うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

生き延びてください

2009-04-28 | Weblog
ここは自然が多いところですが


それが失われる場面に行き会うことも、
とても多いです。


鳥や植物や虫たちは
そこが人間の土地だなんて知りません。


ブルドーザーがやってきて地面を削り
トラックが土砂を流し込み
コンクリートで埋め尽くされるまで

鳥は歌ったり毛づくろいをしたり
植物は花を咲かせたり
虫は忙しく動き回ったりしています。


そして彼らは文句も言わずに去るか、消えるかします。


どうやって返していけばいいんだろう。
もしかして、返せないとか。



こんな胸がつぶれるような道は、通れません。





アボン 小さい家

2009-04-26 | Weblog
土曜は映画をみに、川崎まで行きました。

絵画教室のあと、友人に子どもをあずけて急いでいったのですが
第1部の「自然農法 福岡正信インドへ行く」には間に合いませんでした。

第2部は「アボン 小さい家」フィリピンの山岳民族のお話です。

この二つの映画の監督である今泉さんが、会場となった教会の玄関で出迎えてくれ、空席を案内してくれました。


前日から準備に訪れ、窓に新聞紙や布を貼り付けて即席の映画館を作ったそうです。
映画の前後にはわかりやすく映画の背景や、製作時の思いを語ってくれました。


「フィリピン・ルソン島には、100年前から日本人がやってきていたことは、あまり知られていません」
今泉さんは言います。

フィリピンはスペイン、アメリカ、そして二次大戦中は日本の植民地になってきた歴史をもっていますが、
1900年代初め、アメリカがスペインから譲渡という形でフィリピンを植民地にしたさい、
山岳地帯コルディリエラ地方のバギオに慰安施設(リゾート地みたいなもの?)を作るため、
そこへ続く道路建設に着手しました。

アメリカはあちこちから労働力を集めるわけですが、その中には多くの日本人がいたそうです。



「今はフィリピンの人たちが日本に出稼ぎにきますが、当時は日本もとても貧しく、海外へ出稼ぎに出て行ったのです」


工事が終わったあとも、日本人の男性は現地に残り、フィリピンの女性と家庭を築きます。
バギオは日本人町としてにぎわった時代があるそうです。


しかし、第二次大戦で彼らは日本軍に同行を強制され、多くの命が失われます。
戦後は侵略者である日本人の血をひくということで、激しい差別にさらされ、
コルディリエラの山奥の村でひっそりと、日本の名前を隠して生活を営みます。それは戦後30年も続いたそうです。


この映画の主人公は、日系人であること、また「遅れた」山岳民族であることで
二重の差別を受ける家族たちのお話でした。



山岳の村からバギオへやってきた日系3世の家族は、不法居住地区に家を建ててつましく暮らしているのですが、
子ども3人の食費や学費のために、母親は不法海外あっせん業者の手引きで子どもたちをおいて出稼ぎに行きます。

父親は、村にくらす両親に子どもたちを預けます。
3人の子ども達は、母親の帰りを祈りながら祖父母たちとともに、
牛を育て、山で食べるものをとり、川で体を洗い、のびのびとくらします。


そんな中、子どもたちの母親はパスポート偽造が発覚し、逮捕されてしまいます。
法外な渡航費用の工面に追われる父親と、戸惑いながらも強く、温かく支える祖父母たち。



最後は母親が戻って来るのですが、今度はお父さんが日本へ向かう、というお話です。



こういうふうにストーリーを書くと、とても深刻なのですが、
たしかに厳しい現実が描き出されて、考えさせられるのですが、
映画全体には、豊かでゆったりとした空気が満ちていました。









アボン 小さい家 つづき

2009-04-26 | Weblog
子どもたちの祖父母は、イゴロット(山の民)とよばれる山岳民族なのですが、
祖母の父親が日本人という設定でした。


「学校で日本人と呼ばれていじめられた」という子どもたちに
「お前も、わたしも、フィリピン人だよ」
「やられても、仕返ししちゃいけないよ」とやさしく諭しますが
「戦争がおこれば学校なくなるかな?」といわれ、激しく怒る厳しさも持っています。




この民族のなかには、今も伝統的に精霊信仰が根付いているそうで、
そうした場面が丹念に、くりかえし描かれています。


山に入るときも、川に入るときも挨拶をし、
キノコや果実、魚をとるときは「恩を借ります」と唱え、
木を切るときにも「家を建てるためにあなたの命を絶ちます」と祈ります。


祖父は飼っている水牛を前に
「わたしは牛の召使いさ。まいにちこうして草をやってる。サックサックサック。
そうしてお祝いとかの日にはこの牛をわたしたちが食べるのさ。サックサックサック」
と孫たちに話します。


この「生かされている」という気持ちが生活のすみずみにまで届いた暮らしは、
きっとわたしたち日本人にも、ついちょっと昔まで当たり前のようにあったでしょう。
なつかしいような、苦しいような不思議な気持ちになります。



大地や川からの恵みを、家族が食べられるぶんだけ分けてもらって生きる人びとの村にも、
進歩、発展の波がやってくる場面が描かれています。

「夜も明るいし、雇用も生まれますよ!」とドイツ製の発電パネル(20年ローン)の購入をせまる女性のセールスにたいし

「夜も明るくちゃ不眠になる。
それこそ電気代をかせぐために、金のためにキレそうになりながら働かなくちゃならなくなっちゃう。どうする?」

と村の女たちに問いかける村長さん。
うーーん、と腕組みして考える女の人たち。

おかしみのあるシーンに描かれていたけれど、わたしはここが一番がーんときました。



今のわたしは、電気代稼ぐために働いてるよ。


とても考えさせる映画なのに、なにかほのぼのして、もう一度観たい気持ちです。




いまちょうど「ホピの国へ」というアメリカインディアンの本を読んでいたので
重なる部分もおおかったです。


この本は70年代にインディアンの居住区を訪ねた青木やよひさんという方の著書なのですが、繰り返し読んでいます。


ここに、1911年にカリフォルニアで発見された「最後の野生インディアン」
イシのことが書かれているのですが、
「イシ」とは「人間」を指すヤヒ族の部族語で、誰も彼の本名を知ることはなかったといいます。

イシは「発見」されたのち博物館に籍を置いて、
参観者たちに火打石などの実演を見せてくらしましたが
肺結核であっけなく数年でこの世を去ったそうです。



彼のことを書いたクローバー夫人の手記が紹介されています。


「彼は白人の世界の『便利さ』と多様性は高く買っていた。
・・・彼は白人を幸運で、創造性にとみ、とても頭がよいと考えた。
しかし望ましい謙虚さと、自然の真の理解ー自然の神秘的な顔、恐ろしさと慈悲の入り混じった力の把握ー
において幼稚で欠けるところがあると見ていた」



イシが今の日本をみたら、なんていうだろうか。
イゴロットの人は?





帰る前に監督の今泉さんにちょっと質問をしたのですが
この映画をつくるのには7年かかりましたが
フィリピンの人びとの日本のイメージは経済大国であり、学校や病院をつくってくれるお金持ちで、どこに行っても人びとの口から戦争中受けた被害を語る声は聞かれなかったといいます。


それでも、今でもたくさんの戦場跡、虐殺の跡が残っているそう。
人びとは、言わないようにしているだけなんですよ、とのことでした。



今もフィリピンから日本に働きにやってくる人々は多いでしょう。
でも本当にわたしたちが持続できる生き方を見習うべきは、
誰から、どこからなんだろう。







がびちょう

2009-04-08 | Weblog
今朝の神奈川新聞の記事で、南足柄でキレンジャク(渡り鳥)が確認されたというのをみつけて、
鳥好きの友人にメールしたら
「探しに行きましょう」と言うので、
10時に彼女の家に行きました。



あがってちょっとお茶を飲んで
「そういえばこの間ガビチョウが鳴いてるってメールくれたけど
なにその鳥」と聞くと

「声だけ。鳥にくわしい人が教えてくれたの」
と彼女は答えました。
一緒に図鑑を調べたけれど、載っていませんでした。



ふれあいの村まで車を走らせます。
ところがどこ行っても
「通行止め」
「回り道」のカンバンの嵐。



来年行われる「植樹祭」のための
道路の拡張、整備などの工事真っ最中だったんです。


やっとこ、ふれあいの村の近くまで来ましたが
切り株だらけの斜面に土は無残に掘り返され、
トラックやショベルカーが忙しそうに働いていました。


「わたし、こんなとこで鳥さがしたくない。上いこ」
と言って彼女は再び車を丸太の森へむけて走らせました。




ショクジュサイってなんだ?
お手植えってなんだ?
「お」がつくのだから、よっぽどエライ人が来るのにちがいない。


丸太の森も開催地だそうで、整地工事の轟音が響いていました。




黙ってどんどん山道を登っていくわたしたち。
それでも歩いていくうちに少しずつ、葉の揺れる音や、鳥の声が鮮明に聞こえてくるようになりました。

けれど別にすごく鳥にくわしい、というわけでないので
「え、今のなに?」
「オナガ、かな・・・」

「あっ、この声は!」
「シジュウカラ、かな・・・」
となんとも頼りなくて、姿なんてぜんぜん見つけられないのでした。


キレンジャクどころじゃない。


さて、子どもたちも給食なくて帰ってくるし、
今日は帰りましょうと出口に向かいかけたとき、
高らかなよく通る鳴き声が聞こえてきました。


「近いね!」


彼女の双眼鏡をのぞきました。

「ピーナツ色だよ」
「目から目じりまで白い線が入ってるよ」


低木の枝に止まって2,3分鳴いていたでしょうか。
しばらくするとまた飛んでいってしまいました。


すぐ図鑑で調べたけれど、載ってない。
彼女は3冊も持っていて、雌雄載ってるのも見たけど、載ってない。


「今日はこれを調べないとねむれない」
と友人は言います。
あたしだって、負けずにねむれない。

うむむ・・・。


もしかして、ガビチョウとか?


果たして、二人でのぞいたインターネットの写真は、ビンゴ!
君の名は、外来種ガビチョウだったのです。
「日本の野鳥」に載ってないはずだよー。




入生田の地球博物館のHP「侵略とかく乱の果てに」には、


「ガビチョウはツグミぐらいの大きさで、中国南部や台湾、インドシナに分布するチメドリ科の鳥類である。
ガビチョウの中国名、「画眉鳥」は目の周りが白いことに由来し、中国では古くから鳴き声を楽しむために飼育されてきた。日本へは、江戸時代にはすでに輸入されていたようだ。

 数年前まで、日本へ鳴き声を楽しむために輸入され、主に大都市のペットショップで販売されていたが、いつの間にか店先から姿を消し、代わりに野外で観察されるようになった。
現在、関東や福島、長野、九州北部で生息が確認されている。

 飼い主の元から逃げ出したり、あるいは意図的に放鳥されたりした結果、野外で繁殖し分布を広げているのだろう。
県内では、一九九五年に藤野町で初めて確認されてから急速に分布を広げ、現在は丹沢や箱根を中心に生息し,下草のよく茂った森林を好む。」



とありました。
在来種と餌が重なっている可能性も高く、影響は軽視できないそう。

ガビチョウ、君は悪くないのです。
悪いのはニンゲンです。





今度こそ、キレンジャクをみつけようと約束して、
タイカレーをご馳走になって別れました。
早く工事終わってくれないかなー。