかなければなりません。
核兵器も原発もない世界を作りましょう。
いま止めなくていつ止めるんですか!」と大きな声で言いました。
もうそれを聞いたら、本当にそうだとなんともやりきれなくなってしまって、
勝手に涙がだらだら出ちゃっていました。
しかも、もう福島の原発は広島の原爆の20倍以上の放射能を出してしまっているんです。
子どもに取り囲まれたとこに座っていたので、一応、
「汗ふいてるんだよ~」というふりをしてあわてて涙をふきました。
原爆ドーム前で朝ご飯っ!なんで君たちはそんな元気なの。
地べたに座って黙々とおにぎり、唐揚げ、漬物、卵焼きをきれいに平らげる17人の子ども達。
周りはぎゅうぎゅうに列をなして平和記念式典に向かう人の波
お経をあげるお上人たち
大音量で主張を繰り広げる絶叫系の人々
署名を呼び掛ける人たち
たくさんのおまわりさん
そんな人たちのまん前で陣取って食べている。まわりのほうがちらちら見ている。
子どもってたくましいです。
なるべくほったらかして育てましょう。
グラウンドゼロの集いという集会に参加しました。
8月6日午前8時15分。
皆で横たわる「ダイ・イン」を行いました。
ドームの前であおむけになります。
直前に女の子が水筒のお茶をこぼして、その辺が水浸しになりました。
何も手元になかったので仕方なく誰かがくれたチラシを敷いて吸い込ませましたが
だれもそこには横になりたくなかったので、わたしの足をそこに置きました。
木々の間から差し込む木漏れ日と、蝉しぐれ。
66年前の8時15分がこんなにおだやかなはずがない。
でも66年たって、この国はほんとに平和になったのかな、と思いながら数分寝転がっていました。
あとで中学生の男の子が寄せた感想には
「ダイインというのは、死の場面を再現することで、
そんな悲惨なことをもう一度やるのはどうなのかと自分の中で賛否両論だったけど
やっぱりやってみると、意味のあることだと思った」とありました。
ダイインの前に、被爆者の米澤鐵志さんがマイクで挨拶し、
「自分は人類と核は共存できないと思って400回、証言を続けてきましたがその運動が足りなかったために今回の事故が起きたのだと自分を責めています」
と言いました。
もっと自分を責めるべき人はたくさんいるのに!!
原爆ドーム前で、福島から避難してきた家族がドームを指し、
「みなさん、今の福島はこんな状態です!子どもたちはこれからも、苦しんでいかなければなりません。
核兵器も原発もない世界を作りましょう。
いま止めなくていつ止めるんですか!」と大きな声で言いました。
もうそれを聞いたら、本当にそうだとなんともやりきれなくなってしまって、
勝手に涙がだらだら出ちゃっていました。
しかも、もう福島の原発は広島の原爆の20倍以上の放射能を出してしまっているんです。
子どもに取り囲まれたとこに座っていたので、一応、
「汗ふいてるんだよ~」というふりをしてあわてて涙をふきました。
8月5日、広島駅より北、山の上にあるユースホステルに着いたのは日も暮れたころ。
セミ時雨の中坂道を登っていきました。
男子は男同士まだなじまずぽつりぽつりとそれぞれ歩いているけど
女子はすぐ仲良くなってぺちゃくちゃしゃべりながらだらだら歩いてます。
女子は小学生八人がひとつの部屋。中高生とわたしたち大人合わせて六人が同じ部屋。
二段ベッドが壁ぎわになん組か設置されただけの簡素な部屋です。
小学生の部屋は二段ベッドの上の段から埋まっていき、
大人チームの部屋は下の段から埋まっていきます。
わたしはもう大人だし、下の段がいいな、なんてもたもたしてたら上の段になってしまった。
梯子でベッドにのぼってみる。うれしくもなんともなく、めんどくさいだけ。
食堂でKさんの原爆お勉強会が始まりました。
手描きの原爆リトルボーイのイラストを掲げながらお話ししてくれました。
66年前の8月6日、テニアン島を飛び立ったB29、エノラゲイ号は
およそ9000メートルの高さから原子爆弾リトルボーイを落下しました。
落下後約45秒、上空約600メートルで炸裂するようさまざまな機械の装置で制御されていました。
この絵に書かれた黄色い半円がウラン235です。
半分のウランに、もう半分のウランをぶつけ(砲弾型)、急激な反応を起こし爆発させました。
このウランは拳ひとつぶんくらいの大きさで60キロ、とKさんは言いました。
わたしが帰宅後調べた資料では、35~50キロと幅がありますが、
とにかくそれくらいの重さのものを、広大なアメリカの土地を使った工場で、
当時の技術で精製、圧縮したわけです。
それはそれは膨大なお金がかかりました。
エノラゲイ号に爆弾を積み込む写真、パイロットの写真、
広島の投下目標に正確に落とすためのアナログコンピューターの写真などを見せてくれました。
ここで子どもたちの質問タイムです。
さすが子どもは率直な疑問を言ってくれるからすてきです。
・ウランの他に積まれた機械はなにをするの?
・・・・電波をキャッチして今上空何メートルか測る機械や、ウランとウランをぶつける為の起爆装置や爆薬が詰まれていましたよ。
・いくらかかったの?
・・・・当時のお金で1兆円かかりました。これで「やっぱり使わない」とはなかなか言いにくいわけです。
・原爆を落とした人はまだ生きている?
・・・・落とした人には、「飛行機を操縦した人」「落とした時の写真を撮った人」
「落とすボタンを押した人」いろいろいます。
そのうちの何人かはまだ生きていますよ。
彼らも、広島に向かう時は向かい風、落としてすぐ逃げる時は追い風と、ちゃんと計算されていましたが
やっぱりすごい爆風で、わずかですが被曝しています。
また、戦争にはルールがあって、飛行機や武器のある、軍に関係したところだけ狙いましょうというジュネーブ条約というのがあります。
でも戦争になると、もうそんなのは守られないことがあります。
アメリカはこれを守っていないわけです。
原爆が落ちたとき、広島にもアメリカ人の捕虜がいました。
戦争というのは、誰を殺すか分からないものです。
・どうして日本に落としたの?
・・・・アメリカはドイツとも戦争をしていましたが、ドイツはもうその頃は降伏していました。
日本は最後まで戦争を続けるぞと負けを認めませんでした。
それでも、どうみても日本は負けていたので、本当はアメリカは原爆を日本に落とす必要はありませんでした。
でもアメリカは、せっかくつくったこの原子爆弾を、どうしても実験したかったし、
当時仲の悪かったソ連に対して力を見せたかったのです。
・どうして黒い色なの?
・・・・はじめて原子爆弾を作ったあと、パイロットは何度も何度も、
落としたり撮影したり逃げたりする訓練をしました。
訓練訓練また訓練です。
たぶんその時に黒い色だと爆弾が見やすくて、ずっとその色のままだったのでしょう。
・どういう人が原爆を落としたの?
・・・・アメリカには空軍、陸軍、海軍とありますが、落としたのは空軍の第509混成部隊です。
これは優秀な人だけを集めた軍隊です。
原爆を落とす訓練をした時は、湿地、しかも日系アメリカ人が強制的に移住させられた場所のすぐ近くに落として訓練したので
その人達はとても怒って戦後裁判を起こして勝ちました。
・今でも原子爆弾を作っている国はありますか?
・・・・あります。アメリカ、ソビエト、イギリス、フランス、中国、北朝鮮、
パキスタン、インド、あと、作ってないよと言ってるけどたぶんイスラエルも、です。
こんな感じで質問コーナーがすすみました。
子どもたちはまじめにメモをとっていました。
そのあと大浴場でみんなでお風呂に入りました。脱衣場もすごい熱気で、お風呂入った意味なし・・・。
6日は朝6時起きだというのに、みんな興奮して寝やしません・・・。
3時にごそごそ物音がするのはなんで!?
唯一の自由時間は、ベッドで携帯を見る時なのですが
電波がなんか遠いみたい!ああ~・・・・。
6日につづく!
セミ時雨の中坂道を登っていきました。
男子は男同士まだなじまずぽつりぽつりとそれぞれ歩いているけど
女子はすぐ仲良くなってぺちゃくちゃしゃべりながらだらだら歩いてます。
女子は小学生八人がひとつの部屋。中高生とわたしたち大人合わせて六人が同じ部屋。
二段ベッドが壁ぎわになん組か設置されただけの簡素な部屋です。
小学生の部屋は二段ベッドの上の段から埋まっていき、
大人チームの部屋は下の段から埋まっていきます。
わたしはもう大人だし、下の段がいいな、なんてもたもたしてたら上の段になってしまった。
梯子でベッドにのぼってみる。うれしくもなんともなく、めんどくさいだけ。
食堂でKさんの原爆お勉強会が始まりました。
手描きの原爆リトルボーイのイラストを掲げながらお話ししてくれました。
66年前の8月6日、テニアン島を飛び立ったB29、エノラゲイ号は
およそ9000メートルの高さから原子爆弾リトルボーイを落下しました。
落下後約45秒、上空約600メートルで炸裂するようさまざまな機械の装置で制御されていました。
この絵に書かれた黄色い半円がウラン235です。
半分のウランに、もう半分のウランをぶつけ(砲弾型)、急激な反応を起こし爆発させました。
このウランは拳ひとつぶんくらいの大きさで60キロ、とKさんは言いました。
わたしが帰宅後調べた資料では、35~50キロと幅がありますが、
とにかくそれくらいの重さのものを、広大なアメリカの土地を使った工場で、
当時の技術で精製、圧縮したわけです。
それはそれは膨大なお金がかかりました。
エノラゲイ号に爆弾を積み込む写真、パイロットの写真、
広島の投下目標に正確に落とすためのアナログコンピューターの写真などを見せてくれました。
ここで子どもたちの質問タイムです。
さすが子どもは率直な疑問を言ってくれるからすてきです。
・ウランの他に積まれた機械はなにをするの?
・・・・電波をキャッチして今上空何メートルか測る機械や、ウランとウランをぶつける為の起爆装置や爆薬が詰まれていましたよ。
・いくらかかったの?
・・・・当時のお金で1兆円かかりました。これで「やっぱり使わない」とはなかなか言いにくいわけです。
・原爆を落とした人はまだ生きている?
・・・・落とした人には、「飛行機を操縦した人」「落とした時の写真を撮った人」
「落とすボタンを押した人」いろいろいます。
そのうちの何人かはまだ生きていますよ。
彼らも、広島に向かう時は向かい風、落としてすぐ逃げる時は追い風と、ちゃんと計算されていましたが
やっぱりすごい爆風で、わずかですが被曝しています。
また、戦争にはルールがあって、飛行機や武器のある、軍に関係したところだけ狙いましょうというジュネーブ条約というのがあります。
でも戦争になると、もうそんなのは守られないことがあります。
アメリカはこれを守っていないわけです。
原爆が落ちたとき、広島にもアメリカ人の捕虜がいました。
戦争というのは、誰を殺すか分からないものです。
・どうして日本に落としたの?
・・・・アメリカはドイツとも戦争をしていましたが、ドイツはもうその頃は降伏していました。
日本は最後まで戦争を続けるぞと負けを認めませんでした。
それでも、どうみても日本は負けていたので、本当はアメリカは原爆を日本に落とす必要はありませんでした。
でもアメリカは、せっかくつくったこの原子爆弾を、どうしても実験したかったし、
当時仲の悪かったソ連に対して力を見せたかったのです。
・どうして黒い色なの?
・・・・はじめて原子爆弾を作ったあと、パイロットは何度も何度も、
落としたり撮影したり逃げたりする訓練をしました。
訓練訓練また訓練です。
たぶんその時に黒い色だと爆弾が見やすくて、ずっとその色のままだったのでしょう。
・どういう人が原爆を落としたの?
・・・・アメリカには空軍、陸軍、海軍とありますが、落としたのは空軍の第509混成部隊です。
これは優秀な人だけを集めた軍隊です。
原爆を落とす訓練をした時は、湿地、しかも日系アメリカ人が強制的に移住させられた場所のすぐ近くに落として訓練したので
その人達はとても怒って戦後裁判を起こして勝ちました。
・今でも原子爆弾を作っている国はありますか?
・・・・あります。アメリカ、ソビエト、イギリス、フランス、中国、北朝鮮、
パキスタン、インド、あと、作ってないよと言ってるけどたぶんイスラエルも、です。
こんな感じで質問コーナーがすすみました。
子どもたちはまじめにメモをとっていました。
そのあと大浴場でみんなでお風呂に入りました。脱衣場もすごい熱気で、お風呂入った意味なし・・・。
6日は朝6時起きだというのに、みんな興奮して寝やしません・・・。
3時にごそごそ物音がするのはなんで!?
唯一の自由時間は、ベッドで携帯を見る時なのですが
電波がなんか遠いみたい!ああ~・・・・。
6日につづく!