平成26年8月9・10日、台風11号が四国・中国地方に接近してくるという中、私たちは、かねてから計画してあった琵琶湖北部方面のウォーキングを敢行した。
結果からいうと、やはり10日は朝からすごい風雨で、新幹線は間引き運転で動いてはいたが、果たしてどうなるか不安だったし、青春18切符できている私たちには、やはりお金がかかるし、普通電車の方は動いていなくて、それに動き始めたとしても、東京の方まで行く電車は難しいということで、泊まった方が安心だと結論し、泊まったビジネスホテルにもう一泊することにした。
でもそのおかげで、また関ヶ原の資料館に行くことができて、前回よく分からなかったところが分かったのでよかった。
また今回は、風雨の関係で、バスで回ったり、駅で資料を見たりすることが多かった。歩かずにバスで見て回る新しい形式を開拓した旅でもあった。
では、行った順番に残しておこう。
まずは、上溝駅5時50分の茅ケ崎行きから出発だ。賤ヶ岳がある木之本駅に着くのは、14時27分。約8時間30分かかるのだ。時間はかかるが、料金は安い。青春切符で行くと、2370円也である。
行きの電車の中から見た富士山は、前に行った足立美術館の横山大観の富士の絵に似ていた。墨絵のように紗がかかっていた。
木之本駅では、私たちも初めて知ったのだが、大河ドラマ「黒田勘兵衛」の黒田家発祥の地ということで、「ドラマ館」が出来たり、賤ヶ岳だけでなく、その他のところも観光してもらおうと、「おもてなしバス」が数々の史跡を回ってくれるサービスをしていた。
私たちは、賤ヶ岳の戦い(信長亡き後の跡目争い)の場所をを目当てに行ったのに、黒田勘兵衛につながりがあったり、またここは国宝級の観音様が安置してあったりと驚いた。この観音様は、信長がお寺の焼き討ちを発令した時に村人たちはこの観音様を土や水に埋めて守ったと話していた。だから一つの観音様の手は無くなっていた。
北陸鉄道で南下して、河毛(かわげ)駅に行く。そこから歩いて30分位のところに、小谷城があるらしい。やはり風雨が強いので行かずに、この駅に降りて駅の中の資料を見た。小谷城は浅井のお城である。信長と浅井・朝倉の戦い、姉川の合戦は有名である。お市と3姉妹を城から救出したのはこの戦いのあとかな?
長浜駅に行く。そこの駅前に秀吉と三成のあの有名な「三献の茶」の像があった。三成はこの長浜の石田町というところの出身であるから石田と名乗ったという。
ここで石田町はどんなところなのか興味があったので、巡回バスに乗って行くことにした。バス停で石田という地名が書いてあるバスを探して乗った。本来バスはそういう目的でないので、怪訝な顔をされたが、一区間のバス料金(180円)で長浜駅まで戻ってきた。申し訳ない感じがした。石田三成の出生地という看板はあったが、うまくカメラに収めることができなかった。夜は名物の「のっぺいうどん」を食べる。近江牛の肉を乗せたうどんで、とろみをきかせたしょうゆ味の汁で、とっても美味しかった。有名な人が数々来ているうどん屋さんだった。
2回泊まることになるビジネスホテルに泊まって、次の日は、長浜城である。
長浜城歴史博物館では、秀吉飛躍の契機となった「中国攻め」を取り上げていて、播磨・備前・備中などの武将たちの立場から、侵略者としての「秀吉」を展示していました。
姫路城(勘兵衛が生まれた)・御着城(小寺)・有岡城(村重)・三木城(別所)・ 上月城(尼子)山中鹿之助(尼子氏再興を画作し活躍、最後は毛利に護送中斬られる)
備中高松城(清水宗治)・鳥取城(吉川)
秀吉は、兵糧攻めをよくしていて、食べるものがなくなった城の中の人たちは、死んだ人の肉まで食べていたという記述が残っていた。
夜は、風雨もおさまったので、琵琶湖のほうに散歩した。
3日目は、朝から天気よく、ゆっくり帰る。
途中、関ヶ原に寄って「関ヶ原歴史資料館」へ行く。「二兵衛の息子 黒田長政と竹中重門」の特別展をやっていた。
黒田長政は関ヶ原合戦前の小山評定の時に、福島正則を説得し東軍につかせている。
家康はこの時、妻子を大阪に取られているので、こちらにつかなくても文句は言わないし、大阪に行くのだったら馬を用意させるとまでと家臣たちに言っている。でも、そこで福島正則が、「人質のことを考えて事を起こすのは、武士の本懐ではない」と口火を切ったことによって、みんな東方に入った。
もう一つの功績は、小早川秀秋への攻略である。関ヶ原合戦前に長政は家臣の大久保・大音の二人を秀秋の家臣平岡の元に張り付かせておいた。前日の9月14日には、書状をつかわしたが、この地に明るい竹中家臣一人が敵に見つからないように届けた。
この長政の家臣大久保は、なかなか動かない小早川家に対して、刺し違えも辞さない剣幕で催促したと資料に書いてあった。
竹中氏はこの関が原に近い「垂井」が本拠地である。関ヶ原の時にこの地に明るい竹中が本陣の配置を進言したという。また、この戦いで亡くなった兵士を供養するように家康に仰せつかったのも竹中重門だという。
帰りの電車では、まんまるい大きな月(今はスーパームーンの時期らしい)が海から上がってきていた。走っている電車からはよく撮れなかったが、二人して見とれていた。
こうして、台風の影響を受けながらも、無事に行ってこられた。
みんなに感謝してもしきれない。
一日目 5032歩(3.0キロ)
二日目 9055歩(5.4キロ)
三日目 6595歩(3.9キロ)
やっぱり電車バスの移動は、ほとんど歩いていないので、歩数が少ない。
結果からいうと、やはり10日は朝からすごい風雨で、新幹線は間引き運転で動いてはいたが、果たしてどうなるか不安だったし、青春18切符できている私たちには、やはりお金がかかるし、普通電車の方は動いていなくて、それに動き始めたとしても、東京の方まで行く電車は難しいということで、泊まった方が安心だと結論し、泊まったビジネスホテルにもう一泊することにした。
でもそのおかげで、また関ヶ原の資料館に行くことができて、前回よく分からなかったところが分かったのでよかった。
また今回は、風雨の関係で、バスで回ったり、駅で資料を見たりすることが多かった。歩かずにバスで見て回る新しい形式を開拓した旅でもあった。
では、行った順番に残しておこう。
まずは、上溝駅5時50分の茅ケ崎行きから出発だ。賤ヶ岳がある木之本駅に着くのは、14時27分。約8時間30分かかるのだ。時間はかかるが、料金は安い。青春切符で行くと、2370円也である。
行きの電車の中から見た富士山は、前に行った足立美術館の横山大観の富士の絵に似ていた。墨絵のように紗がかかっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4e/e8/9ab799f59b86e527d15362990609d132_s.jpg)
木之本駅では、私たちも初めて知ったのだが、大河ドラマ「黒田勘兵衛」の黒田家発祥の地ということで、「ドラマ館」が出来たり、賤ヶ岳だけでなく、その他のところも観光してもらおうと、「おもてなしバス」が数々の史跡を回ってくれるサービスをしていた。
私たちは、賤ヶ岳の戦い(信長亡き後の跡目争い)の場所をを目当てに行ったのに、黒田勘兵衛につながりがあったり、またここは国宝級の観音様が安置してあったりと驚いた。この観音様は、信長がお寺の焼き討ちを発令した時に村人たちはこの観音様を土や水に埋めて守ったと話していた。だから一つの観音様の手は無くなっていた。
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北陸鉄道で南下して、河毛(かわげ)駅に行く。そこから歩いて30分位のところに、小谷城があるらしい。やはり風雨が強いので行かずに、この駅に降りて駅の中の資料を見た。小谷城は浅井のお城である。信長と浅井・朝倉の戦い、姉川の合戦は有名である。お市と3姉妹を城から救出したのはこの戦いのあとかな?
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長浜駅に行く。そこの駅前に秀吉と三成のあの有名な「三献の茶」の像があった。三成はこの長浜の石田町というところの出身であるから石田と名乗ったという。
ここで石田町はどんなところなのか興味があったので、巡回バスに乗って行くことにした。バス停で石田という地名が書いてあるバスを探して乗った。本来バスはそういう目的でないので、怪訝な顔をされたが、一区間のバス料金(180円)で長浜駅まで戻ってきた。申し訳ない感じがした。石田三成の出生地という看板はあったが、うまくカメラに収めることができなかった。夜は名物の「のっぺいうどん」を食べる。近江牛の肉を乗せたうどんで、とろみをきかせたしょうゆ味の汁で、とっても美味しかった。有名な人が数々来ているうどん屋さんだった。
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2回泊まることになるビジネスホテルに泊まって、次の日は、長浜城である。
長浜城歴史博物館では、秀吉飛躍の契機となった「中国攻め」を取り上げていて、播磨・備前・備中などの武将たちの立場から、侵略者としての「秀吉」を展示していました。
姫路城(勘兵衛が生まれた)・御着城(小寺)・有岡城(村重)・三木城(別所)・ 上月城(尼子)山中鹿之助(尼子氏再興を画作し活躍、最後は毛利に護送中斬られる)
備中高松城(清水宗治)・鳥取城(吉川)
秀吉は、兵糧攻めをよくしていて、食べるものがなくなった城の中の人たちは、死んだ人の肉まで食べていたという記述が残っていた。
夜は、風雨もおさまったので、琵琶湖のほうに散歩した。
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3日目は、朝から天気よく、ゆっくり帰る。
途中、関ヶ原に寄って「関ヶ原歴史資料館」へ行く。「二兵衛の息子 黒田長政と竹中重門」の特別展をやっていた。
黒田長政は関ヶ原合戦前の小山評定の時に、福島正則を説得し東軍につかせている。
家康はこの時、妻子を大阪に取られているので、こちらにつかなくても文句は言わないし、大阪に行くのだったら馬を用意させるとまでと家臣たちに言っている。でも、そこで福島正則が、「人質のことを考えて事を起こすのは、武士の本懐ではない」と口火を切ったことによって、みんな東方に入った。
もう一つの功績は、小早川秀秋への攻略である。関ヶ原合戦前に長政は家臣の大久保・大音の二人を秀秋の家臣平岡の元に張り付かせておいた。前日の9月14日には、書状をつかわしたが、この地に明るい竹中家臣一人が敵に見つからないように届けた。
この長政の家臣大久保は、なかなか動かない小早川家に対して、刺し違えも辞さない剣幕で催促したと資料に書いてあった。
竹中氏はこの関が原に近い「垂井」が本拠地である。関ヶ原の時にこの地に明るい竹中が本陣の配置を進言したという。また、この戦いで亡くなった兵士を供養するように家康に仰せつかったのも竹中重門だという。
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帰りの電車では、まんまるい大きな月(今はスーパームーンの時期らしい)が海から上がってきていた。走っている電車からはよく撮れなかったが、二人して見とれていた。
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こうして、台風の影響を受けながらも、無事に行ってこられた。
みんなに感謝してもしきれない。
一日目 5032歩(3.0キロ)
二日目 9055歩(5.4キロ)
三日目 6595歩(3.9キロ)
やっぱり電車バスの移動は、ほとんど歩いていないので、歩数が少ない。