アイゼンハワー
ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカの軍人、政治家。連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官、陸軍参謀総長、NATO軍最高司令官、第34代大統領を歴任した。アイク(Ike)の愛称で知られる。モットーは「物腰は優雅に、行動は力強く」
ドワイト・D・アイゼンハワー - Wikipedia
1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に任命された[4]。アイゼンハワーは陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の信任を得、1942年3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に任命され、数日後には少将に昇進した[5]。アイゼンハワーはここで対独作戦計画を立案した。アイゼンハワーの計画は、イギリスを基地として、戦略爆撃・海軍艦艇の大量起用・大規模な上陸作戦を行うことで西北ヨーロッパを制圧するというものであった[6]。マーシャルはこの計画を承認し、その際の指揮官としてアイゼンハワーを登用することを決めた[7]。まもなく中将に昇進したアイゼンハワーは、来るべきヨーロッパでの反攻作戦のためにイギリスに向かうことになった。
大統領時代は高い支持率を保ち続けたものの、退任すると若く活動的に見えた後継者ジョン・F・ケネディとの対比から、「何もしない大統領だった」と批判され、その評価は下がった(しかしその後、暗殺されたケネディも同様の批判を受けた)。
1960年代および1970年代のリベラルな風潮の中での公民権運動への支援とマッカーシズムへの抵抗により、近年評価は回復した。歴史家の最近の投票では、アイゼンハワーはすべての大統領の間で11番目と評価された。しかし何人かの歴史家は、「アイゼンハワーの最も大きな業績は大戦中の軍司令官時代のものだった」としている。
職業軍人出身らしく、戦争の残虐さを身をもって体験しており、外交は情報収集を基本に行い、また冷戦真っただ中の任期にあっても、スプートニクショックの際も国防費の増額はせず、軍産複合体制を批判した。
アイゼンハワーの離任(退任)演説 【哲野イサクの地方見聞録】
これらの、あるいは他の権力や影響力、それらには新しいものも古いものもあるでしょうが、それらを、自由社会の究極の目標を絶えず目指しているわれわれの民主主義制度の諸原則の中にはめ込み、それらとバランスを取り、それらと統合させていくのは政治家の仕事です。 | ||
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バランスを維持することにおける別の要素は時間です。 私たちが社会の未来を見つめるとき、私たち‐あなたと私、それに政府‐は、自らの安楽と利便のために、未来の貴重な資源を略奪して今日だけのために生きるという衝動を避けなければなりません。 私たちは、孫たちの世代に属する物質的な資産を抵当に入れることは出来ませんし、それは政治的、精神的な遺産についても、その損失を要求することになってしまいます。 |
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以上、【哲野イサクの地方見聞録】の抄出ご紹介。