平成27年8月9・10・11日(日、月、火)、このうだる様な暑さの中、夏休み恒例の東海道珍道中の旅を行った。
今回は、東海道からちょっと外れた、忍者で有名な伊賀上野、日本の国宝の城の一つである「彦根城」、それと東海道の草津宿から大津宿を歩こうと、計画を立てていざ出発をした。
やっぱり実際に行ってみると、得るものが多い。
行った先に、それ以外の史跡が近くにあって行くことができたり、前回に接した史跡との繋がりを感じ、驚いたりもした。
項目順に、書いてみよう。
一つは、伊賀上野で松尾芭蕉の生家があって、大津の義仲寺では、墓があった。
それは、行く前は、二つとも知らずに行ったのだが、調べているうちに偶然にも繋がった。
松尾芭蕉生家。ちなみに、「芭蕉」は植物で、バナナの幹に似ている。実は食べられなく、当時は、葉も活用していないかったので、芭蕉は自分の身と重ね合わせて名づけたという。
義仲寺 ここには、木曽義仲の墓もある。この辺りの粟津が原で戦って亡くなったという。芭蕉は遺言により義仲寺に埋葬された。
二つ目は、彦根城の近くに佐和山城があった。いずれ行きたいとは思っていたが、こんなに近くにあるとは思わなかった。井伊直弼は十四男で、まさか自分が城主になるとは思わないで、「埋れ木舎」を建ててもらって、そこで、青春時代を過ごした。「一期一会」の言葉は、この人の言葉であるという。
彦根城
佐和山城
その隣に、井伊家の菩提寺である「清凉寺」
三つ目は、「藤堂高虎」である。以前京都の「南禅寺」に行った時に、荘厳な山門はこの藤堂高虎が、夏の陣で亡くなった武将たちを弔うために造ったと書いてあった。その藤堂高虎が、伊賀上野城を建てたとあり、高虎の資料がこの城にはたくさん展示してあった。城作りの名手であるという。高堀が有名で、30~40メートルはあった。
藤堂高虎といえば、関ヶ原の時には、大谷吉継と対している。吉継は自分の首を家来の五助に介錯させて、相手に渡すなと言及して亡くなる。その首を埋めてる所で出会ったしまった藤堂高虎の甥は、家来の主への忠誠心に感動して、その場所を一生公言しなかったということが関ヶ原の吉継の墓の隣に碑があり、そこに書いてあった。
伊賀上野城
四つ目は、同じように、以前行った京都で、明智光秀は、織田信長を討って、安土城に行く際、瀬田の唐橋のところで、橋を壊されて妨害された。主君を討ったことで、やはりいいふうには見られなかったのであろう。この話を聞いていたので、その「瀬田の唐橋」も見ることができた。この場所は、いろいろな歴史的な事件が起きていて、東や西を結ぶ重要な地である。
五つ目は、南草津の駅に降りたら、紫式部の看板が、「何かな?」と思い、観光案内所に、千ちゃんが聞きに行くと、何と近くの「石山寺」で、源氏物語を執筆したという。それで、急遽、そこからバスに乗って、行くことができた。
いろいろ繋がるな~。と感じる旅でもあったが、如何せんこの暑さである。
実は、草津から大津の歩きは、電車やバスを大いに利用した。無理は禁物である。
街道筋には、「露皇帝襲撃事件」の碑があった。その露皇帝を助けた人力車の人夫は年金や勲章をもらったと、大津歴史博物館で書いてあった。
草津宿には、有名な本陣があったのだが、月曜日ということで、拝観できず。
歩いていると、「常善寺」がある。そこでは、徳川家康が、関ヶ原に勝ったあとに、宿陣したところである。また、街道には、「急がば回れ」の語源になったところもあった。琵琶湖を通って、船で行くと近いけど、波が高くて出航しないこともあって遠くなるということである。
一日目の泊まったホテルにはこんな写真が。幕末の有名人の列挙である。
3日目には、大津京跡、膳所城跡、三井寺、義仲寺と、電車を使って有名どころに行ってきた。
膳所城跡。名手藤堂高虎の築城である。
大津京跡(近江京)
三井寺(園城寺)。天智・天武・持統の三天皇が産湯を使ったということからこういう名前になったという。
でも、まだ観るところはありそうなので、次回は、大津を見てから、いよいよ京都三条大橋まで歩こうということで、今回の旅が終了した。
一日目 5302歩(約6キロ)
二日目 24139歩(約14キロ)
三日目 11456歩(約6.8キロ)
いつも思うことだが、歴史の繋がりを甚く感じた旅でもあった。
また、こうやって歩けることに幸せを感じ、家族や周りのことに感謝して、やまない。
今回は、東海道からちょっと外れた、忍者で有名な伊賀上野、日本の国宝の城の一つである「彦根城」、それと東海道の草津宿から大津宿を歩こうと、計画を立てていざ出発をした。
やっぱり実際に行ってみると、得るものが多い。
行った先に、それ以外の史跡が近くにあって行くことができたり、前回に接した史跡との繋がりを感じ、驚いたりもした。
項目順に、書いてみよう。
一つは、伊賀上野で松尾芭蕉の生家があって、大津の義仲寺では、墓があった。
それは、行く前は、二つとも知らずに行ったのだが、調べているうちに偶然にも繋がった。
松尾芭蕉生家。ちなみに、「芭蕉」は植物で、バナナの幹に似ている。実は食べられなく、当時は、葉も活用していないかったので、芭蕉は自分の身と重ね合わせて名づけたという。
義仲寺 ここには、木曽義仲の墓もある。この辺りの粟津が原で戦って亡くなったという。芭蕉は遺言により義仲寺に埋葬された。
二つ目は、彦根城の近くに佐和山城があった。いずれ行きたいとは思っていたが、こんなに近くにあるとは思わなかった。井伊直弼は十四男で、まさか自分が城主になるとは思わないで、「埋れ木舎」を建ててもらって、そこで、青春時代を過ごした。「一期一会」の言葉は、この人の言葉であるという。
彦根城
佐和山城
その隣に、井伊家の菩提寺である「清凉寺」
三つ目は、「藤堂高虎」である。以前京都の「南禅寺」に行った時に、荘厳な山門はこの藤堂高虎が、夏の陣で亡くなった武将たちを弔うために造ったと書いてあった。その藤堂高虎が、伊賀上野城を建てたとあり、高虎の資料がこの城にはたくさん展示してあった。城作りの名手であるという。高堀が有名で、30~40メートルはあった。
藤堂高虎といえば、関ヶ原の時には、大谷吉継と対している。吉継は自分の首を家来の五助に介錯させて、相手に渡すなと言及して亡くなる。その首を埋めてる所で出会ったしまった藤堂高虎の甥は、家来の主への忠誠心に感動して、その場所を一生公言しなかったということが関ヶ原の吉継の墓の隣に碑があり、そこに書いてあった。
伊賀上野城
四つ目は、同じように、以前行った京都で、明智光秀は、織田信長を討って、安土城に行く際、瀬田の唐橋のところで、橋を壊されて妨害された。主君を討ったことで、やはりいいふうには見られなかったのであろう。この話を聞いていたので、その「瀬田の唐橋」も見ることができた。この場所は、いろいろな歴史的な事件が起きていて、東や西を結ぶ重要な地である。
五つ目は、南草津の駅に降りたら、紫式部の看板が、「何かな?」と思い、観光案内所に、千ちゃんが聞きに行くと、何と近くの「石山寺」で、源氏物語を執筆したという。それで、急遽、そこからバスに乗って、行くことができた。
いろいろ繋がるな~。と感じる旅でもあったが、如何せんこの暑さである。
実は、草津から大津の歩きは、電車やバスを大いに利用した。無理は禁物である。
街道筋には、「露皇帝襲撃事件」の碑があった。その露皇帝を助けた人力車の人夫は年金や勲章をもらったと、大津歴史博物館で書いてあった。
草津宿には、有名な本陣があったのだが、月曜日ということで、拝観できず。
歩いていると、「常善寺」がある。そこでは、徳川家康が、関ヶ原に勝ったあとに、宿陣したところである。また、街道には、「急がば回れ」の語源になったところもあった。琵琶湖を通って、船で行くと近いけど、波が高くて出航しないこともあって遠くなるということである。
一日目の泊まったホテルにはこんな写真が。幕末の有名人の列挙である。
3日目には、大津京跡、膳所城跡、三井寺、義仲寺と、電車を使って有名どころに行ってきた。
膳所城跡。名手藤堂高虎の築城である。
大津京跡(近江京)
三井寺(園城寺)。天智・天武・持統の三天皇が産湯を使ったということからこういう名前になったという。
でも、まだ観るところはありそうなので、次回は、大津を見てから、いよいよ京都三条大橋まで歩こうということで、今回の旅が終了した。
一日目 5302歩(約6キロ)
二日目 24139歩(約14キロ)
三日目 11456歩(約6.8キロ)
いつも思うことだが、歴史の繋がりを甚く感じた旅でもあった。
また、こうやって歩けることに幸せを感じ、家族や周りのことに感謝して、やまない。
目的地では思いがけない物に出会うのも醍醐味ですね。
松尾芭蕉の生家や墓もみることができ、歴史は繋がっている事を再確認。
京都三条大橋が見えてきましたね。(^o^)