日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

宇治田原の竹

2015-03-23 09:02:14 | 日記
あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように。そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネの福音書13章34節)



高原の方から梅はないものか?と探しながら車を少しづつ進め、それがまだ1分咲きでは様にならないものです。紅梅も2本はあるはずが、横の辺に少し見えるだけ。何故か今回、竹が目に入りました。竹といえば、西山や嵯峨はよく手入れされ、観光の重点的なものですが、ここ田原の山は手入れは殆どないでしょう。宇治田原はやはりお茶産業なんです。柿は多いですが、近年お正月のお飾りもめったにやらなくなり、需要は少し。棚田を主とした田んぼは多いです。梅は食用。畑も少々栽培して、農協で販売されていて、新鮮で美味しいから時に買って帰ります。



ぎっしり立詰まった竹林が多い中、この竹はまばらで気に要りました。周囲がまだ鮮やかさが無いと、こんな竹が色美しく見えるものですね。



後ろにサンシュがあったので、合わせてパチリ。



庭の竹の様に親近感がわきます。いえいえ庭に竹は絶対に植えないです。だって凄く増えて床下が竹で一杯になりますから。



平地へ降りたら、田んぼの向こうの竹藪が何故か美しい。光線の具合でしょうか。しばし見とれてパチリ。


傍に白梅がありました。

(愛。。。難しいですね。愛に溢れた人になりたいですが、なかなか。好きな人を愛するのは誰でも出来ますが、好きでも無い人を愛する、その難しさ。でもその自己犠牲による愛が必要と聖書は説きます。自分の心に問いながら、愛せるか?いつもイエス様から問われています。)




宇治田原へ行けました。

2015-03-22 08:23:18 | 日記
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、誰もやみに中にとどまることのない為です。(ヨハネの福音書12章46節)



20日にやっと宇治田原へ行けました。近くで行くのが何でもないものですが、私は眼に故障があるのと、今まで夫と共にが多かったのです。運転が苦手かも。。。随分前ですが、野草を撮りに初めて行ったのは私が一人でした。数回行って、霧があり、風景が素晴らしく美しく見えて再発見したのでした。そういえば、ネットで風景写真の旨い人は霧を入れてられる。そうだ!宇治田原の風景を撮れば良い!夫に知らせました。その後、宇治田原通いが始まったのです。



しかし写欲を無くした夫を待ってられない。私一人で行けるか。。。行けました。感謝です。一応霧があり、光が射し、そんな光景をイメージでしたが、寝坊はする、霧は残念ながらない。でも行けただけで満足です。寒い所です。白梅もまだ花の咲きはじめでした。サンシュは綺麗で早春の風情はこれだけでしょう。この坂は崖で怖いので気をつけながら。。。





山の頂上付近にも大きなサンシュがあります。



向こうに大阪が見えます。京都も見えるし面白い所です。



梅が1^2分咲きなので高原はこの位で、平地へ降りましょう。

(上の御言葉はキリスト=世の光   くらいところに光を当てて下さる方、という意味です。)






静かな佇まい

2015-03-20 13:35:34 | 日記
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかしもし死ねば、豊かな実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎む者はそれを保って永遠の命に至るのです。(ヨハネの福音書12章24,25節)



先日、醍醐の勧修寺へ久し振りに訪れました。相変わらずこの時期は観光客もほんの少しで、静かな佇まいにほっとします。拝観料も400円。駐車代は無料。その点も以前から親しみを感じて、何度訪れたやら。







向こうの灯篭は水戸黄門さんの寄贈とか。古いですね。



この白梅は数百年になるらしいです。15年前には古木の母木が立派に立ってましたが、今回は残念ながら折れて、下に置いてました。枝木が大きくなり支えてますが、もう美しくはないです。この母木に会いたくて来たのですがねぇ。。。



水カメにこの古木が映っています。



この寺の好きな理由はこの古池が好きなのです。池の周りにはこれから桜が咲き、水連、カキツバタ、花菖蒲、藤、蓮と色んな花々が咲き、鳥の数も多いのです。



鴨やアオサギ、シラサギも多く、側の木に巣を作ります。



梅の一種でしょう。紅を添えます。



アオサギが木に止まってます。



例年なら朝に来ますが、この日は眼の検診のついで。だから昼間の写真です。これも仕方ないですね。

上の御言葉は、一粒の麦でも芋でも植えつければ、その親芋は芽が出たら腐って死ぬ。これはキリストの十字架を示してられます。犠牲の愛であり、そのゆえに、信じた人に永遠の命が与えられる、という意味です。




私は羊

2015-03-18 12:59:14 | 日記
わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊の為に命を捨てます。(ヨハネの福音書10章10,11節)



羊は方向音痴で、群れでしか生きていけない。犬に先導してもらって、弱い存在です。聖書で羊は人間に例えています。人は強がっていても何と弱いのか、と思います。戦争で、災害で、事故で、病気で、決してこの世で永遠には生きられないです。順風に向かい、また上位に立てば私は強い!私に叶う者はない、と傲慢な気持ちが起きるのが常ではないでしょうか。でもやがていつかは滅びます。



羊飼いが必要ではないでしょうか。その必要のために牧者として来て下さったのがイエスキリストです。イエス様を頼り、従う羊(人間)には良き牧者として、羊の為に、愛する羊の身代わりに、十字架に掛かって、命を捨てて下さいました。それゆえに頼ってる羊は永遠の命が与えられ、天の御国の約束が与えられているのです。



1昨日は夫と骨シンチの結果を聞きに行きました。前立腺の中に、前立腺癌と導管癌が混存してるとか。だから特殊性で、導管癌が骨盤に少し転移があるらしいです。導管癌が転移性でたちの悪いものなのです。手術で前立腺を取っても意味がなく、前立腺は男性ホルモンが邪魔をして起こる病ですから、男性ホルモン抑圧の注射を月1度打って、飲み薬になる様です。近い内に骨盤にMRでもう1度検査とか。膀胱等には転移はないのでまだ良かったです。



以前は癌といえば、手術と抗癌剤ですが、今は多くの療法があるものです。夫はもう癒された気持ちでいます。そんな容易いものではないよ、と言いたいですが、気楽なもの。まぁいいか。

4月に小学校の同窓会があるので、幼馴染に行かない?と電話したら、何とその御主人も膀胱癌で同じ病院とか!その方は1年の命と宣言されたらしい。今まで病気知らずだった方なのです。こうなれば、お医者さんと親戚状態だった人の方が長生きでしょうか。いやいや人の命は解りません。神の御手の中です。病気もさっぱり解りません。思うのは医学部は余程の能力であるのが頷けます。まだまだ究明出来ないのが病気でしょうか。

見えないものを見たい

2015-03-16 09:45:49 | 日記
目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるのです。(ヨハネの福音書9章39節)



この世に生きていますが、案外真理が見えないものですね。私も過ってはそうでした。信仰者になりほんの少し解る様になったでしょうか。でもまだまだです。これは能力の良し悪しでないし、権力や財力で解る訳ではないです。かえって見えなくしてるでしょう。弱さを覚え、頼るものを求め、イエス様の愛を求めた者だけが、少しづつ解らせて頂けるのです。狭い門から入るのですよ。



人生の内、喜びも苦難も必ずあります。キリスト者といっても必ず。平穏で何もないと返って、イエス様を遠ざける場合もあるのです。聖書に苦難も益なり、という言葉がありますが、本当にそうだと思いますねぇ。イエス様の近くに寄りますし、祈りますし、これだけ弱い、醜い自分を悟ります。これだけ醜い自分だったのか!と悔いますし、それにより段々、自分の高慢な心が砕かれていきます。そしてそうなっていく自分にして下さってるイエス様に感謝の気持ちが溢れます。



砕かれる自分。そこで真理が更に解って来ますから、本当に感謝です。そうでないと傲慢で箸にも棒にも掛からない、醜い自分が想像出来ます。



人生70年。健やかであっても80年。限られた人生の全てをイエス様にお任せして生きて行きたいものです。90歳まで元気な人は稀。殆どの人が85歳では人のお世話にならないとやって行けない。そうなれば、何が希望でしょうか。永遠の命。天の希望しかありません。それを多くの人に解って頂けたらと。
別に教会から強制された訳でなく、またイエス様から強制された訳では決してないです。一人でに湧く感情です。イエス様が生きて働いて下さってるのでしょう。



聖書では私に来なさい、と語っておられます。