切られお富!

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七月大歌舞伎「夜叉ヶ池」「海神別荘」 昼の部(歌舞伎座)

2006-08-28 00:21:26 | かぶき讃(劇評)
七月の歌舞伎座、玉三郎&猿之助一門プラス海老蔵客演「泉鏡花特集」の舞台は、なかなか盛況でしたよね。去年の蜷川歌舞伎「十二夜」に続いて、興行的には成功だったのでしょう。「では、内容は?」ってあたりで、玉三郎の泉鏡花解釈を検証せざるを得ないわけですが・・・。

①「夜叉ヶ池」

泉鏡花が戯曲を書くようになったのは大正の初めなわけだけど、改めてこの芝居、なんて挑発的で反国家的なんだって思ってしまいましたね。なにしろ、大逆事件が1910年だから、明治43年。それからたいして時間を空かずに、この作品というのはあまりに凄い!

1910年ごろ。(以前書いた記事)

村はずれに住む世捨て人的な男女。日照りに苦しむ明治的で俗っぽい里人たちは、雨乞いの人身御供にするために女を捕らえようとします。しかし、そんな人間たちの愚かさを見つめていた夜叉ヶ池の主で龍神の白雪姫は・・・。

なんてところが、端折ったストーリーですが、人間性の回復を担うのが美貌の化け物だってあたりにこの芝居の大いなる皮肉があり、鏡花の時代に対するペシミズムすら感じてしまうところです。

さて、芝居の方ですが、娘・百合と白雪姫の二役を市川春猿。大抜擢といっていい配役だし、がんばってはいましたが、やっぱりまだまだ役不足かなとは正直・・・。

百合は古風で地味な女だし、原作の中では割と強調されているように(百姓与十の台詞参照。)、この世よりあの世に繋がったイメージの女。段治郎演じる萩原晃の台詞「咲残った菖蒲(あやめ)を透いて、水に影が映したようでなお綺麗だ」が、百合の姿を表現しているわけだけど、春猿の芝居は、儚い感じというよりは慎重で地味な台詞回しにわたしには思えた。

一方、白雪姫は自分の恋のためなら、村が水没してもいいと思う女。冷たい貫禄が必要だと思うのだけど、さすがにそういう舞台上での”大きさ”をいまの春猿に求めるのは無理があったと思う。舞台美術が隙間が多く、ただでさえ広い歌舞伎座の舞台が手持不沙汰に見えているところに加え、多くの眷属を従えてる威容はまだまだか・・・。でも、今後に期待しますよ。ただ、化粧の問題かもしれないけれど、何年か前より容色衰えたんじゃないって気もしたな~。猿之助が元気な頃は、もっとモダンな感じの女形って感じでしたからね。

立ち役では、百合の恋人役・萩原晃の段治郎と萩原の旧友・山沢を右近。この二人に限らないのだけど、この芝居の男たちの台詞回しって、森田芳光監督の映画「それから」で小林薫の角ばった感じの台詞を相当意識していると思う。このあたりの演出は、玉三郎の指導によるところが大きいのではと推測するけど、ちょっとやりすぎなところもあって、若干違和感が残った。新派や歌舞伎のように歌うような感じではなく、硬い感じの台詞回し。明治のひとってほんとにこんな風なのかっていうのは、前から興味あるところなんだけど・・・。

映画「それから」についての記事。

つまり、何が言いたいかというと、原作の詩的な部分がこういう調子だと活かしきれないんじゃないかって思えてしょうがないんですよね。例えば、冒頭の「水は美しい。何時見ても・・・・・・美しいな。」なんてあたりは、どっちかって言うと、ポエトリー・リーディングかシェイクスピアに近いんじゃないかと。まあ、難しいところなんでしょうが・・・。

芝居の中盤の化け物が出てくるあたりは、荒事風味で演じられていたけれど、どうもリズム感がよくなかったし、役者はがんばってやっていても観ている方にはどうも退屈で、演出に問題ありってところかな。

そのあと、姫の登場と百合の姿を見た姫の心変わり(村を水没させるのを思いとどまるくだり)は、空間処理が歌舞伎以外の芝居にはよくあるスタイルで、歌舞伎で見るとわりと新鮮。(注:同じ舞台に、姫のいる場所と百合が人形を抱いてる空間が同居している状態のこと。)

さて、長くなったのでもろもろ端折って、最後のカタストロフについて言わせて貰うと、玉三郎の空間処理法は、美術で埋めるより、舞踊によって人物で隙間を埋めていくようなところがあり、演技というより肉体の動き重視なんだろうとは正直思った。つまり、舞台の見た目も隙間が多かったけど、芝居の熱気や盛り上がりには、最後はもうひとつ欠けていたように感じた。というのも、村人VS百合、萩原、山沢の対決から百合と萩原の死の芝居がもうひとつ盛り上がらず、浮いたように思えたから。

ただ、段治郎演じる萩原が百合を連れて逃げようとするときの台詞、

「お百合行こう。支度が要るか、跣足(はだし)で来い。茨の道は負ぶって通る」

には、結構痺れたんだけどね~。


②「海神別荘」

「夜叉ヶ池」の感想が長くなったので、こちらはあっさり気味に!

海中に住む公子(王子様?)のところに、人間の美女が輿入れするという話で、最後に美女が人間界への未練をきっぱり捨てるという筋立てなんだけど、嫌がってめそめそした美女を殺そうとした公子の、きっぱりとして冷たいカッコよさに痺れた美女の台詞、

「ああ、貴方。私を斬る。私を殺す。その、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清しさ、肩の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。最う、故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい」

というところがクライマックスで、何しろ玉三郎演じる美女が海老蔵の公子に向かって言うのですから盛り上がるはずだったんだけど・・・。

要するに、クライマックスまでがもたもたしているのと、殺そうとするところが畳み掛ける感じにならなかったでせいで、いまひとつね~。それに、玉三郎もここをもたっとした感じで言っていて、きっぱりとした感じではなかったのが印象を薄めたんじゃないかと思うんですよね。

この芝居全体に関していうと、どうも美術が美輪明宏みたいな派手派手しさで、半端にヨーロッパ調。わたしは、この芝居ってもっと日本風でいいと思うし、玉三郎の衣装も、天女みたいなもののほうが洋風のものよりしっくりきた。

かつて、ゴダールが「アルファヴィル」という映画で、現代のパリの街を無理やり近未来都市アルファヴィルという設定で映し出したように、純然たる時代劇調で、海中だって言いくるめるのも演出としてはありだとわたしは思う。

確かに海老蔵の衣装は、カッコよくはあったけど、ちょっと気持ち悪くもあったし、開高健の「裸の王様」って小説じゃないけど、「王様」といえば洋風じゃなくてもちょんまげだっていいじゃない!感じもするんですよね~。「天守物語」の図書之助や富樫の衣装だって、彼岸の人に見えるかもしれないんだし・・・。って思ったのはわたしだけなんでしょうか~。

最後のこの芝居の名台詞、

「此処は極楽でございますか」
「ははは、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男はおらんぞ。男の行く極楽に女はいない」

ここは、冷たい諦念の台詞で、多分にシェイクスピア的なんだけど、海老蔵はここをなんとも朗々と語ってしまっていて、おそらくわたしとは解釈違うんだろうなあとは感じましたね。あれでは、極楽を信じてる感じだもの・・・。

さて、泉鏡花って原作はそれなりに難しいし、芝居を観ても判らなかった人も多いことでしょう。そんな方には以下のマンガをオススメしときます。ご参考にどうぞ!

鏡花夢幻―泉鏡花/原作より

白泉社

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夜叉ヶ池・天守物語

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海神別荘―他二篇

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アルファヴィル

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