平塚の博物館には、たまに行きます。
火薬廠があったので空襲を受けた、との展示をみたことがあり、
小田原も空襲あったけど、もっと大規模だったんだなーと知識はありました。
季刊「中帰連」の編集にかかわっている友人が、平塚で毒ガスのこと取材するよ、と
誘ってくれたので、行って来ました。
知らなかったけど昔、平塚は軍都だったのです・・・。
わたしがのんきに子どもたちと遊んでた博物館、美術館
あの一帯、駅からみて海と反対側の地域は、
とてつもなく広大な、海軍の火薬廠だったのでした。
ガイドしてくださったのは北宏一郎さん。
毒ガス研究の第一人者という方でした。
「毒ガス問題を考える会」
「平塚毒ガス問題研究会」という団体で活動されています。
なにが問題かというと、いまだ旧日本軍の毒ガス原材料が放置、あるいは発掘され、
それが健康被害をおよぼしたり、安全を脅かしたりしているにもかかわらず、
市民になんの説明もないまま処理されたり、または「無害化処理」という名で埋め立てられ
なにもなかったかのようにされていることです。
青酸の入ったガラス瓶や、ガスをつめた砲弾が、近年もあちこちから掘り起こされているそうです。
寒川にあったという「相模海軍工廠」も比較的知られていますが
元は駅周辺の、この地帯が大本で、のちに寒川に本部を移したそうです。
今日は美術館周辺「相模海軍工廠化学実験部」の痕跡を追いました。
わたしが2度行った事のある登戸研究所は陸軍のもの。
こっちは海軍。
当時はふたつが連携して化学兵器の研究をしていたということでした。
北さんの下さった昭和20年当時の建物配置図をみながらたどって行きます。
「製造実験場」
「マスク」
「特薬倉庫」
「研究所」
「洗体所」
「除毒所」など、こまかな名称をつけられてたくさんの建物が点在しているのがわかります。
今これらはほとんどが解体され、跡地にはマンション、工場、駐車場などができています。
「特薬」とは、毒ガスのこと。
ここではとくにイペリットの製造に力を注いでいました。
イペリット、これはマスタードガスとも呼ばれ、皮膚や粘膜をただれさせる性質を持ち,吸入すると気管支や肺に大きな影響を与えます。砲弾に詰め爆破させ液体や蒸気を拡散させて使用するそうです。
当時これを製造、砲弾につめる作業をさせられたのは14~5歳の学徒たちや、徴用された朝鮮の人たち。
「3ヶ月も体がもたない」といわれたそうです。
手足はただれ、顔は独特のどす黒い色になり、
「イペリット焼け」と言われ、忌み嫌われたそうです。
上層部は体調が悪くなっても海軍病院で手当をうけることができましたが
末端で働いていた人々は形ばかりの医務室に運ばれ
2本のバットのようなもの、「精神棒」「注入棒」で殴られておしまい。
その後は、当時を知る人が「死人坂(しびとざか)」と呼ぶ道路に打ち棄てられるのがお決まりだったそうです。
戦争がおわって、大量の毒の原料や、砲弾は、廃棄されました。
どこに?海に、川に、土の下に・・・・。ひどいものはドラム缶にいれたまま放置。
北さんは
「兵隊に行った人たちは口をつぐんでいるが、ガスマスクを配られた部隊にいた人たちは
皆、実毒試験と称してガスの充満する廊下を歩かされて、ガスに慣れろと訓練されてきたはず」
と語ります。
北さんは昔の資料を、全国あちこちの図書館、資料館、各省庁のものなどかたっぱしから調べまくって
コピー不可のところでは模写をして、当時の毒ガス製造に関わった部隊、人物を、それこそ網の目のように記録しているのでした。
「昔の日本がやってきたことを知らないと。
いくら9条9条って言ってもだめだよ。
ぼくらの手は血みどろだ。」と言います。
北さんによると日本軍は「ガスは作ったけれど使っていない」というのは
真っ赤な嘘だそうです。
中国はもちろんのこと、さまざまな場所で使ったに違いない、というのが北さんの研究結果。
学徒たちは、自分たちがつくった砲弾が、汽車に乗せられてどこにいくのか
行き先の札をみていました。
ある札は横須賀、ある札は木更津。
木更津からは船や飛行艇でいったんトラック島(真珠湾)の特薬庫に運ばれ
そこからラバウル、インドネシアなどに運ばれ使用されたはず、
南方は温度と湿度が高く、治りにくく揮発しにくいということで被害も大きかったはずだ、
と言いました。
そして、沖縄戦では日本軍、アメリカ軍、両方が毒ガス弾を使ったのでは、という見解でした。
もっともアメリカ軍は使ったとしてもそのあと火炎放射器を使用したので、痕跡や証拠を見つけることは不可能だそうです。
本土決戦を予測して、海軍は国民皆防毒服の準備もしていたそうです。和紙で。
そしてわたしの住む小田原と、静岡県伊東では、敵軍が上陸したさいの毒ガス戦の準備をしていたとか。
昭和19年のことです。
もっといろいろ聞いていたかったのですが、名残惜しいところでおわかれしました。
今度は誰かを案内したいな!
こういうことを書くと
「過去にとらわれてる」なんて心配してくれる人がいますが
わたしはすべて今につながっていると思うから書いています。
今も日本軍の残した毒ガスで、命を落とす隣の国の子どもたちがいます。
また、日本でも健康被害を訴える人たちがいます。
でもこれらはめったなことでは因果関係は認められないし、ずさんな調査だけでおしまいにさせられています。
運が悪かったね、ではすまない問題なのに。
複雑で、巧妙なしくみが作られた、軍にかかわる企業や政治家たちのお金の動き。
わたしの頭じゃ全然追えないけれど、でも知っていたいとおもいます。
それから、当時いきなり日本に連れてこられて、家族に再び会うこともなく亡くなっていった人たちのことも。
「ぼくがくたばったら、若い君たちがやらないと。一人でも多くの人に知って欲しいんだ」
と笑う北さんでした。
街路樹の八重桜が満開で、花びらがぎっしり舗道に落ちていました。
明るい光の中、たくさんの人が通り過ぎていきました。
火薬廠があったので空襲を受けた、との展示をみたことがあり、
小田原も空襲あったけど、もっと大規模だったんだなーと知識はありました。
季刊「中帰連」の編集にかかわっている友人が、平塚で毒ガスのこと取材するよ、と
誘ってくれたので、行って来ました。
知らなかったけど昔、平塚は軍都だったのです・・・。
わたしがのんきに子どもたちと遊んでた博物館、美術館
あの一帯、駅からみて海と反対側の地域は、
とてつもなく広大な、海軍の火薬廠だったのでした。
ガイドしてくださったのは北宏一郎さん。
毒ガス研究の第一人者という方でした。
「毒ガス問題を考える会」
「平塚毒ガス問題研究会」という団体で活動されています。
なにが問題かというと、いまだ旧日本軍の毒ガス原材料が放置、あるいは発掘され、
それが健康被害をおよぼしたり、安全を脅かしたりしているにもかかわらず、
市民になんの説明もないまま処理されたり、または「無害化処理」という名で埋め立てられ
なにもなかったかのようにされていることです。
青酸の入ったガラス瓶や、ガスをつめた砲弾が、近年もあちこちから掘り起こされているそうです。
寒川にあったという「相模海軍工廠」も比較的知られていますが
元は駅周辺の、この地帯が大本で、のちに寒川に本部を移したそうです。
今日は美術館周辺「相模海軍工廠化学実験部」の痕跡を追いました。
わたしが2度行った事のある登戸研究所は陸軍のもの。
こっちは海軍。
当時はふたつが連携して化学兵器の研究をしていたということでした。
北さんの下さった昭和20年当時の建物配置図をみながらたどって行きます。
「製造実験場」
「マスク」
「特薬倉庫」
「研究所」
「洗体所」
「除毒所」など、こまかな名称をつけられてたくさんの建物が点在しているのがわかります。
今これらはほとんどが解体され、跡地にはマンション、工場、駐車場などができています。
「特薬」とは、毒ガスのこと。
ここではとくにイペリットの製造に力を注いでいました。
イペリット、これはマスタードガスとも呼ばれ、皮膚や粘膜をただれさせる性質を持ち,吸入すると気管支や肺に大きな影響を与えます。砲弾に詰め爆破させ液体や蒸気を拡散させて使用するそうです。
当時これを製造、砲弾につめる作業をさせられたのは14~5歳の学徒たちや、徴用された朝鮮の人たち。
「3ヶ月も体がもたない」といわれたそうです。
手足はただれ、顔は独特のどす黒い色になり、
「イペリット焼け」と言われ、忌み嫌われたそうです。
上層部は体調が悪くなっても海軍病院で手当をうけることができましたが
末端で働いていた人々は形ばかりの医務室に運ばれ
2本のバットのようなもの、「精神棒」「注入棒」で殴られておしまい。
その後は、当時を知る人が「死人坂(しびとざか)」と呼ぶ道路に打ち棄てられるのがお決まりだったそうです。
戦争がおわって、大量の毒の原料や、砲弾は、廃棄されました。
どこに?海に、川に、土の下に・・・・。ひどいものはドラム缶にいれたまま放置。
北さんは
「兵隊に行った人たちは口をつぐんでいるが、ガスマスクを配られた部隊にいた人たちは
皆、実毒試験と称してガスの充満する廊下を歩かされて、ガスに慣れろと訓練されてきたはず」
と語ります。
北さんは昔の資料を、全国あちこちの図書館、資料館、各省庁のものなどかたっぱしから調べまくって
コピー不可のところでは模写をして、当時の毒ガス製造に関わった部隊、人物を、それこそ網の目のように記録しているのでした。
「昔の日本がやってきたことを知らないと。
いくら9条9条って言ってもだめだよ。
ぼくらの手は血みどろだ。」と言います。
北さんによると日本軍は「ガスは作ったけれど使っていない」というのは
真っ赤な嘘だそうです。
中国はもちろんのこと、さまざまな場所で使ったに違いない、というのが北さんの研究結果。
学徒たちは、自分たちがつくった砲弾が、汽車に乗せられてどこにいくのか
行き先の札をみていました。
ある札は横須賀、ある札は木更津。
木更津からは船や飛行艇でいったんトラック島(真珠湾)の特薬庫に運ばれ
そこからラバウル、インドネシアなどに運ばれ使用されたはず、
南方は温度と湿度が高く、治りにくく揮発しにくいということで被害も大きかったはずだ、
と言いました。
そして、沖縄戦では日本軍、アメリカ軍、両方が毒ガス弾を使ったのでは、という見解でした。
もっともアメリカ軍は使ったとしてもそのあと火炎放射器を使用したので、痕跡や証拠を見つけることは不可能だそうです。
本土決戦を予測して、海軍は国民皆防毒服の準備もしていたそうです。和紙で。
そしてわたしの住む小田原と、静岡県伊東では、敵軍が上陸したさいの毒ガス戦の準備をしていたとか。
昭和19年のことです。
もっといろいろ聞いていたかったのですが、名残惜しいところでおわかれしました。
今度は誰かを案内したいな!
こういうことを書くと
「過去にとらわれてる」なんて心配してくれる人がいますが
わたしはすべて今につながっていると思うから書いています。
今も日本軍の残した毒ガスで、命を落とす隣の国の子どもたちがいます。
また、日本でも健康被害を訴える人たちがいます。
でもこれらはめったなことでは因果関係は認められないし、ずさんな調査だけでおしまいにさせられています。
運が悪かったね、ではすまない問題なのに。
複雑で、巧妙なしくみが作られた、軍にかかわる企業や政治家たちのお金の動き。
わたしの頭じゃ全然追えないけれど、でも知っていたいとおもいます。
それから、当時いきなり日本に連れてこられて、家族に再び会うこともなく亡くなっていった人たちのことも。
「ぼくがくたばったら、若い君たちがやらないと。一人でも多くの人に知って欲しいんだ」
と笑う北さんでした。
街路樹の八重桜が満開で、花びらがぎっしり舗道に落ちていました。
明るい光の中、たくさんの人が通り過ぎていきました。