大阪で、ドキュメンタリー映画『在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい オレの心は負けてない』みてきました。
ざっくりあらすじ。
宋神道(ソン・シンド)さんは占領下の朝鮮忠清南道に1922年生まれた。
16才のとき母の決めた婚約相手と婚礼の式を挙げた夜に、相手が嫌で家から逃げ出す。
朝鮮人の初老の女性に「戦地でお国のために働けば結婚しなくても生きていける」と誘われ、平壌から天津へ、揚子江を下り中国の武昌へ渡る。
武昌は日本軍による占領の直後で、宋さんの初めての仕事は、殺された中国人の死体を片付け、建物についた血のりを洗い落とすことだった。
その死体は「慰安所」の裏手にあり、宋さんはそこで「慰安婦」として働かされることになる。
始めは何度も嫌がって抵抗したが、食事も与えられずなぐる蹴るの暴行を受け、また、ここに来るまでの汽車賃や食事代、服代が借金になっていると脅されとうとう宋さんは観念する。
以来7年間、慰安所「世界館」を筆頭にさまざまな戦地へと連れられ、「慰安婦」として性的暴行を受け続けたという。
慰安所周辺を部隊が通過すれば、1日に何十人もの相手をすることになり、日曜日には軍靴をならして兵士たちが行列を作ったという。
前線が移動するとともに宋さんは部隊付きの「慰安婦」として、軍人の運転する軍のトラックで移動を共にさせられた。
性病検査や食料配給も軍が担当していた。
宋さんはこの7年のあいだに数回妊娠し、死産したり(おなかの中で7ヶ月で死んだ子は自分で引き出して処置した)、出産した子を育てられず中国人に預けたりしているが、いつ、どこで産んだのか、くわしい記憶がなくなっている。
借金を返さなければ朝鮮には帰せないと脅されていたので、宋さんは日々兵士の相手をさせられながら、人数を数え、返済日を計算していた。
しかし返済は終わったはずと訴えたとき「お国のためだ」「稼ぎは国防献金になっている」と突っぱねられたという。
銃弾が飛んでくる中、日本軍兵士とともに移動し、粗末な小屋に閉じ込められてひたすら性行為を強要されていた。
宋さんが連れられた長安、応山などはいずれも第11軍作戦区域内の重要拠点であった。
1945年、慰安所で日本の敗戦を知るがいくあてもなく、「日本に一緒に行って結婚しよう」と軍人に再びだまされ博多まで船でやってくるが、日本に着くなり「進駐軍のパン助にでもなれ」と宋さんは放り出された。
絶望した宋さんは線路に身を投げるが一命をとりとめる。
救ってくれた人によって、宮城県で当時闇米の商売をしていた朝鮮人男性にひきあわされる。
彼が亡くなる1982年まで宋さんは生活を共にする。宋さんはこの男性を人間的に尊敬し、とても慕っていたという。
引揚者給付金や国民年金には国籍条項がつけられていたため、宋さんらは何の補償もうけることができず、二人の生活はどんどん苦しくなっていった。
1972年に生活保護を申請、受給するまで宋さんは、魚の加工工場や道路工事、水商売などで働き、その日の糧をやっとのことで得て暮らしていた。
日本において「従軍慰安婦問題」が明るみに出たのは1990年、政府が国会において「慰安婦」は「民間の業者が軍 とともに連れ歩いた」「調査はできかねる」と答弁したのが契機となる。
その答弁を知って声をあげたのが1991年8月、韓国ではじめて実名で名乗った金学順さんであった。
金学順さんは、責任を認めない日本政府の発言を聞いて怒りを感じ「慰安婦にされた私がここにいる」と訴えでた。(1997年死去)
92年には軍の関与を示す資料が出される。
同年日本国内の市民団体が合同で「慰安婦110番」をたちあげ、電話での聞き取り調査の協力をよびかける。
そこに匿名で「宮城に慰安婦にさせられた朝鮮人女性がいる」と電話をしてきた人物がおり、市民団体の女性が訪ねていった先に宋さんがいたという。
93年、「在日の慰安婦裁判を支える会」が結成され、宋さんは会と共に、日本に在住する「元慰安婦」として初めて国に対し、
・事実関係を認めること
・違法行為だったことを認めること
・日本国家は謝罪と補償をすることを求める裁判を4月に起こした。
当初は宋さんの意向をうけ、謝罪だけを求めるという異例の提訴だったが、実際に裁判が始まると、金銭的な要求なしの謝罪のみの請求では裁判はできないとの裁判官から再三の申し入れがなされ、賠償金も謝罪に追加して請求したという。
裁判は1999年10月東京地裁、2000年11月東京高裁でそれぞれ棄却された。さらに2003年3月、最高裁で敗訴が確定した。
中国で7年間「慰安婦」を強要されたことと、戦後50年近く放置されてきたことを訴えた裁判だった。
棄却理由は「国際法は個人には適用されない」「国家無答責」というような前時代的なもの、また「国家責任は認めるが被害を受けてから20年の間に請求しなかったため時効」というようなものだった。
「軍人は恩給だ、年金だっていばりくさって、なして今になって差別つけるのや。戦争の時にはお国のため、お国のためってよその国のオナゴ引っ張って行っておいて、これ、悔しいから裁判かけたのや」
ざっくり映画のあらすじおわり。映画の冒頭とエンディングは宋さんが覚えた軍歌が流れた。
集会では必ず宋さんは歌うのだそうだ。
「銃はきらめく 身は凍る 膺懲北支の 日の御旗 東洋守りの 日の御旗」
宋さんと10年以上の厳しい闘いを共に歩んだ支援団体の女性が何人かでてくる。
宋さんの聞き取りを行うなかで、彼女が一番話をはぐらかしたり、口をにごしたりしたのは、「初めて軍人を相手にさせられた話」と「慰安所で妊娠させられ子どもを産んだ話」だったという。
常になぐられ、借金があると脅され、殺されたくないので従うしかないと7年間を過ごした宋さんの腕には「源氏名」の「金子」の文字が彫られ、体には刃物で斬られた痕が無数にある。
片方の耳がひどい難聴なのは、軍人に暴行を受けても処置を受けられず放置した結果だった。
「私は嘘を話していない」と50年の堰を切ったように支援の女性たちにこれまでのことを訴えた宋さんだったが、支援者が受けた宋さんの初めの印象は「針の穴ほども入れない鉄の鎧をつけた人」だったという。
それほどまでに人間不信、日本人への不信はすさまじく、激しかった。
宋さんが生き抜くために身につけてきた、自分を護るための所作や言動に支援者たちはその都度試され、苦悩し、信頼をむすびなおしてきたのだと思った。
「オレ」とか「おめえよー」と言う言葉遣い、大きな声で早口にまくしたてて周りを笑わせる軽妙さを持つ宋さんに対し、当時取材した新聞記者は「被害者らしくない」などと失礼なことを言っていた。けれど証言の前日はまんじりともしなかったという。
強い不安と人間不信を、鎧で固めていたのでしょう。
証言集会の中に、戦争体験者の男性がいると宋さんは「自分の話を信じてもらえる」と少し緊張がほぐれるようだと支援者が語っていた。
元軍医の湯浅謙さん(中国帰還者連絡会)と会話している場面が映されていた。
反対に、宋さんは女子高校生たちを対象に話をする場面では、ガチガチに緊張して声がでないのだった。
男性との経験もない時に「慰安婦」にされた自分の姿と少女たちが重なるのだと。
わたしはこの場面が一番辛かった。宋さんは本当に、おどおどとして、困った顔をして立ち尽くしていた。
急に鎧がなくなってしまって戸惑っているような、女の子のような表情をしていた。
ここは日本だ、チマチョゴリなんかみっともねえもん着れねえ」と贈られたチョゴリを拒否する宋さんだったが、支援者の勧めで一緒に韓国の「ナヌムの家」を訪ねた。そこで宋さんはハルモニたちに出会い、ハルモニに借りたチョゴリを着て、笑顔いっぱいで踊るのだった。
もし機会があったら、ぜひみてくださいね。
私たちにとって日本軍「慰安婦」問題とは、今世間で言われているような強制連行の有無のことではありません。
「慰安婦」とされて被害を受けた女性たちの苦しみの人生そのものです。
そして「慰安婦」問題は朝日の報道から始まったわけでもありません。
それは金学順さんや、この映画の主人公・宋神道さんが勇気を振り絞って名乗り出て、怒りをもって日本政府を告発し裁判を闘い抜いたからこそ、今ここに、「慰安婦」問題はあるのです。
日本軍「慰安婦」問題関西ネットワーク
宋さんの「怒り」「疑い」「試し」、「国家による重大人権侵害の被害者が抱える闇の深さ」梁澄子さん
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