さらっと書きます、簡単に!
今回のこの通し狂言って、團十郎の休演で配役が変わったらしいのだけど、皮肉でもなんでもなく、とっても興味深いものになった。ただし、この「興味深い」という意味は、ふだん歌舞伎を観てるかどうかで感じ方が全然違うというタイプの「興味深い」ではあるんだけど・・・。
極めて大雑把に言えば、「絵本太功記」というのは明智光秀の話。劇中では明智光秀は武智光秀、織田信長は尾田春長といった具合になるわけだけど、芝居の中心にいるのはやっぱり武智光秀・十次郎の親子。実際、近年のこの芝居の上演記録(十段目「尼崎閑居」)をみても、この親子役を團十郎・新之助(当時)や幸四郎・染五郎という本当の親子で配役している。
ただ、実際の親子で劇中の親子を演じるというスタイルは近年のもののようで、古くは初代吉右衛門に弟の先代勘三郎という血縁を除けば、白鸚や松緑の光秀に、梅幸の十次郎を代表例に、貴公子タイプの役者をちゃんと十次郎に当てるというのが定石だったようだ。
さて、今回の通し狂言、ふだん歌舞伎をみなれている観客が違和感を持ったのは、なんといっても片岡孝太郎の森蘭丸、中村魁春の十次郎だろう。ご存じない方のために一応説明しておくと、このふたりは普段、真女形。もちろん、このふたりの立役ははじめて見たわけでもないのだけど、こんな立役の熱演をさせるとはねぇ~というのが、わたしの驚き。
今回の通し上演・前半の中心的敵役・孝太郎の森蘭丸は鉄扇で光秀の眉間を割ったり、「本能寺の変」の柱に掴まっての大立ち回りなど、「鈴が森」の白井権八は観たことがあったけど、普段のお姫様役からは考えられない大熱演で、そういう意味では「がんばってるなあ~」とわたしは思った。一方、十次郎役の魁春も「先代萩」の頼兼くらいしか観た記憶のない立ち役の割にはなかなか大変な役(鎧をつけたりするしね!)で、これまた「がんばってるなあ~」って感想。(因みに魁春ってやっぱり梅玉さんに似てますね、立ち役だと。)
つまり何が言いたいかといえば、歌舞伎ファンにとっては「普段観れない配役の芝居」という興味深さはあったんだけど、あまり歌舞伎役者に詳しくない人はどうみたか?これがはじめてみた歌舞伎なんていうひとはちょっと気の毒かなって印象ではありましたね。
そして、肝心の大抜擢、橋之助の光秀について。その前に、橋之助という役者についてわたしがどう思っているのかということをいっておくと、「声・顔・姿」を考えれば仁左衛門、海老蔵と引けをとらない感じなのに、どうもいまいちつまらない役者っていうのがわたしの評価。あっさり言ってしまえば、どんな役をやっても、仁左衛門、海老蔵のような強烈なキャラクターというものを感じないし、もっといっちゃえば色気がない。要するに「真面目な人」ってことなんだろうけど、変な喩えでいうなら、原辰徳みたいな男だなって印象なんですよね。(成駒屋贔屓の方々、失礼。)
それが、今回は序幕から大健闘。賛否両論だったらしい序幕の幕外・花道七三、眉間を割られて春長への復讐を考える含み笑いなんかは、なかなかいつもと違う腹のある芝居だなってわたしは思った。ただし、あとになるにしたがって薄味になってしまうんだけど・・・。
二幕目妙心寺での辞世の詩を屏風に筆で書くくだりは、以下にも左利きのひとが練習したって感じでなんとなく力の入り方が違うし、芝居自体もサラサラっと終わった印象。(でも、そういう場面じゃないんだけどなあ。)そして、大詰め「尼崎閑居」は共演の女形三人(母・皐月の吉之丞、妻・操の東蔵、嫁・初菊の孝太郎)が割りに地味だったのに加えて、先述のように十次郎の魁春が本役でなかったことが災いして、橋之助の光秀が妙に軽く感じてしまった。でも、これは橋之助のせいというよりは、顔見世歌舞伎みたいな配役の揃ったときでないと「尼崎閑居」という芝居はもたないということなのかもしれない。
というわけで、かなり舌足らずなんですが、橋之助もしばらく勘三郎と離れて吉右衛門との共演を増やしてから「尼崎閑居」の光秀に挑戦してほしいとは思った。(同じことは染五郎にもいえる!)腹のある芝居って感じはわたしには序幕まで。そのあとの幕は奮闘していたけど、可能性を感じたのみっていうのが正直な感想ですね。
なお、この芝居に限らず江戸時代に書かれた脚本の織田信長と豊臣秀吉ってなんで魅力ないんですかね?今回の芝居の春長役・我當には「時平の七笑い」のときのような迫力は感じなかったし、芝翫の久吉も全然面白くなかった。(もっともこのひとの秀吉役って面白いと思ったことがないんですよね、わたしは。)でも、先代勘三郎の久吉ってよかったんだけどなぁ・・・。
と、簡単に終わらせるつもりが長くなっちゃったんでこの辺で・・・。
PS:橋之助は左利きです、念のため。
今回のこの通し狂言って、團十郎の休演で配役が変わったらしいのだけど、皮肉でもなんでもなく、とっても興味深いものになった。ただし、この「興味深い」という意味は、ふだん歌舞伎を観てるかどうかで感じ方が全然違うというタイプの「興味深い」ではあるんだけど・・・。
極めて大雑把に言えば、「絵本太功記」というのは明智光秀の話。劇中では明智光秀は武智光秀、織田信長は尾田春長といった具合になるわけだけど、芝居の中心にいるのはやっぱり武智光秀・十次郎の親子。実際、近年のこの芝居の上演記録(十段目「尼崎閑居」)をみても、この親子役を團十郎・新之助(当時)や幸四郎・染五郎という本当の親子で配役している。
ただ、実際の親子で劇中の親子を演じるというスタイルは近年のもののようで、古くは初代吉右衛門に弟の先代勘三郎という血縁を除けば、白鸚や松緑の光秀に、梅幸の十次郎を代表例に、貴公子タイプの役者をちゃんと十次郎に当てるというのが定石だったようだ。
さて、今回の通し狂言、ふだん歌舞伎をみなれている観客が違和感を持ったのは、なんといっても片岡孝太郎の森蘭丸、中村魁春の十次郎だろう。ご存じない方のために一応説明しておくと、このふたりは普段、真女形。もちろん、このふたりの立役ははじめて見たわけでもないのだけど、こんな立役の熱演をさせるとはねぇ~というのが、わたしの驚き。
今回の通し上演・前半の中心的敵役・孝太郎の森蘭丸は鉄扇で光秀の眉間を割ったり、「本能寺の変」の柱に掴まっての大立ち回りなど、「鈴が森」の白井権八は観たことがあったけど、普段のお姫様役からは考えられない大熱演で、そういう意味では「がんばってるなあ~」とわたしは思った。一方、十次郎役の魁春も「先代萩」の頼兼くらいしか観た記憶のない立ち役の割にはなかなか大変な役(鎧をつけたりするしね!)で、これまた「がんばってるなあ~」って感想。(因みに魁春ってやっぱり梅玉さんに似てますね、立ち役だと。)
つまり何が言いたいかといえば、歌舞伎ファンにとっては「普段観れない配役の芝居」という興味深さはあったんだけど、あまり歌舞伎役者に詳しくない人はどうみたか?これがはじめてみた歌舞伎なんていうひとはちょっと気の毒かなって印象ではありましたね。
そして、肝心の大抜擢、橋之助の光秀について。その前に、橋之助という役者についてわたしがどう思っているのかということをいっておくと、「声・顔・姿」を考えれば仁左衛門、海老蔵と引けをとらない感じなのに、どうもいまいちつまらない役者っていうのがわたしの評価。あっさり言ってしまえば、どんな役をやっても、仁左衛門、海老蔵のような強烈なキャラクターというものを感じないし、もっといっちゃえば色気がない。要するに「真面目な人」ってことなんだろうけど、変な喩えでいうなら、原辰徳みたいな男だなって印象なんですよね。(成駒屋贔屓の方々、失礼。)
それが、今回は序幕から大健闘。賛否両論だったらしい序幕の幕外・花道七三、眉間を割られて春長への復讐を考える含み笑いなんかは、なかなかいつもと違う腹のある芝居だなってわたしは思った。ただし、あとになるにしたがって薄味になってしまうんだけど・・・。
二幕目妙心寺での辞世の詩を屏風に筆で書くくだりは、以下にも左利きのひとが練習したって感じでなんとなく力の入り方が違うし、芝居自体もサラサラっと終わった印象。(でも、そういう場面じゃないんだけどなあ。)そして、大詰め「尼崎閑居」は共演の女形三人(母・皐月の吉之丞、妻・操の東蔵、嫁・初菊の孝太郎)が割りに地味だったのに加えて、先述のように十次郎の魁春が本役でなかったことが災いして、橋之助の光秀が妙に軽く感じてしまった。でも、これは橋之助のせいというよりは、顔見世歌舞伎みたいな配役の揃ったときでないと「尼崎閑居」という芝居はもたないということなのかもしれない。
というわけで、かなり舌足らずなんですが、橋之助もしばらく勘三郎と離れて吉右衛門との共演を増やしてから「尼崎閑居」の光秀に挑戦してほしいとは思った。(同じことは染五郎にもいえる!)腹のある芝居って感じはわたしには序幕まで。そのあとの幕は奮闘していたけど、可能性を感じたのみっていうのが正直な感想ですね。
なお、この芝居に限らず江戸時代に書かれた脚本の織田信長と豊臣秀吉ってなんで魅力ないんですかね?今回の芝居の春長役・我當には「時平の七笑い」のときのような迫力は感じなかったし、芝翫の久吉も全然面白くなかった。(もっともこのひとの秀吉役って面白いと思ったことがないんですよね、わたしは。)でも、先代勘三郎の久吉ってよかったんだけどなぁ・・・。
と、簡単に終わらせるつもりが長くなっちゃったんでこの辺で・・・。
PS:橋之助は左利きです、念のため。
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