うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

ありがとう。

2012-02-16 | Weblog
去る人は前を向いているから


今まで自然にそばにいて、
とくにすごく仲よくしていたわけではなくても
でもあたりまえにいた人が
いなくなるのが


送る人には
まるでじぶんのからだの、どこかがなくなるようだ。


こころのどこかが、ちぎれるようだ。


わたしもそうやって、ちぎれるようなきもちで人を送ったことがあるから
よくわかる。



わたしが大切におもってきたように
もしかしたらそれ以上に
わたしを大切に思ってきてくれた人だから



でもそんな気持ちをみせないで
わらって背中を押しだしてくれるあなたに
ありがとう。


力強く送り出してくれるあなたに
ありがとう。









横浜に23年、東京三鷹に2年、小田原に14年、いました。
娘がよちよち歩きから、一人で歩けて、自転車に乗れて、いま私と歩調を合わせるように
小田原での日々はわたしにとって、子どもと共に新しい世界へ踏み出し、歩んだ14年間でした。

どんな場面を思い出しても、きらきらしています。
だいすきで、ときどきだいきらいな街でした。





引越し先のアパートは築24年の木造2階建てで
今住んでるとこよりもだいぶ新しいけれど

パソコンをつなげるには1か月くらいかかるそうなので
明日からしばらくブログをおやすみします。


ひと月後に、また描けるのか、わかんないけど・・・。



ほんとうにありがとうございました。
いままで6年ちかく、読んでくださった方に感謝します。


あなたの健康と幸福を祈っています。


裁判傍聴パート3・その2

2012-02-15 | Weblog
つづいて周くんの尋問です。


川遊び中、土手の近くの水の中に砲弾を見つけました。
斜めに川底に刺さっていました。水の中から引き抜きました。
触ってはいけないものだとは思いませんでした。
これまでも、普通の砲弾には触ったことがあります。
近くの小枝を砲弾に差し込んで遊びました。
劉くんのすねに黄色い液体がかかりました。酸っぱくてくさい臭いがしました。
そのあとも、砲弾を持ち歩きました。液体が右足の太ももと甲にかかりました。
その日の夕方、皮膚が赤くなりました。針で刺されるように痛くなりました。
翌朝には、水疱が太ももと甲にできていました。どういうことかわからず、こわくなりました。
おばあちゃんは、毒のある草にでもさわったのだろうと言いました。
天気がよくないときには、かゆくなります。
敦化市の病院に入院しましたが、症状は誰も教えてくれなくて、とまどいました。
1か月、水疱をつぶしたり、塗り薬を塗ったり、点滴を受けたりしました。
とても痛かったです。その痛さは、言葉では言えないくらいでした。
面会も、入院3日目から10日目まで禁止になりました。
その後も、1日1人、1時間の面会で、さびしかったです。
退院後は、以前は簡単に昇れた階段でも息切れするようになりました。
すぐ疲れてしまい、月に2,3回は風邪をひくようになりました。
今は毎月1、2回風邪をひきます。
学力もおちてしまい、得意だった作文もうまくできなくなりました。
クラスメートは変わった目で見ました。「うつる」とか言われ差別されました。
よく遊んだ友達が遠ざかり、「毒ガスがうつる」と言われたり
「毒ガス弾」とあだ名をつけられたりしました。
学校がつまらなくなり、自分を知っている人がいないところで専門学校に入りました。
日本政府にたいしては、自分がどうしてこんな苦しみを?と憤りをかんじています。
1992年には毒ガス弾が埋まっていたことを知っていたでしょう。それなのに、事故が起きてからはじめて調査にきたのです。
蓮花泡の人の多くがガンになって死にました。
調査にきた日本の人は、ここの水も飲まなければ、作物も食べていません。
でもわたしたちはずっと以前から、ここの水を飲み、作物を食べてきてしまいました。
日本の人は人の心を持っているのでしょうか?
謝罪してほしいです。生活を保障してください。



と訴えました。
きゃしゃで色が白く、少年のようにみえますが、もう今年20歳なのだなあ、と思いながら彼をみていました。

3人の尋問が終わり、弁護団が最終弁論をおこないました。




原告や支援者たちは、提訴前に日本政府にたいして生活保障、医療保障を要請してきたが
望むような結果が得られず、やむを得ず本訴提起に踏み切ったと述べました。
未然に被害を防ぐためには、危険地域を限定し、
現地に住む人に危険な場所を教え、埋まった兵器を発掘、処理することが重要であり、
早い時期なら存命する旧日本兵の協力をあおぐことも出来たはずだったが
国は被害防止の観点から行動することをまったく行ってこなかったとして
被告国の不作為と先行行為に基づく条理上の作為義務を指摘しました。


(むずかしい言葉ですが、先行行為とは、毒ガス弾を遺棄、隠匿したことで
作為義務というのは危険を除去する義務のことで
不作為というのはそれを怠ったことをさしているのだと思います。)



中国大陸には膨大な数の旧日本軍による毒ガス弾が埋まっており、
その資料もあり、現地調査や聞き取りによっても国はその事実を知っていたにもかかわらず
発見された砲弾を調査するのみにとどまりついに被害者を出してしまったことにたいして
原告は国に、損害賠償を求めました。


発言した弁護団は全部で5,6人ほどです。
ある弁護士さんの弁論が印象に残りました。


「他人の家に爆弾を仕掛けた犯人が,その仕掛けた場所を示す図面を消却し,そのまま逃げた後,ある日突然その爆弾が爆発し,その家の住人が怪我をしたという事案と何も変わりはありません。
その犯人は,自分が爆弾を仕掛けた場所の図面を消却してしまったから,どこに爆弾を仕掛けたかわからなくなってしまった,といって免責されるでしょうか。
その犯人が,その家は他人の家なので,もはや勝手に入ることもできないから,何もすることができない,といって免責されるでしょうか。
沢山爆弾を仕掛けてしまったので,間に合わないといって免責されるでしょうか。
そのようなことが許されるはずはありません。
最高裁昭和62年1月22日判決のいわゆる京阪電鉄置石事件では,電車転覆の原因となった置石について,実際に自らは石を置かず,またその置いた石の場所も知らなかった現場共犯者に対して,事故発生の予見可能性を認め,「実行行為と関連する事故の・・・先行行為に基づく義務として,当該置石の存否を点検確認し,これがあるときはその除去等事故回避のための措置を講ずるべき義務を負う。」としました。つまり実際の置石についての認識が無かった者についても,その被害防止義務を課したのです。
まして日本国は,自ら化学兵器を遺棄してきたのですから,いかなる意味でもその責任を免れるものではありません。
(略)
損害の賠償とは,原告二人の被害者の損害を誰が負担するかの問題です。
そこには日本と中国の国家間の問題などは全く無関係なのです。
二人の損害を原告ら自身が負わなければならない理由は一つもありません。
これに対して日本政府が負うべき根拠は明白です。
仮に中国政府にも何らかの落ち度があったとしても,そのことをもって日本政府の責任が免責されるようなことは断じてありません。
裁判所におかれては,法律に基づき,国の責任をしっかりと認めて頂きたいと思います」






11時から始まり、16時過ぎに閉廷、解散したあと、弁護士会館で劉くんたちを囲んだ報告集会がもたれました。
劉くんのお父さんは、今回4度目の来日だったそうです。
皆に挨拶し、

弁護団のみなさんが朝から晩まで陳述書を書くのを手伝ってくれたことに感謝しています。
子どもの事故以来、日本にいい人なんかいない、と思ってきました。
それでも何度も日本にくるうちに、自分たちの子どものためにこんなに頑張ってくれている人たちがありがたく、
とてもなぐさめられています。感謝しています。

と言われました。

周君は、
長期間応援してくれてありがとうございます。おつかれさまです。と挨拶しました。


そのあと、いろいろ質問コーナーがあったのですが
劉君らが住んでいた村の発ガン率は非常に高く、約8割がガンで死亡しているとのこと。
隣村はほとんどガン患者はいないそうです。



若い弁護士さんで、周くんの原告代理人をつとめた人が周くんに質問。
「準備した書面とちがう事を言ったのはなぜ?」と。
周くんとその弁護士さんは、二人で何日もかけて陳述書を作成しましたが
最後、「日本政府になにか言いたいことは?」という箇所で、なかなか周くんは言いたいことがまとまらなかったそうです。

ところが本番になって
蓮花泡の人の多くがガンになって死にました。
調査にきた日本の人は、ここの水も飲まなければ、作物も食べていません。
でもわたしたちはずっと以前から、ここの水を飲み、作物を食べてきてしまいました。
日本の人は人の心を持っているのでしょうか?
謝罪してほしいです。生活を保障してください。


と発言したので、予想もしていなかった弁護士さんはびっくりしたそうです。

周くんは照れ笑いをしながら、自分でもよくわからない、でも法廷で頭に浮かんできた言葉が口からでてきた、と言い、
昨年入ったばかりというこの若い弁護士さんは涙ぐんでいました。



最後に、劉くんのお父さんが、この会場にいる人たちにたいして、
子どもたちがこのような被害をうけていることに対して、日本の親の世代はどう思っているか聞きたい、という問いかけがありました。

とっても重い問いかけで、わたしはどうしよう・・・と苦しくなりました。
わたしの近くにいた、元日本兵という人がこの3人に向かって謝罪をしたり
他の人は頑張ってくださいと言ったりしました。
それを受けた、大学生の息子がいるという男性が、
家庭の中でこのような戦争の事実について話し合うのが大事なのではないか、と発言しました。


わたしも、14歳と11歳になる子どもたちには、
昔日本は戦争があって、たくさんの中国人やアジアの国の人たちが殺されてしまったんだよ、
戦争にいかされた日本人も殺しに参加させられたり、飢えて死んだりしたんだよ、と教えていますよ。
そして今も兵器で人生を壊される人もいるということも。
子どもたちは子どもたちなりに国の起こした戦争について考え
自分の頭で考え、周りのひとたちと仲良くできることを考えていると思いますよ。

そう、劉くんのお父さんに伝えたかったのですが
伝えることはできませんでした。



判決は4月16日月曜日、705法廷にて10時からです。
わたしはこの傍聴に参加して、劉くんたちと、今現在健康被害を受けている
日本の子どもたちを重ねてみていました。


過去に無関心だったから、現在もこれからも同じようなことが起きてしまうんだ。
そうならないためにできることやっていくんだ。これからも。

傍聴に行ってほんとうに貴重な体験ができました。



長くなりましたが読んでくださってありがとうございます。






裁判傍聴パート3・その1

2012-02-15 | Weblog
月曜日は、再び霞が関まで、裁判の傍聴にいってきました。

わたしはこれで3回目です。
2008年から国と闘ってきたこの裁判は、この日が地裁の結審でした。
今後の展開は、次回の判決を待つことになります。



敦化事件とは

敦化事件は,2004年7月23日,中国吉林省敦化の郊外の村を流れる小川で遊んでいた少年2人が旧日本軍が遺棄した毒ガス弾を拾い上げ漏れた毒ガス液に被毒した事件です。

この日は中国から、弁護団や支援者の援助によって、周くん、劉くん、劉くんのお父さんが来日、
法廷で尋問が行われるということでした。





霞が関で降り、すこし時間があったので経産省前のテントに立ち寄り、話を聞いたり
カンパを渡したりしてきました。
昨年の9月にテントを作って以来、この日で156日目ということでした。


地裁で友人たちの集まっている正門に行くと、もう原告団がずらりと集合していました。
結審の日は、横断幕を持って裁判所に入廷する「入廷行進」があるのだそうです。
よくテレビでみる、あれなのだ。
友人が、カメラと動画と、両方撮ることになっていて、大変そうだったので、
手伝うよと気安く請負い、カメラで行進を撮っていたところ
撮ることに夢中になって、門扉と道のあいだにあった細い溝に足をとられ
ド派手に転倒・・・・。


あ~みんなこっち見ちゃダメー!と思いながらスローモーションで転んだつもりだったのですが
あとで動画をみたら、行進していた人たちが
「うわー」とか「ひゃー」とか言いながら一斉にこっち見ちゃってる・・・。
本当にすみません。

友人にごめんよ~と謝りながらカメラをやりとりしていると、すかさず警備の人が
「カメラは持ち込まないでください!」と叱る様に迫って来る。



足と腕が熱いくらいに痛いのを我慢して、入り口で持ち物チェック。

この持ち物チェックおよび身体検査に抗議して、大声で
「裁判所がこのような不当な行為を行うとは・・・」と朗々と訴えるおじさんを横目で見ながら
友人に、足に湿布を貼ってもらいました。



さて気を取り直して。
大きな法廷は30人ほどの傍聴があったでしょうか。
ほんとは100人くらい入るのかな。

裁判官が登場して、全員起立。
一緒に来た友人の一人は、いつも起立しません。



始めに尋問が行われました。
尋問とは、原告(周くんたち)と、弁護士(原告代理人といいます)の間で作った
陳述書に基づき、法廷で原告代理人が原告に質問をし、原告があらためて面前で
証言したり、事実の確認をおこなったりすることです。

原告の人たちは日本語が話せないので、通訳が必要になります。
弁護士が質問した日本語を、通訳が中国語で原告に質問し、原告の答えを通訳が日本語で答えるという形ですすみました。

まず通訳の宣誓から。
「偽りなく通訳することを誓います」と宣誓させられます。
「虚偽の証言を行うと処罰されます」と裁判官。

3人の原告の尋問のうち、最初は劉くんのお父さん。

弁護士たちと作った陳述書に誤りがないかの確認をしたあと、30分ほどの質疑応答が続きます。
たとえば、

弁護士「あなたは、これまで棄てられた砲弾をみたことはありますか?」
劉くんのお父さん「はい」

弁護士「砲弾は危険だと思っていましたか?」
お父さん「いいえ」


弁護士「それはなぜですか?」
お父さん「信管が入っていなければ安全だと思っていたからです」


というようにです。
劉くんのお父さんの証言を要約すると




自分は敦化市蓮花泡(れんかほう)で生まれ育ちました。
旧日本軍が毒ガスを遺棄したとされる馬鹿溝(ばかこう)とは、同じ場所です。
あちこちに砲弾が落ちているのは知っていましたが、毒ガス弾が埋まっているとはこの事故が起きるまで知りませんでした。
普通の砲弾は、信管がないので、とくに危険とは思っていませんでした。
2004年7月23日に当時8歳の息子が砲弾の液体に触れ、
そのときは息子は祖母の家に遊びにきていたので、わたしが息子に会ったのは24日でした。
右手の中指と小指の間に水疱ができて、痛いと泣いていました。
敦化市の病院から、防護服を着た人たちがきて、息子を連れて行きました。
入院してから3日後から、面会禁止になり、頭が真っ白になりました。
悪い方にばかり考えがいってしまいました。
指の手術をされ、面会したときには指が包帯でまかれていました。
麻酔もしないで手術をしたので、ベッドが人の形に汗でびっしょり濡れていました。
その間、日本人の外交官や旧日本兵が息子の様子を見に来ました。
外交官には「これはどうしたら治るのか教えてほしい」と言いましたが
通訳はノーコメント、ノーコメント、と言って帰ってしまいました。
退院後、息子は体力、記憶力、免疫力が低下しました。
階段が昇りづらくなり、月に何度も具合が悪くなります。
風邪や咳、37.8℃くらいの発熱なども頻繁です。
医療費もかかり、あまり積極的に治療を受けることができません。
毒ガスがうつる、と差別され、近所にいじめられるので学校も留年し
結局引越しました。
そのあと自分の住んでいた所は、警戒区域として立ち入り禁止となり、村全体が引越しすることになりました。
精神的、経済的に非常に損害を受け、息子がまた病気になるのではないかと思うと
悲しく、焦ってしまいます。
将来について考えることができません。

日本政府にたいしては、非常に強い憤りをもっています。1992年には、ここにたくさん毒ガス弾が埋まっていたのをしっていたはずです。
なぜ住んでいるわたしたちに教えてくれなかったのですか。
日本政府はわたしたちに謝罪しなくてはなりません。
裁判官には、公正、公平な裁判をお願いします。


と証言しました。
小柄で肌が浅黒く、朴訥そうなお父さんでした。
どうみても50代くらい、と思っていましたが、歳をきくと1969年うまれということでした。
わたしたち傍聴席からは表情は見えませんでしたが、肩をふるわせ、息子の事故のことを話すときには涙を流していたそうです。

尋問が終わり、国側からの質問が行われました。
お父さんの生年月日と、これまで一度も毒ガス弾が埋まっているときいたことはなかったのか、という質問でした。





つづいて、息子の劉くん。16歳の少年です。
同じ様に宣誓し、尋問が始まります。

事故のあった日は夏休みで、おばあさんの家に遊びにきていました。
川で遊んでいるときに砲弾をみつけました。
周くんが砲弾を枝でいじっていて、黄色い液体が自分の右足のすねにつきました。
それを右手で、川の水で洗いました。
次の日の朝4時ごろ、右手の中指から小指に水疱ができていました。2センチくらいです。
右足のすねには8センチから10センチくらいの大きな水疱ができていました。
おばあさんが針で水疱をつぶしてくれ、中の水をふき取ってくれました。
とてもかゆくて眠れませんでした。
液体が出続けていました。
林業局の書記がきて、自分の写真を撮って帰りました。
近くの病院に行きましたが、おおまかな処置とやけど用の軟膏を塗ってもらいましたが
かゆみはひきませんでした。次の日、敦化市の病院から救急車が来ました。
防護服を着て、マスクを着けた人たちだったのでびっくりしました。
入院し、点滴をうけ、水疱をつぶしてはふき取る治療を受けました。
だんだん、皮膚の色がくさったように黒く変色してきました。
皮膚を切り取る手術を受けました。麻酔がなかったので痛かった。
手術後は、面会も一日一人で、時間制限があったのでさびしかった。
退院後留年し、転校したが、今も体力がありません。
他の子と一緒に遊ぶと、すぐ疲れてしまうのを感じます。
熱がよく出て、咳が続きます。
今は体育の授業も、かろうじてついていっています。
傷は治ったけれど、曇りの日にはとても傷痕がかゆくなります。
将来が不安です。治せない病気になったらどうしようと思います。


劉くんはこう証言しました。
丸顔で色白の男の子でした。

裁判官は「傷をみせて」と言いました。
劉くんが裁判官の席に近付いて、右手と、すねの傷痕をみせました。
国側の弁護士もまじまじと覗きこんでいました。


裁判官からすすんで「みせて」などと言うことは、とても珍しいのだそうです。




この毒ガス弾に入っていた液体イペリットには強烈な毒性があり、
免疫機能障害、神経障害、皮膚障害、発がんなどが長期にわたって体をむしばみ、
その複合性、継続性、進行性、遅発性が複雑に絡み合った症状を呈するのだそうです。
そしてこれは人を殺傷する目的で製造されたものであるため、治療法もまだ未解明であり、
今生存できていたとしても、どこまでも被害者の人生を傷つけ続けるものなのです。



正午すぎたのでいったん休憩。
昼休みをはさんで尋問を再開します。



周くんの尋問と最終弁論に続きます!!
























むろうじ

2012-02-08 | Weblog
うまくかけなかったけれど室生寺の仏さまです。

この日は雪が積もっていて、石段もお堂も五重塔も真っ白でした。




お寺のお掃除の人も、係の人たちも
みんな足元を気にしてくれて
拝観の時間がもう終わりに近づいていたのに
ゆっくりみなさいと、お堂の扉を開けて待っていてくれました。

帰りは通りかかった軽バンのおじいさんが駅まで乗せてくれました。




20年前に出会ってずっと心に残っていたお釈迦さまは
やっぱり今もとてもきれいで、来てよかった、と思いました。





いろいろ考えて、何度も迷って、頭おかしくなりそうなくらい悩んで
夫とも、子どもたちとも何度も何度も話して
今月下旬に奈良に越すことにしました。





不動産屋さんに鍵をもらいに行ったついでに、
奈良のお寺をみたり、友人に京都の町を案内してもらったりしてきました。

ほんとにこの町でわたしは暮らすのか、まだ実感がわきません。
でも、前向いていくんだ。
仏さんも待っててくれた。






最近読んだ辺見庸さんの本に
「人の旅は、だれかをさがしもとめる外への彷徨のようでいて、
ふと気がつけば、おのれの魂の在りかを手さぐりし内へ内へともぐる終わりない縦の道ゆきなのである。
そのことに気づかないかぎり、
私はただ思念のトーラス(円環面)上を過去の忘却とねつ造をくりかえしながらハツカネズミのように死ぬまでめぐりめぐるだけなのだ」


という一節があって、この文章ばかりが頭のなかで何度もよみがえります。



不安と、新しい旅への期待で、心を震わせながら荷造りをしています。