うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

さば

2010-08-29 | Weblog
昨日はともだちのうちに泊まりにいきました。

今朝、海に散歩に行ったら、釣りのおじさんがさばをたくさんくれました。


朝ご飯は、さばのみそ煮と塩焼きにしました。







夜は秋

2010-08-27 | Weblog
昼間は悪魔の様な暑さですが

夜はもう秋ですね。


こちら小田原は、コオロギもスイッチョンも鳴いています。
仕事帰りにホームに立つと、もう日が暮れようとしています。






こどもたちとヒロシマ

2010-08-24 | Weblog
♪ああゆるすーまじげんばくをーわれらーのまーちーにぃぃー♪
手話を習ってきたみたいです。


わたしの子どもらは
広島に行ってどうだったかというと
「みんなと友だちになれて、泊まってたのしかった!!」
ということです。

また行きたい!って。

エリザベト音楽大学の学生さんがたがお世話してくださったようで
娘はお姉さんの「今日も暑いよ~」て言う広島弁がすごくやさしくて気に入った♪そうですし
息子は「女の子みたいじゃのう。かわいいのう」とお兄さんに言われたそうですし・・・。


なんか、戦争のこととか、原爆のこととか、どうだった?
と聞いても、あんまり具体的には感想を言いません。そんなもんかな。

でも
「原爆って、日本も悪い事してたから、お互いさまの面もあるって言われた」
とさらりと娘に言われ
なんだかどきっとしてしまう。そう習ってきたか。

そうなんだけど、でもだからって、落としていいことないんだけど。
でも確かに日本はひどいことしてきたんだよ。


子どもにすんなり言われると、
なぜかどぎまぎしてしまう。



息子はとにかく資料館の展示は強烈だったようで「怖かった」と言います。
わたしが買って来た「はだしのゲン」絵本版〈ここでしか買えないらしい〉も読みません。
西村繁男さんの絵による「絵で読む広島の原爆」はよくめくっています。


広島の今の子どもたちは、どんな風に原爆を、戦争を学んでいるのかな・・・。
うちの子らよりは、断然、身近にあるのでしょうね。




わたしの出会った広島の人たちは、
「戦争の記憶が、街からどんどんなくなっていく。
新しいビルやマンションや道路に埋もれていく」
と嘆いていましたが、
私たち他の県からきた人間が案内してもらえば、
ここにも、あそこにも、戦争の記憶がある、65年経っても、
とあまりの傷痕の多さに呆然となるくらいです。

でも、案内してくれた人は、街が変わっていくことに戸惑っているようです。
当たり前のように傷痕が残っている、
ここで生まれ育った人たちは、街のさまざまな傷痕もまた、
自分の中にとけこませているように思えました。



エリザベトの学生さんがお別れのときに
「ぼくは子どものころから当たり前のように原爆のことを教わってきたけれど
今回子どもたちと過ごせて、知ってもらえてよかったです!」
とあいさつしたのが印象的でした。


むかし、日本が戦争をしていたことも、
今は知らない子どもたちが増えているそうなので
この彼も、将来広島を出て、
外から見たときに気づき、感じることがたくさんあるのだろうと思いました。





むかし、みんなの命が大切にされなかった時代があって
それでいま、みんなの命が大切にされているのかといえば
全然「はい」とは言えないどころか、どんどんその不幸せが燃え広がっているような気がして
つい落ち込んでしまうのだけど
やっぱり!なんたって!みんなで生きていたい。生きるんだよ。











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



もう、思う存分、広島で感じたこと、書かせていただきました。


たくさん読んでくださった方、本当にありがとうございました〈^^











サンプル

2010-08-24 | Weblog
6日の夜は、広島のホテルの部屋でNHKの特集をみていました。


日本は原爆投下後の被爆者のデータをとり、率先してアメリカに差し出しました。
データは治療には使わない。
自分たちの戦犯のがれと、アメリカのご機嫌伺いのために、被爆者をサンプルにしたのです。

原爆投下後まもなく、日本人の医者や学者が膨大な「原爆の医学的調査報告」を作成、英訳され、
すべて極秘でアメリカに渡されていたそうです。


もうわたしはこれを見てがっくりきて、缶ビール飲んで寝たのでした。
国はどこを向いているんだ・・・。




この映像作品は、もう26000回以上も再生されたそうなので、
知っている方も多いと思いますが
あちこちから教えていただいたので、ここにも載せます。
世界中で行われた核実験を世界地図上に視覚化した映像作品です。
作者は箱根ラリック美術館の学芸員でもある橋本公さんという方です。


わたしはTakeさんのブログから知りました。




これらの実験を繰り返すアメリカの技術者の手元、あるいは脳裏には
単なるデータとして、苦しむ人の姿があったのかと思うと、暗然とします。




一方で、広島市長の名前で打電し続けられた抗議文があって。







おはか

2010-08-22 | Weblog
広島でわたしは、さまざまなお墓をみました。


ひとつは、死者をまつり、顕彰するお墓があります。
国のためによく死んでくれたとほめるお墓です。


もうひとつは,
墓石に「昭和二十年八月六日」と書かれたお墓です。
五歳、十九歳・・・


また、一方に、まばたきする間に家族が全滅し、誰も面倒をみなくなった無縁墓があります。
ここには、誰も訪れることがありません。



戦争というものをこれらのお墓もまた、端的にあらわすものでしょう。



そして、わたしたちが忘れてはならないのは、お墓どころか名前さえ無くした人たちのことです。


海の向こうから連れられて

本当の名前をはぎとられて


うその名前をつけられて
お金ももらえず働かされて


死んでもだれも本当の名前を知らず、
道にうち棄てられた人が、たくさんたくさんいたことをです。






今日は日韓強制併合100年で
池袋の公会堂で開かれた「日韓市民共同宣言日本大会」に行って来ました。

従軍慰安婦にされていたひととか
強制労働とひどい拷問を受け続けて命からがら帰国したひととか
さまざまな形で日本の植民地支配の苦しみを受けたひとが発言しましたが

かれらは皆、隣人として新しい未来をえがいてこの場にいるというのに


外では、ずっと街宣車が怒鳴り続けていました。
出て行け、出て行けと。


これが今も続く日本の姿です。





かがいとひがい

2010-08-21 | Weblog
そんなふうに
加害と被害がからみあっているのを
わたしはどう捉えていいのかわからない状態で帰ってきました。


そして14日に、小田原で毎年恒例の「8月15日を考える会」主催の
『「戦争」と「平和」を考える集い』がありました。



シンポジウムで発言されたのは、
松本茂さん、加納実紀代さん、米田佐代子さんでした。

加納さんは広島で5歳のときに被爆されたとのことで、とくに関心を持って聴きました。
広島は、被害と加害の二重性を背負わされた、とわたしが思っていたのと重なる発言をされたので
加納さんの本を購入しました。



引用します。
「被害者であってかつ加害者、これがあの侵略戦争における日本の民衆の状況だ。
これはたんに被害者であるよりも、もっと悲惨な状況ではないだろうか。
「ヒロシマ」は、私たち日本人にとっては、たんなる被害ではなく、被害と加害の二重性を持った
民衆のより深い悲惨の象徴としてこそ掲げられるべきであった。
そのときはじめて、
「ノーモア・ヒロシマ」は、たんに原水禁運動のシンボルを越えて反戦の象徴となることができる・・・・

(略)・・彼らは、人類初の核兵器の犠牲者であると同時に、
日本人全体の加害性の責任を集中して背負わされたといえる。
彼らだけに責任を負わせて被害者に安住するわけにはいかない。

自らの加害性を直視した上で、被害者であってかつ加害者である悲惨の極みに民衆を追いこんだものを明らかにし、
落としまえをつけさせねばならない」

(1987年「女たちの銃後」)




わたしは、戦後生まれのわたしにも戦争責任はあると思っています。
シンポジストの「らいてうの家」館長、米田さんの教え子が
「戦争について知らなかったということがわたしたちの戦争責任だ」と答えたそうですが
同じ意見です。


そして「こんな町だから原爆落とされたんじゃ」という広島のおじさん。

彼も当時子どもだったとしても責任があったとして
それでも「自分たちも戦争を支えたのだから」と国の責任を問わない姿勢は、
そのままアジアへの加害責任も問わない姿勢につながっていくのだと思います。
国の責任と、
戦争の恩恵を受けたり、海の向こうの被害を知らなかった自分たちにも課せられた責任。

これを切り離してはじめて
補償をもとめる海外の被害者の声にも向き合えるような気がします。











わたしの会った広島のひとたち

2010-08-21 | Weblog
7日に小田原に帰ってきました。
ずっとヒロシマ熱がつづいています・・・。
日記は17で終わりにしました。よかったら読んでくださいね。




3日間という短い日程のなかで出会った人達は
数が限られているのですが

わたしの予想に反して


「まず、戦争でアジアに対して日本は何をしてきたか。
それをちゃんと清算しないかぎり、
広島の声は届かない」



痛烈で、きびしいけれど、この言葉が多くの人の口からでてきました。
65年目の、冷静で、平らかな心から発せられた言葉なのでしょう。


なんとなくイメージとして、ヒロシマは有名だし
被爆者の声というのは皆が拝聴して、深く考えるのだから
彼らが被害体験を語るのは有無をいわさないのだろう
アジアへの加害の目はこの際ないのだろう、と勝手に思っていました。



在日のおばさんに、旅の最後の日にふたたびドームの前でばったり会いました。
「そうしないと、広島の声は本当の声にならない」

まっすぐな目で言われたのもずっと残っているし


軍都の跡を案内してくれた「だから原爆が落とされる町になっちゃったんじゃろう」というおじさんや
「広島は国に見捨てられた孤児ですよ」というおばさんの声も残ってる。



広島の方言でそんなこと言われると、やさしくて、かなしくて、ちょっと切なくなりました。

うなだれた人達でした。


彼らの自己批判に打ちのめされました。


わたしが生まれたときにはすでに「ヒロシマ」はあって、
なにも罪のない市民が焼き殺され、
今も放射能障害に苦しむといった原爆の特殊性が強調され
日本国民は被害者である、といった意識で育ってきました。


それが、日本軍の戦争時の加害を知るにつれ、
アジアの、日本軍に殺された2000万の被害者への謝罪、責任追及なしにはヒロシマの被害は語れない、と
非常に第三者的にばっさり斬るように考えるようになっていました。


まさに大岡昇平のいう「身から出た錆」なのだと。
しかし、錆と言い切り、彼らの被害を仕方ないことにするのか?
65年前に焼き殺されそうになり、地獄を味わい、今はこんなにうなだれ
「自分たちの責任じゃ」と言い切る彼らに
「そうですよ」とわたしは面と向かって言えるのか。

加害者だから、被害は打ち消されるとか、
被害者だから加害は関係ないとか
そうではないのじゃないか?
被害も、加害も、どっちもでしょう。



大もと(本?元?)も、大もと。そこが責任をとっていないまま来ているというのに
なぜ彼らだけがうなだれるのだ。
激しく動揺してしまいました。




ひろしま・2

2010-08-14 | Weblog
長い文になります。かくご~。




へたですが、原爆ドームに原爆が落ちる前の産業奨励館の絵なんです。

5日は12時に広島に着いて、市電で平和公園へ向かいました。
修学旅行で高校生の時訪れて以来だけど、まったく忘れてる・・・・。なにみたっけ。




激暑です。猛暑です。
平和公園では、とにかくたくさんのひとびとが、
署名活動をしてる、川べりでコンサートをしてる、ツアーで歩いてる、
写真展をしてる、お経をあげている、ビラをくばってる、ゼッケンでアピールしてる。
その雰囲気に圧倒されました。

・・・こんなことになってるんだ!しらなかった!


外国の人達もたくさん行き交っていました。


14じから2時間、広島YWCAの方たち主催の「ヒロシマの今から過去を見て回る会」のフィールドワークに参加しました。

公園内の碑めぐりです。出発はやっぱり原爆ドームから。



ドームは現在築何年か知ってますか。
95年とのことです。

れんが作りのこの建物、東京駅の駅舎とほぼ同じ年代だそうです。
なぜ爆心地から数百メートルしか離れていないにも関わらず、残ったのかといいますと
窓が大きかったため、上空で炸裂して起きた爆風や熱を、窓から逃がすことができたからだそうです。



この一帯、半径2キロの距離のすべてのものは、約3000度~4000度の熱線と爆風と放射能を受け
焼き尽くされました。一部の堅固な建物は、かろうじて残り
被爆した樹木のいくばくかは、ふたたび新しい芽を生み出したのでした。




建物内にいた130名の方は全て亡くなったとのことでした。


よく見ると、中には新しい太い鉄棒が立ち、隅々まで建物を支えています。
れんがの表面にみえる白いつぎはぎは、樹脂で補強した跡だそうです。


当時は広島県内の産業奨励や文化向上のための展示場としてにぎわいました。
平和公園になる前は、それは華やかな繁華街だったのです。



ガイドをしてくださった60代の女性のお話を聞きながらよく見ますと
細部にわたって洋風の装飾が施されているのが想像できました。

当時は広島の市民にとって、たいへん誇らしい建造物だったそうです。
中央にはらせん階段がしつらえてあったそう。


原爆が落ちてからは、どこからでも見える目印となり
中で寝起きする人がいたり、安否を尋ねる立て札などが立ったりしたそうです。



終戦からまもなく、辛い思い出をもつ広島の人々は、この建物の撤去を望みましたが
「人間の愚かさをあらわすものとして残して欲しい」との白血病患者の少女の新聞投書から
保存の機運が高まったそうです。


ガイドさんからは、こんな話も聞きました。
最近、子どもたちがドームそばを流れる元安川の川底から、建物の一部を掘り起こし
再びドームへ修築したそうです。
驚いて伺うと
まだまだ今でも、当時の人骨や児童の校章、帽章が出てくるとのことでした。





原爆ドームから相生橋まで歩きます。






相生橋のT字型が、原爆「リトルボーイ」を載せたエノラゲイ号の目標になったといいますが
そこから数百メートル離れた島病院の上が爆心地となりました。
ガイドさんは
目視で9000メートルの高さから目標を定めるのは難易度の高い作業であり
にもかかわらず数百メートルしか誤差がなかったのは、
当時のアメリカの精度がいかに高かったか、はかり知ることができます、と説明しました。




次に、蓮池の中央に建てられた「平和の鐘」を案内してもらいます。
大きな銅の鐘の裾にはぐるりと、サンスクリット語で
「自己を知れ」と書いてあるそうです。

鐘突き棒の当たる、円のなかには原子のマーク。
対の面には、鏡があしらってありました。鏡で自分をうつして、よく考えろってことかな?

鐘の全面には、国境のない世界地図が施され、
水を求めた被爆者のひとたちのために、水や日陰をもたらす5種の蓮が周りに植えられているのでした。



次に、こんもりと緑のしげった小山へ。
原爆供養塔です。
ここは、まだ町だったころは慈仙寺というお寺の敷地でした。

原爆投下後、ここで何万もの亡くなった人々が積まれ、焼かれたそうです。
元安川と本川の分岐点であるこの場所には、水でぶよぶよになった死体がどんどん流れついたそうです。
桃山時代の天皇の墓を摸したという小山の中には、地区ごとにまとめた骨が、木箱に入れられて、10畳ほどの面積に納められているとのことでした。
その数七万余りです。
うち800名ほどは名前や身元がはっきりしているので、毎年各市町村にお知らせを出していますが
引き取り手がみつかるのはまれだそうです。




もう体中汗が滴っていますが、どんどんいきます!





そこから遠くない場所に、韓国人原爆犠牲者慰霊塔が建っています。
ガイドさんのくださった資料を引用します。

「以前、この碑は、平和公園外本川西詰めの河岸緑地にひっそりと建てられていました。
1970年4月、在日大韓民国居留民団広島県本部により建立されたものです。
この『慰霊碑』は亀の台座と共に、双竜の図柄を刻んだ冠のなかに収められた過去帳等
全てが韓国から運ばれてきたものです。
過去帳等は、新しい慰霊碑の場所になった際に、亀の前の石の箱の中に入っています。
死没者名簿に記載された犠牲者の数は2647人(2009年8月5日現在)ですが
実際はその10倍以上の犠牲者がでているはずです。

当初「平和公園外」に設置された経緯については、広島市は、1970年当時はすでに公園内は慰霊碑で埋め尽くされ、
新設慰霊碑の設置は認めない方針だったので、被爆死した朝鮮王朝の末裔、李公殿下救助されたゆかりの場所として、
現在の本川橋西岸をあっせんしたもので、決して「差別」したわけではない、
この慰霊碑が差別の象徴のようにいわれるのは心外だ、と強く主張しました。
確かに、朝鮮人たちが逃げ込んだ防空壕などもあったりして決して「差別」するつもりで公園外に設置させたのではないでしょうし、
また、市が「差別のつもり」を持っていたとしたらそれこそ大変なことです。」



そうですよね。大変なことです。まだつづきます。



「『差別の象徴』と見られるようになったのは、現実に『在日』の方への差別が今も根強いことにあります。
被爆時5万人?も『朝鮮人』が何故広島にいたのか、そして3万人?もの犠牲者がでたのでしょうか?
・・・・現実の差別をしっかり受け止めていれば、平和公園の外へ設置させなかったはずです。・・・・・」



ガイドさんと同行する、いかにも元気なおばちゃん!という感じの
在日2世の方に聞いてみました。

この碑の経緯、どうおもいますか?



わたしは日本で生まれ育ったけれど、両親は入市被爆しています。
やっぱり公園内に入れられなかったってことは、差別だと思っています。

でも、このハングルの文を見てもらえばわかるけれど、前向きで、日本を憎んでばかりはいないのですよ。





と明るく話してくれました。
せっかくなので
またまた引用で失礼します・・・。

「・・・願わくは、二万柱の霊魂におかれては、すべての怨みと憎悪を皆忘れて、何とぞ安らかに眠ってください。
これからは、このような悲劇の種を蒔く者も、これを受ける者もないようにして、
侵略の罪を犯す者も、侵略の哀しみを受ける者もないようにして、
遠い国と近い隣人が永遠にお互い助け合い、親しくし、仲良く暮らすことのできるようにみまもってください。・・・・」




1970年に民団によって刻まれた,
ハングル語で書かれた文章の最後のほうにはこうありました。
この日本語訳の紙を持っていたのは、大人たちと離れてお泊まりした子どもたちでした。


子どもたちは広島の牧師さんと碑めぐりをしたのですが
そのときにこの訳をいただいたそうです。
「なかなかもらえないんだよ」といわれたそうです・・・。

そして、この長い碑文の訳文。前半にある文章には傍線がひいてあります。



息子いわく
「書いてあるのを、(韓国の人が)はずかしいから石を削って消したり、やっぱり書いたりして
ここのところだけ石が白くなってるんだよ」


息子のこと鵜呑みに信じていいのか?でも傍線ひいてあるところもどうぞ。



「・・・しかし、大きく強い国の間にはさまれて、彼らの侵略によって国家が危うくなり、
人民の生活が不安に巻き込まれることが数多くありました。
王さまと高官、高位にある者の子弟を人質に送らなければならない、恨みに満ちた話と、
数多くの美しい娘を献女としてささげなければならない口惜しい話がそれであったし、
わが国の王が敵の王の前に膝を屈しなければならなかったような話がそれであります・・・」



ぜんぜんはずかしくないです。
こちらがはずかしい。


続きます!