この芝居は確実に今年のベストアクトのひとつです。
興奮冷めやらぬうちに何か言いたいので書きます。
今月の通し狂言『伊賀越道中双六』は通常「沼津の段」のみが上演され、近年の実演では(といっても調べてみたら平成十三年三月の歌舞伎座なので結構前ですね。ついこないだ観た様な気がしていたんだけど…)、十兵衛=仁左衛門、平作=勘九郎、お米=玉三郎の舞台があったところ。因みにそのときは勘九郎、玉三郎は初役。
個人的には、以前ビデオで観た十兵衛=鴈治郎(先代二代目)、平作=仁左衛門(十三代目)、お米=扇雀(現鴈治郎)の「沼津」が渋い傑作で忘れ難い。
さて、今回の上演。私も通し上演で観るのは初めてで、歌舞伎手帖で沼津以外の段を一応予習してはいたが、地味でかつ複雑な話なのと、タイムスケジュールが<上演1時間40分・休憩30分・上演1時間40分・休憩10分・上演15分>といった調子で、いくら歌舞伎座より椅子の良い国立劇場とはいえ1時間30分以上の芝居をノンストップで二回はきついな、集中力もつかな~という印象だったが、そんなことを考えた私が馬鹿でした。役者の皆さんホントにごめんなさい。
(ただし国立劇場さん、他の芝居ではタイムスケジュール考えてくださいね!トイレも混むので。)
さて、本題。序幕仇討の発端となる行家殺しの幕。和田行家役の坂東竹三郎は、貫禄はそれほどだが品のある落ち着いた家老ぶり。一方悪役の沢井股五郎役の中村信二郎はニヒルで冷酷な悪役振りで、昔の新東宝の中川信夫の映画の無表情・無感情な悪役を思わせる。(勿論褒めてる表現。)是非この人の伊右衛門がみてみたい気がする。ただ、この幕はこの後続くストーリーのための説明的な幕なので深い味わいはないが、過不足は無い
続いて、政右衛門屋敷の場(饅頭娘)が前半の大きな見せ場。竹本清太夫の義太夫に続いて花道から酔っ払って登場する政右衛門役の鴈治郎を見た瞬間、「これは大舞台だ」と直感した。酒に酔った芝居でこれほどの貫禄を感じたのは、忠臣蔵七段目の吉右衛門の由良の助を観たとき以来。(このときの由良の助は、随分酔っ払った由良の助だなと思ったが、貫禄があってカッコいいんだから仕方が無い!)酔っ払いながらも、孤独で内に秘めるもののある腹芸の立派な花道の出の鴈治郎の円熟芸。美貌の女形として出発した鴈治郎という人は先代の渋い芸と違って、永遠に青春している役者(公私共に?)というイメージがあったが、ここはホントに立派な円熟芸の貫禄。政右衛門を受ける家来の石留武助役の市川寿猿。そして薄幸の女房お谷役の中村魁春のしっとりとした雰囲気。果たし状を持って荒々しく花道から登場する五右衛門役の坂東彦三郎の立派さ。羽左衛門亡き後、こういう役で姿も声も立派なのは、なんといってもこの人だろう。五右衛門が政右衛門にお谷を離縁した理由を尋ねる場面。隣の一間で様子を盗み聞く紫頭巾姿の魁春に、大成駒(歌右衛門)の姿が重なった。歌右衛門も盗み聞き姿の似合う役者だったが、こういうひそやかで秘めた情熱を感じる雰囲気の芸風が継承されていることが嬉しくなってくる。(福助にはないだけに。)そして、忘れてはならないのが清太夫の語り。個人的には一番好きな太夫なのだが、そのちょっとオーバーアクション気味の手の振りと情熱的な語り口は吉右衛門や富十郎の舞台で堪能してきたが、今回も胸を衝く名調子だった。
そのあとの、奉書試合の場は、鴈治郎(政右衛門)と翫雀(大内記)の渡り台詞の素晴しい緊張感が見所。親子役者の掛け合いだからといって、堂々としたものに案外ならないことを知っているだけに、堂々たる掛け合いの迫力に感動した。(花道近くの席だったせいもあるが。)
ここまでで、1時間40分。これだけで十分元を取ったと思わせてくれるが、この後に「沼津の段」の大舞台。
今回は十兵衛=鴈治郎、平作=我當、お米=秀太郎の関西歌舞伎の重鎮の揃った舞台。我當という人は、「時平の七笑い」などが典型であるように、ベテランでありながら明晰な台詞回しで若々しい舞台を見せる役者。それ故にこの齢70という老け役(昔の70歳ですよ!)が果たして合うのか不安だった。勘九郎の平作の、案の定老け方がもうひとつの分、滑稽味でなんとか誤魔化していたという悪例が頭に残っていたからだ。しかし父仁左衛門の平作を踏襲したような人情味ある平作で、私の浅はかな不安など吹き飛ばしてくれる名演だった。
清太夫の旅の様子を語る義太夫にのって、十兵衛と平作が出会うくだり。そして、舞台から客席へ降りての道中になるのだが、私にはここが一番泣けてくる場面。この場面はたんなる観客サービスと捉えられてしまいがちだが、じつは芝居として重要な場面で、実の親子である二人がそれとは知らず最初で最後の親子の楽しい道中の時間を過ごす、<永遠のひととき>であって、ここが和やかで楽しければ楽しいほど、最後の悲劇が重く心に圧し掛かって来る。関西歌舞伎の重鎮二人の道中はいたずらな滑稽味などなく、自然かつ人情味あふれるものだった。
続いて登場の秀太郎のお米。「お前の一番好きな女形は?」と聞かれれば迷わず「片岡秀太郎」と答えてしまうほど、私の好きな役者。女優も含めて、これほど艶っぽい声の役者はいないのではないだろうか?以前歌舞伎座で義経千本桜の感想文コンクールがあった際、一等はこの人の権太女房小せんについて書かれた文章だった。お米という役は若い女形がやる役のようなイメージがあったが、今回の秀太郎のお米は、元吉原の花魁という腹の色っぽいお米という印象。平作住まいの場に移ってからの、お米をめぐる鴈治郎(十兵衛)の芝居は、廓文章を思わせる関西風のさらさらとした草書の芝居の楽しさ。
そして、いよいよ千本松原の場。谷太夫の熱い語りも勿論いいのだが、深く編み笠をかぶって一見突き放した感じの鴈治郎の十兵衛と、実は親子と知っていながら敬語で話す我當の平作。よそよそしさが、かえって秘めた親子の情愛を示す芝居。これほど義理について語りながら義理を否定している芝居も無いのではないだろうか。最後の平作(我當)の語りの台詞と表情を見るにつけ、仁左衛門(十三代目)の名舞台の面影、否それ以上の名演なのではという思いに駆られた。このまま舞台が終わってほしくないというような…。
大詰はいっそ無くてもいいような気がしたが、話の辻褄と大方の観客のカタルシスの問題として、存在している幕。ただ、さっきまでの熱演のあとの鴈治郎の元気な立ち廻りを見るにつけ、来年は勘三郎襲名より坂田藤十郎襲名の方が楽しめるかもしれないという気がしてきた。
とにかく、こういう名舞台に空席がちらほらというのは、評論家や学者、国語教師といったあたりは一体何をやっているんだと言いたくなってくる。私に言わせれば噴飯物の瀬戸内寂聴の「源氏物語」を見て歌舞伎を見たと思われても困るし、今の新劇に迎合して野田秀樹の新作歌舞伎を誉めそやす風潮も歌舞伎のよさを見誤ったものだと思う。結局、実演をこの眼で確かめるしかないということか…。
まだチケットは比較的取りやすいようですし、話が判り難い様ならイヤホンガイドを使うのも手でしょう。沼津の道中を楽しむためにも、できたら一階席(国立は歌舞伎座に比べれば安い。)をお勧めします。(別にこの独立行政法人の回し者ではないけれど。)
興奮冷めやらぬうちに何か言いたいので書きます。
今月の通し狂言『伊賀越道中双六』は通常「沼津の段」のみが上演され、近年の実演では(といっても調べてみたら平成十三年三月の歌舞伎座なので結構前ですね。ついこないだ観た様な気がしていたんだけど…)、十兵衛=仁左衛門、平作=勘九郎、お米=玉三郎の舞台があったところ。因みにそのときは勘九郎、玉三郎は初役。
個人的には、以前ビデオで観た十兵衛=鴈治郎(先代二代目)、平作=仁左衛門(十三代目)、お米=扇雀(現鴈治郎)の「沼津」が渋い傑作で忘れ難い。
さて、今回の上演。私も通し上演で観るのは初めてで、歌舞伎手帖で沼津以外の段を一応予習してはいたが、地味でかつ複雑な話なのと、タイムスケジュールが<上演1時間40分・休憩30分・上演1時間40分・休憩10分・上演15分>といった調子で、いくら歌舞伎座より椅子の良い国立劇場とはいえ1時間30分以上の芝居をノンストップで二回はきついな、集中力もつかな~という印象だったが、そんなことを考えた私が馬鹿でした。役者の皆さんホントにごめんなさい。
(ただし国立劇場さん、他の芝居ではタイムスケジュール考えてくださいね!トイレも混むので。)
さて、本題。序幕仇討の発端となる行家殺しの幕。和田行家役の坂東竹三郎は、貫禄はそれほどだが品のある落ち着いた家老ぶり。一方悪役の沢井股五郎役の中村信二郎はニヒルで冷酷な悪役振りで、昔の新東宝の中川信夫の映画の無表情・無感情な悪役を思わせる。(勿論褒めてる表現。)是非この人の伊右衛門がみてみたい気がする。ただ、この幕はこの後続くストーリーのための説明的な幕なので深い味わいはないが、過不足は無い
続いて、政右衛門屋敷の場(饅頭娘)が前半の大きな見せ場。竹本清太夫の義太夫に続いて花道から酔っ払って登場する政右衛門役の鴈治郎を見た瞬間、「これは大舞台だ」と直感した。酒に酔った芝居でこれほどの貫禄を感じたのは、忠臣蔵七段目の吉右衛門の由良の助を観たとき以来。(このときの由良の助は、随分酔っ払った由良の助だなと思ったが、貫禄があってカッコいいんだから仕方が無い!)酔っ払いながらも、孤独で内に秘めるもののある腹芸の立派な花道の出の鴈治郎の円熟芸。美貌の女形として出発した鴈治郎という人は先代の渋い芸と違って、永遠に青春している役者(公私共に?)というイメージがあったが、ここはホントに立派な円熟芸の貫禄。政右衛門を受ける家来の石留武助役の市川寿猿。そして薄幸の女房お谷役の中村魁春のしっとりとした雰囲気。果たし状を持って荒々しく花道から登場する五右衛門役の坂東彦三郎の立派さ。羽左衛門亡き後、こういう役で姿も声も立派なのは、なんといってもこの人だろう。五右衛門が政右衛門にお谷を離縁した理由を尋ねる場面。隣の一間で様子を盗み聞く紫頭巾姿の魁春に、大成駒(歌右衛門)の姿が重なった。歌右衛門も盗み聞き姿の似合う役者だったが、こういうひそやかで秘めた情熱を感じる雰囲気の芸風が継承されていることが嬉しくなってくる。(福助にはないだけに。)そして、忘れてはならないのが清太夫の語り。個人的には一番好きな太夫なのだが、そのちょっとオーバーアクション気味の手の振りと情熱的な語り口は吉右衛門や富十郎の舞台で堪能してきたが、今回も胸を衝く名調子だった。
そのあとの、奉書試合の場は、鴈治郎(政右衛門)と翫雀(大内記)の渡り台詞の素晴しい緊張感が見所。親子役者の掛け合いだからといって、堂々としたものに案外ならないことを知っているだけに、堂々たる掛け合いの迫力に感動した。(花道近くの席だったせいもあるが。)
ここまでで、1時間40分。これだけで十分元を取ったと思わせてくれるが、この後に「沼津の段」の大舞台。
今回は十兵衛=鴈治郎、平作=我當、お米=秀太郎の関西歌舞伎の重鎮の揃った舞台。我當という人は、「時平の七笑い」などが典型であるように、ベテランでありながら明晰な台詞回しで若々しい舞台を見せる役者。それ故にこの齢70という老け役(昔の70歳ですよ!)が果たして合うのか不安だった。勘九郎の平作の、案の定老け方がもうひとつの分、滑稽味でなんとか誤魔化していたという悪例が頭に残っていたからだ。しかし父仁左衛門の平作を踏襲したような人情味ある平作で、私の浅はかな不安など吹き飛ばしてくれる名演だった。
清太夫の旅の様子を語る義太夫にのって、十兵衛と平作が出会うくだり。そして、舞台から客席へ降りての道中になるのだが、私にはここが一番泣けてくる場面。この場面はたんなる観客サービスと捉えられてしまいがちだが、じつは芝居として重要な場面で、実の親子である二人がそれとは知らず最初で最後の親子の楽しい道中の時間を過ごす、<永遠のひととき>であって、ここが和やかで楽しければ楽しいほど、最後の悲劇が重く心に圧し掛かって来る。関西歌舞伎の重鎮二人の道中はいたずらな滑稽味などなく、自然かつ人情味あふれるものだった。
続いて登場の秀太郎のお米。「お前の一番好きな女形は?」と聞かれれば迷わず「片岡秀太郎」と答えてしまうほど、私の好きな役者。女優も含めて、これほど艶っぽい声の役者はいないのではないだろうか?以前歌舞伎座で義経千本桜の感想文コンクールがあった際、一等はこの人の権太女房小せんについて書かれた文章だった。お米という役は若い女形がやる役のようなイメージがあったが、今回の秀太郎のお米は、元吉原の花魁という腹の色っぽいお米という印象。平作住まいの場に移ってからの、お米をめぐる鴈治郎(十兵衛)の芝居は、廓文章を思わせる関西風のさらさらとした草書の芝居の楽しさ。
そして、いよいよ千本松原の場。谷太夫の熱い語りも勿論いいのだが、深く編み笠をかぶって一見突き放した感じの鴈治郎の十兵衛と、実は親子と知っていながら敬語で話す我當の平作。よそよそしさが、かえって秘めた親子の情愛を示す芝居。これほど義理について語りながら義理を否定している芝居も無いのではないだろうか。最後の平作(我當)の語りの台詞と表情を見るにつけ、仁左衛門(十三代目)の名舞台の面影、否それ以上の名演なのではという思いに駆られた。このまま舞台が終わってほしくないというような…。
大詰はいっそ無くてもいいような気がしたが、話の辻褄と大方の観客のカタルシスの問題として、存在している幕。ただ、さっきまでの熱演のあとの鴈治郎の元気な立ち廻りを見るにつけ、来年は勘三郎襲名より坂田藤十郎襲名の方が楽しめるかもしれないという気がしてきた。
とにかく、こういう名舞台に空席がちらほらというのは、評論家や学者、国語教師といったあたりは一体何をやっているんだと言いたくなってくる。私に言わせれば噴飯物の瀬戸内寂聴の「源氏物語」を見て歌舞伎を見たと思われても困るし、今の新劇に迎合して野田秀樹の新作歌舞伎を誉めそやす風潮も歌舞伎のよさを見誤ったものだと思う。結局、実演をこの眼で確かめるしかないということか…。
まだチケットは比較的取りやすいようですし、話が判り難い様ならイヤホンガイドを使うのも手でしょう。沼津の道中を楽しむためにも、できたら一階席(国立は歌舞伎座に比べれば安い。)をお勧めします。(別にこの独立行政法人の回し者ではないけれど。)
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