平成26年3月27日・28日と青春18切符を使った、私たちの安上がりの旅「東海道53次」の続きを行ってきた。
前回は、岡崎に行き、岡崎城からのサーチライトの照らす先の大樹寺に行って、いたく感動したっけ。
今回は、そのまま53次を行くとすると、桑名の方に行くのだが、私たちはやっぱりお城が好きなので、北上して「名古屋」方面に行くこととした。
名古屋といえば、やっぱり金の鯱が有名な名古屋城。そこを中心に、熱田神社、清須城などを見る予定でいざ出発した。
確かに名古屋城も清須城も分かりやすく資料が展示してあって、なるほど納得することが多かった。
でも、今回の、一番驚き感動したのは、途中博物館へ行くのに、タクシーに乗って、
あっ、ここで突っ込む人は、「東海道の歩く旅なのに、どうしてタクシーなのですか?」と。実は私たちも趣旨と違うな~と気にしながらっているのです。
で、聞くともなしに「名古屋駅周辺は何区ですか?」と聞いたときに「中村区です」と答えられ、頭の隅に秀吉が生まれたのが「中村」という地名が残っていて、「もしかして」と思いながら、その場は過ぎて、博物館へ到着し、しばし展示物に見入っていた。その後、夕方、名古屋城に行った時に、中には入れす、外の看板地図を見た時に、そこに中村公園の「豊国神社」近くに「秀吉・清正資料館」とあり、やっぱり中村区は秀吉の生誕の地であることが分かった。今ではこんな賑やかな地だけど、昔この辺で、秀吉や清正が生まれ育ったところだということが分かり、驚き感動した次第である。
信長もこの中村からそんなに遠くないところの「那古野城」(なごや)で生まれている。この那古野は現在の名古屋城の敷地内に碑が残っていた。(でもちゃんとした掲示板とかがなかったので、見つけるのに、甚く時間を要してしまい、最初から売店の人に聞けばよかったと後悔した)
だから、最初から秀吉は信長のことを知っていて、たくさんの雄姿をみたり、聞いたりしていたことだろう。
この大きな石に、はっきり見ないとわからないが、「那古野城」と刻まれていた。
また、加藤清正も秀吉より25歳くらいあとに生まれているが、生まれた所は隣同士みたいに近く、顔見知りだったと思われる。だから、秀吉は目をかけて、朝鮮出兵でも頼りにしたのだろう。
名古屋城の敷地の中に、加藤清正が大きな石に乗って城壁の石垣を積み上げるための音頭をとっている石像があった。
「秀吉・清正資料館」では、信長・秀吉・家康と三武将のことが分かりやすく展示してあって、これで無料とは、名古屋人の心の大きさが伺われた。
順番は違うが、ここで、秀吉・清正資料館で撮ってきた資料を貼り付けておく。
中でも、心が惹かれたのが、秀吉が秀頼の将来を心配して、家康たち家臣に血判状を書かせた証書である。三成が書かせたと書いてあったが。
また、この名古屋の地は、三大武将の足跡が深く残っている場所でもある。
名古屋城や博物館、清須城に行って、この名古屋の足跡を辿ってみることにする。
まず、1538年、信長の父、信秀は今川から那古野城を奪い取る。お客として入り込み居座って、もといた人たちを追い出したと書かれていた。こんなこともあるのか。
1534年、信長が那古野城で生まれる。年代がちぐはぐだが、そこはよしとしよう。
1555年、那古野城から清須城に移る。信長が清須城にいたときは、有名な名だたる武将の家臣団がこの清須に住んでいたという。前田利家、山内一豊、柴田勝家、秀吉、石田三成等々。現在ある清須城のところが家臣団の住居があったところで、五条川を挟んだところが本来清須城が建っていたところだという。
ここでは、清須城の資料を貼り付けておく。
本能寺前までは、信長の家臣、兼松正吉が越前との戦いで功績があって、この地を領地として貰い受け、代々管轄していた。
本能寺の後、信雄が城主となり、城下町として整備した。その後追放され、
秀吉の甥の秀次が任命されるが、この人も秀吉から切腹させられる。
その後、一旦また、兼松正吉が管理するが、関ヶ原のあとに、家康の四男忠吉が城主となる。忠吉は短命だったため、九男の義直(家康が52歳?の時の子供である)が城主になる。正吉には隠居料として600石を申し付けた。この時に、家康はこの清須城が川の氾濫によりよく水害になるので、
1609年、名古屋城を築城し、初代藩主は徳川義直になる。この時に、加藤清正に天守閣を造らせたという。
ここに、名古屋城や博物館での資料を貼り付けておく。
今回は行った順番には載せなかった。
最後に、最初に行った、熱田神宮の様子を貼り付けておく。信長が、桶狭間の出陣の前に祈願し、大勝したので、お礼に奉納したとされる塀があった。
今回もたくさんの発見があったウォーキングであった。名古屋という街を再認識した旅でもあった。
こうやって楽しいことができること、歩けるということはほんとに幸せなことである。
大いに感謝している。
一日目 13975歩(約8キロ)
二日目 23948歩(約14キロ)
前回は、岡崎に行き、岡崎城からのサーチライトの照らす先の大樹寺に行って、いたく感動したっけ。
今回は、そのまま53次を行くとすると、桑名の方に行くのだが、私たちはやっぱりお城が好きなので、北上して「名古屋」方面に行くこととした。
名古屋といえば、やっぱり金の鯱が有名な名古屋城。そこを中心に、熱田神社、清須城などを見る予定でいざ出発した。
確かに名古屋城も清須城も分かりやすく資料が展示してあって、なるほど納得することが多かった。
でも、今回の、一番驚き感動したのは、途中博物館へ行くのに、タクシーに乗って、
あっ、ここで突っ込む人は、「東海道の歩く旅なのに、どうしてタクシーなのですか?」と。実は私たちも趣旨と違うな~と気にしながらっているのです。
で、聞くともなしに「名古屋駅周辺は何区ですか?」と聞いたときに「中村区です」と答えられ、頭の隅に秀吉が生まれたのが「中村」という地名が残っていて、「もしかして」と思いながら、その場は過ぎて、博物館へ到着し、しばし展示物に見入っていた。その後、夕方、名古屋城に行った時に、中には入れす、外の看板地図を見た時に、そこに中村公園の「豊国神社」近くに「秀吉・清正資料館」とあり、やっぱり中村区は秀吉の生誕の地であることが分かった。今ではこんな賑やかな地だけど、昔この辺で、秀吉や清正が生まれ育ったところだということが分かり、驚き感動した次第である。
信長もこの中村からそんなに遠くないところの「那古野城」(なごや)で生まれている。この那古野は現在の名古屋城の敷地内に碑が残っていた。(でもちゃんとした掲示板とかがなかったので、見つけるのに、甚く時間を要してしまい、最初から売店の人に聞けばよかったと後悔した)
だから、最初から秀吉は信長のことを知っていて、たくさんの雄姿をみたり、聞いたりしていたことだろう。
この大きな石に、はっきり見ないとわからないが、「那古野城」と刻まれていた。
また、加藤清正も秀吉より25歳くらいあとに生まれているが、生まれた所は隣同士みたいに近く、顔見知りだったと思われる。だから、秀吉は目をかけて、朝鮮出兵でも頼りにしたのだろう。
名古屋城の敷地の中に、加藤清正が大きな石に乗って城壁の石垣を積み上げるための音頭をとっている石像があった。
「秀吉・清正資料館」では、信長・秀吉・家康と三武将のことが分かりやすく展示してあって、これで無料とは、名古屋人の心の大きさが伺われた。
順番は違うが、ここで、秀吉・清正資料館で撮ってきた資料を貼り付けておく。
中でも、心が惹かれたのが、秀吉が秀頼の将来を心配して、家康たち家臣に血判状を書かせた証書である。三成が書かせたと書いてあったが。
また、この名古屋の地は、三大武将の足跡が深く残っている場所でもある。
名古屋城や博物館、清須城に行って、この名古屋の足跡を辿ってみることにする。
まず、1538年、信長の父、信秀は今川から那古野城を奪い取る。お客として入り込み居座って、もといた人たちを追い出したと書かれていた。こんなこともあるのか。
1534年、信長が那古野城で生まれる。年代がちぐはぐだが、そこはよしとしよう。
1555年、那古野城から清須城に移る。信長が清須城にいたときは、有名な名だたる武将の家臣団がこの清須に住んでいたという。前田利家、山内一豊、柴田勝家、秀吉、石田三成等々。現在ある清須城のところが家臣団の住居があったところで、五条川を挟んだところが本来清須城が建っていたところだという。
ここでは、清須城の資料を貼り付けておく。
本能寺前までは、信長の家臣、兼松正吉が越前との戦いで功績があって、この地を領地として貰い受け、代々管轄していた。
本能寺の後、信雄が城主となり、城下町として整備した。その後追放され、
秀吉の甥の秀次が任命されるが、この人も秀吉から切腹させられる。
その後、一旦また、兼松正吉が管理するが、関ヶ原のあとに、家康の四男忠吉が城主となる。忠吉は短命だったため、九男の義直(家康が52歳?の時の子供である)が城主になる。正吉には隠居料として600石を申し付けた。この時に、家康はこの清須城が川の氾濫によりよく水害になるので、
1609年、名古屋城を築城し、初代藩主は徳川義直になる。この時に、加藤清正に天守閣を造らせたという。
ここに、名古屋城や博物館での資料を貼り付けておく。
今回は行った順番には載せなかった。
最後に、最初に行った、熱田神宮の様子を貼り付けておく。信長が、桶狭間の出陣の前に祈願し、大勝したので、お礼に奉納したとされる塀があった。
今回もたくさんの発見があったウォーキングであった。名古屋という街を再認識した旅でもあった。
こうやって楽しいことができること、歩けるということはほんとに幸せなことである。
大いに感謝している。
一日目 13975歩(約8キロ)
二日目 23948歩(約14キロ)
秀吉って本当に息子秀頼が可愛くて、溺愛していたんですね。親ばかが冷静さを失ってしまって・・・という感じでしょうか。