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十月国立劇場 「通し狂言 開幕驚喜復讐譚(かいまくきょうきあだうちものがたり)」

2011-11-14 02:45:20 | かぶき讃(劇評)
アップする順番が入れ替わってしまったけど、先月の国立劇場の舞台の感想です。国立劇場は開場四十五周年ということで、「歌舞伎を彩る作者たち」と題して、毎月一人の狂言作者を取り上げる特集を組んでいます。十月は曲亭馬琴なんですが、この人の名前を聞いてピンとくる人は今何人くらいいるんだろう?わたしの子供の頃でさえ、図書館の「南総里見八犬伝」なんか読んでいるのは、わたしともうひとりくらいしかいませんでしたよ。ましてや、三島由紀夫が脚色した「椿説弓張月」だとか、そういえば芥川龍之介の「戯作三昧」という小説で風呂に入ってたオッサンじゃなかったっけとか思い出す人って…。というわけで、何ゆえに馬琴がトップバッターかっていう疑問は持ちつつつも、簡単に感想です。

この芝居について、時期がずれても、どうしても感想を残しておこうと思ったのは、刺激的な劇評が二つ出たから。一つはお馴染みの演劇評論家渡辺保さんのもので、もう一つはベストセラー新書『もてない男』の著者の小谷野敦さんのもの。ご興味をお持ちの方は渡辺さんのHP(わたしのブログにリンクが貼ってあります。)と小谷野さんのブログをご覧ください。面白いのは二人の関心部分が見事に対立している点で、わたしの観方は、さて、どちらに近いでしょうか、ね…。

ストーリーを端折っていうと、足利義満が敵役で、新田、楠木の子孫が復讐を狙うというものなんですが、新田の遺児小六という美青年と楠木方の姑摩姫(こまひめ)という魔法使いみたいな女の子が主人公で、昔風の言い方をすれば伝奇物、今でいうならファンタジー小説みたいな中身なんですよね。(このあたりが、「里見八犬伝」の作者の面目躍如って感じですが。)

で、舞台ですが、最初が驚きました。不気味なSE(サウンド・エフェクト)に続いて、ライブみたいな照明(舞台にライトだけが横に並ぶ!)。わたしは基本的に新歌舞伎や新作歌舞伎のSEには批判的。なんか、バタ臭くなっちゃって、なじまないと思うんですよね。しかし、この手の演出が前半続くんですが、菊五郎が新劇風演出に目覚めちゃったのか、通常の通し狂言の「御殿からだんまりで勢揃い」みたいなやり方とは違うことをしようという、意欲だけは伝わってくる感じ。

前半は全般的に「光と闇」みたいな演出スタイルなのですが、暗闇に浮かぶ金閣寺の書き割りと田之助の足利義満がなかなか異様な雰囲気を醸し出していて、ここは悪くなかった。諌めようとする畠山満家の彦三郎もよい。演出が変にモダンだと、かえって古風な役者の方がいいんですね。もっとも、この二人なら通常の御殿の芝居だってよいとは思いますが…。

で、次が驚いたんですが、二人の武士の首が暗闇に浮かび上がり、一人が暗殺されるという演出。前の場面の義満の命令を受けて闇討ちということなんですが、二つの首が浮かび上がっていて、会話があり、殺される側の首に血糊がべたっとくっつく!なんだかアヴァンギャルド歌舞伎と言いたくなる演出でしたが、血糊のところは一部で失笑も起こっていたなあ~。そして、場面変わって、暗殺された男声が響き、息子(親子とも松緑の二役)が居眠りから目が覚めて、「今悪い夢を見た!」って調子…。ま、悪くないんだけど、今日は菊五郎の演出がんばっちゃてるなあ~、コクーン歌舞伎かと思ったってところ。ここまでが発端から序幕最初までのつながり。

このあと、松緑演じる小六と乳母の母屋(萬次郎)と暴君な夫に嫌気がさしている女・長総(ながふさ)が登場。実は今回の舞台で結果的に一番いい役になったのはこの役だったんだけど、その話はのちほど。

で、場面変わって、姑摩姫(こまひめ)が仙女・九六媛(くろひめ)から術を教わる場面なんですが、ここが装飾なしで岩山風の台が乱立する美術で、このあたり野田歌舞伎の影響かなって気がしましたね。もっとも、「地雷也」も最初に似たような場面がありましたけど。

で、ここで登場したのが、あの渡辺保さんをして、「レディ・ガガだか何だか知らないがダサい」と言わしめた菊五郎演じる九六媛(くろひめ)の銀ラメ衣装。菊之助の姑摩姫の衣装もそうだけど、半端にスーパー歌舞伎風でわたしもよくないと思いましたね。むしろ古風なくらいでよいんじゃないですか。そして、二人が舞台の上手下手両方を宙乗りするんですが、これこそただのサーカスにしか思えなかった。わたしが、写メ日記で「ロジャー・ウォータースがいなくなったピンクフロイドのライブみたい」といったのはまさにこの部分で、二人宙乗りすればゴージャスってものでもないでしょう。それに、「地雷也」で菊之助が乗る鳥(?)もコントみたいでダサかったけど、今度の菊五郎が乗る白い狼もなんだか妙な感じでした。

今回に限らず宙乗りに関していつも思うのは、やればいいってものではないということ。「鏡山」の岩藤の傘を使った宙乗りとか、「小栗判官」の白馬の宙乗り、石川五右衛門のつづら折の宙乗り、「伊達の十役」の仁木、「四の切」の狐忠信などは、芝居上の必然性がある上に、宙乗りする役の衣装は改めてえ考えると意外なほど古風で、それ故によいという感じがする。(まさにジャパネスクって感じか。)

それからすると、菊五郎演出で出てくる宙乗りは悪い意味でエンターテイメントのみっていう印象で、この点、猿之助の「古劇復活」的な、志のある宙乗りとはずいぶん違う。

ま、ここまでが前半で、正直ネガティブな印象を持ったのですが、後半は舞台が一変。

後半をどう評価するかで今回の公演の評価は分かれると思うんだけど、後半は菊五郎劇団らしい世話場で、わたしは安心して見れましたね~(ただし一部を除いて)。

夫を捨てて、若侍と駆け落ちし、挙句の果てにたくましい泥棒(!)に乗り換えるという女・長総というキャラがわたしには面白かった!言ってみれば、チェーホフの短篇「可愛い女」を思わせる役で、通常の歌舞伎の悪女である「悪婆(あくば)」とも違うテイストがあったと思う。時蔵は、あっさりあっけらかんと男を変え続ける女として演じていたんだけど、いっそのこともっと突っ込んでわがままに演じてもよかったような気がする。舞台を観ていても、観客の心をつかんでいたのは、本来の主人公である小六と姑摩姫ではなかったですからね。

ここへきて、菊五郎演じる荷二郎は生き生きとした無頼漢ぶりで、まさに音羽屋の面目躍如。特に、長総を口説くところなんか、目つきからして色気があった。ただ、菊之助演じる若侍小夜二郎はは、いくら真面目な男とはいえ、色気がなさ過ぎて、なんで長総が乗り換えたのがわからない。

で、宿屋の場面で閉口したのは、菊五郎劇団お馴染みのオヤジギャグ風の演出でサッカーのなでしこもどきの女中が出てくるくだり。いつものことながら、わたしはくどくて好きになれなかったですね~。宿屋のくだりが黙阿弥物風でよかっただけに、ああいう団体客の老人向け演出はやってもチラっとだけにしてほしいものです。実際問題、あれを喜んでいる歌舞伎ファンは国立劇場には来ませんよ(歌舞伎座だと微妙かもしれないけど…。)。

このあと、商売人になった荷二郎と長総の暮らしから、「実は・・・」のいわゆるモドリまで、わたしは歌舞伎らしい荒唐無稽さで結構好きでした。こういうのが嫌いな人は、近松の「心中天の網島」は原典通りにやるべしというタイプの人たちなんだろうけど、わたしは歌舞伎でも文楽でも複雑なモドリの荒唐無稽さに、日本の庶民の情動を感じるんですよね、そういう意味では、こういうモドリの劇作を近代劇も応用したらいいと思うんだけど、どうなんですしょうか?

で、最後は一部で議論を読んでいる大詰めの金閣寺。ここでやっと姑摩姫が登場するんだけど、なんだかこなしきれてない印象でした。それは役者や芝居の問題ではなくて、台本のひねりの問題。菊五郎が三役目の斯波義将役で登場して、姑摩姫の義満暗殺を制した時、「あなたは九六媛か」という台詞には、わたしもニヤリとしたけど、これをメタフィクション的に捉えた客なんて、あんまりいないような気がする。ここから夢オチにでもしたら、また違う世界が広がるんでしょうけどね~。というか、その方が馬琴風って感じもしなくはないんだけど…。

というわけで、総評として感じたのは、前半のモダン風(?)演出と後半の伝統的世話物演出が、完全に接ぎ木状態になっていたということ。前半の線で行くのなら最後まで統一してコクーン歌舞伎風の演出を貫くべきだし、後半の世話物を生かすなら、衣装も含めて、もうちょっとジャパネスクな雰囲気を大事にした方がいい。

レディ・ガガからなでしこまで取り入れたエンターテイメントって線は、歌舞伎としてどうなのか?部分的に美点があるだけに、どうもわたしには納得がいきませんでした。もうちょっとうまくやれるんじゃないのかって。

伝奇物という線を推し進めるのなら、海老蔵の「石川五右衛門」の脚本を書いたひとでも起用するという線もあるかもしれませんね。でも、演出家としてならG2が圧倒的によいな、歌舞伎に愛を感じるもの。

というわけで、とりとめがないですが、以上が、わたしの感想でした。
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