この3連休、ゆっくり体を休められたので、読み途中だった「謙信の軍配者」(富樫倫太郎著)をやっと読み終わることができた。
この本は、軍配者ものの三部作で一部は「早雲の軍配者」、二部は「信玄の軍配者」、三部がこの「謙信の軍配者」で、ちょうど戦国時代の始まりの北条早雲の時代から16世紀中頃の川中島の戦いの山本勘助が亡くなる第四回の戦い(1561年)までを、北条の軍配者風魔小太郎、武田晴信(信玄)の軍配者山本勘助、長尾影虎(上杉謙信)の軍配者宇佐美冬之助の活躍を中心に描かれていた。
若き日の3人が足利学校で出会い、友情を育み、別れ際、「戦場で見えよう」と誓い合い、それぞれが紆余曲折を経て、自分が一生を捧げられる主人と出会い、敵対するが、心の中では強い絆で繋がり合い、力いっぱい戦い、それぞれに助け合い、駆け引きをし合って、最後には死という別れで幕を閉じる。
これを読み終えて、小田原城が総構えという城の形態を造ったのがわかったし、あまりにも強い景虎(関東管領職や上杉という名をもらって破竹の勢いである)と一戦をまみえるのは部が悪いと悟った氏康の策(小太郎が提案)で、町全体を城壁で囲み、民たちを守る為の総構えであった。
また、川中島の戦いは、一回目は景虎が勝利、二回目は信晴が勝利で、どちらもあと一歩追い詰めれば大将が死んでいたという戦いであったことも。
4回目の戦いでも、勘助の策を見破ったのは、冬之助であった。炊飯の煙がいつもより多いと感づいたのだ。これは習慣の違いで、長尾の方は兵にいつも2食分の食料を持たせ、武田方はその場その場で食べさせていた。そんな習慣の違いで見破られてしまった。これも運命である。そんなことも分かった。
晴信の本拠地(城)である「躑躅が崎館」にもこの夏行ってきた。扇状地の入口を躑躅ケ崎というそうで、まさにそこに建てられていた。今では武田神社になっていたが。
そう言えば、そこの資料館で、晴信の父の追い出された信虎は今川の方で、手厚く囲われていて、晴信(信玄)の死んだ一年後に亡くなっていたっけ。
誠に面白い本らであった。
この本は、軍配者ものの三部作で一部は「早雲の軍配者」、二部は「信玄の軍配者」、三部がこの「謙信の軍配者」で、ちょうど戦国時代の始まりの北条早雲の時代から16世紀中頃の川中島の戦いの山本勘助が亡くなる第四回の戦い(1561年)までを、北条の軍配者風魔小太郎、武田晴信(信玄)の軍配者山本勘助、長尾影虎(上杉謙信)の軍配者宇佐美冬之助の活躍を中心に描かれていた。
若き日の3人が足利学校で出会い、友情を育み、別れ際、「戦場で見えよう」と誓い合い、それぞれが紆余曲折を経て、自分が一生を捧げられる主人と出会い、敵対するが、心の中では強い絆で繋がり合い、力いっぱい戦い、それぞれに助け合い、駆け引きをし合って、最後には死という別れで幕を閉じる。
これを読み終えて、小田原城が総構えという城の形態を造ったのがわかったし、あまりにも強い景虎(関東管領職や上杉という名をもらって破竹の勢いである)と一戦をまみえるのは部が悪いと悟った氏康の策(小太郎が提案)で、町全体を城壁で囲み、民たちを守る為の総構えであった。
また、川中島の戦いは、一回目は景虎が勝利、二回目は信晴が勝利で、どちらもあと一歩追い詰めれば大将が死んでいたという戦いであったことも。
4回目の戦いでも、勘助の策を見破ったのは、冬之助であった。炊飯の煙がいつもより多いと感づいたのだ。これは習慣の違いで、長尾の方は兵にいつも2食分の食料を持たせ、武田方はその場その場で食べさせていた。そんな習慣の違いで見破られてしまった。これも運命である。そんなことも分かった。
晴信の本拠地(城)である「躑躅が崎館」にもこの夏行ってきた。扇状地の入口を躑躅ケ崎というそうで、まさにそこに建てられていた。今では武田神社になっていたが。
そう言えば、そこの資料館で、晴信の父の追い出された信虎は今川の方で、手厚く囲われていて、晴信(信玄)の死んだ一年後に亡くなっていたっけ。
誠に面白い本らであった。