平成24年1月4日(水)今年初めての歴史探訪は、石橋山にした。
場所は小田原の先、真鶴半島の手前の海沿いにある。
私は千ちゃんと頼朝が流された伊豆の蛭が小島に行き、その時に北条の館にも行った。千ちゃんが貸してくれている本「曾我兄弟の密命」でもそのところが書かれてあり、流されている時の頼朝は、平家の全盛の時代で、当たり前だが、周りの人たちの顔色を伺い、立場が弱い存在であった。周りに気を遣いながら暮らすも、平家方である伊東祐親に子ども(祐親の四女八重姫との子ども千鶴・祐親の孫でもある)を殺され、あわや自分の命さえも殺されかけて、北条時政の館に逃げ込んで命拾いをしたという事件もあり、源氏の嫡男とはいえほんとかわいそうなくらいだったと言える。
そんな頼朝が、時流にのるとはいえ、伊豆のあんな田舎の小さな離れ小島から、全国を治める武将にと変わっていくのは、やはり興味がわく。様々なラッキーが積み重なったり、運の強さの賜であるだろうが、そこには運命という2文字が頭に浮かんでくる。
石橋山合戦はそんな頼朝が、京都の方のゴタゴタから平氏追討の命旨を受けて、時流が源氏方に傾きかけていると判断して、出立し戦った、最初の場である。
調べてみると、1180年8月17日、平氏追討の命旨を受けて、山木兼隆(伊豆の目代・平氏側・北条政子が結婚させられそうになる)を三嶋大社の大祭で討つ。
8月24日、石橋山で大庭影親と対戦。
この時に一番手で戦いに臨んだのが、佐奈田氏であり、この石橋山の合戦地に佐奈田神社が建立してある。
この時頼朝が頼りにするのは、横須賀の衣笠に本拠地がある三浦一族だった。応援には駆けつけたが、大雨の影響か酒匂川の水かさが多くて、渡ることができず、参戦できなかった。この時、頼朝は大庭影親軍3000騎、伊東祐親軍に、わずか300騎で挟まれていた。夜襲を受け、逃れるために、土肥の椙山(すぎやま)に隠れる。
この地図で見る限り、挟まれていて、逃げ通すことが無理に感じるが、やはりそれが天の助けなのか、運が強いのかちゃんとこの戦場から逃げることができた。
この時平氏としては、何が何でも頼朝の首が取りたくて必死で山狩りをするのだが、見つけられなかった。有名な逸話が、大庭軍の中にいた梶原景時は「この山にはいない」と言って、頼朝が隠れているのを知りつつ、見逃がしてあげたということである。
土肥実平(湯河原・真鶴を本拠地にする)の導きにより、真鶴の浜から房総半島の安房の国へ海路から逃げ果せることができた。
真鶴のこの辺から舟で安房の国へ行ったということであるが、三浦半島は何とかおぼろげに見えたが、房総半島は全く分からない。向こうとの連絡手段がない当時、きっと不安な面持ちで出立したのであろう。
頼朝は、何と10月6日には鎌倉入りを果たしたとされる。石橋山の合戦からわずか42日間後のことである。関東一の大豪族で、安房の国の大将であり、源義朝の義父にあたる上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)を味方に付けたことがその最大の要因だったという。
でも一番の要因は世の中の動きが彼を後押ししたのであろう。
話は変わるが、頼朝のことを調べていたら、吉野で義経と別れた静御前は鎌倉に連れていかれ、鶴岡八幡宮の若宮大路で、頼朝や政子の前で舞を踊る。その鼓を打っていたのが、何と曾我兄弟の仇であり、今は頼朝の側近になっている工藤祐経(すけつね)である。
最初の方で記述した「曾我兄弟の密命」で、従兄弟同志でありながら伊東祐親(石橋山で頼朝を挟んだ武将・石橋山合戦後伊豆に逃げ帰り、かって自分の手下であったが今は頼朝方になった武士に捕えられ殺される。)を、手下を使って討とうとしたが、一緒に鷹狩りに来ていたその息子、祐通(すけみち・曾我兄弟の父)を討ってしまった人物なのである。この兄弟は祐経を最初から仇としているのではなく、祐親が鎌倉のその辺に葬られているとか、いろいろな因果関係で最終的には頼朝憎しになっていく。
私が驚いたのは、こんなところに今読んでいる本の登場人物が出てきたことであり、やっぱり歴史はつながっているんだなーと感慨に慕ったところである。
場所は小田原の先、真鶴半島の手前の海沿いにある。
私は千ちゃんと頼朝が流された伊豆の蛭が小島に行き、その時に北条の館にも行った。千ちゃんが貸してくれている本「曾我兄弟の密命」でもそのところが書かれてあり、流されている時の頼朝は、平家の全盛の時代で、当たり前だが、周りの人たちの顔色を伺い、立場が弱い存在であった。周りに気を遣いながら暮らすも、平家方である伊東祐親に子ども(祐親の四女八重姫との子ども千鶴・祐親の孫でもある)を殺され、あわや自分の命さえも殺されかけて、北条時政の館に逃げ込んで命拾いをしたという事件もあり、源氏の嫡男とはいえほんとかわいそうなくらいだったと言える。
そんな頼朝が、時流にのるとはいえ、伊豆のあんな田舎の小さな離れ小島から、全国を治める武将にと変わっていくのは、やはり興味がわく。様々なラッキーが積み重なったり、運の強さの賜であるだろうが、そこには運命という2文字が頭に浮かんでくる。
石橋山合戦はそんな頼朝が、京都の方のゴタゴタから平氏追討の命旨を受けて、時流が源氏方に傾きかけていると判断して、出立し戦った、最初の場である。
調べてみると、1180年8月17日、平氏追討の命旨を受けて、山木兼隆(伊豆の目代・平氏側・北条政子が結婚させられそうになる)を三嶋大社の大祭で討つ。
8月24日、石橋山で大庭影親と対戦。
この時に一番手で戦いに臨んだのが、佐奈田氏であり、この石橋山の合戦地に佐奈田神社が建立してある。
この時頼朝が頼りにするのは、横須賀の衣笠に本拠地がある三浦一族だった。応援には駆けつけたが、大雨の影響か酒匂川の水かさが多くて、渡ることができず、参戦できなかった。この時、頼朝は大庭影親軍3000騎、伊東祐親軍に、わずか300騎で挟まれていた。夜襲を受け、逃れるために、土肥の椙山(すぎやま)に隠れる。
この地図で見る限り、挟まれていて、逃げ通すことが無理に感じるが、やはりそれが天の助けなのか、運が強いのかちゃんとこの戦場から逃げることができた。
この時平氏としては、何が何でも頼朝の首が取りたくて必死で山狩りをするのだが、見つけられなかった。有名な逸話が、大庭軍の中にいた梶原景時は「この山にはいない」と言って、頼朝が隠れているのを知りつつ、見逃がしてあげたということである。
土肥実平(湯河原・真鶴を本拠地にする)の導きにより、真鶴の浜から房総半島の安房の国へ海路から逃げ果せることができた。
真鶴のこの辺から舟で安房の国へ行ったということであるが、三浦半島は何とかおぼろげに見えたが、房総半島は全く分からない。向こうとの連絡手段がない当時、きっと不安な面持ちで出立したのであろう。
頼朝は、何と10月6日には鎌倉入りを果たしたとされる。石橋山の合戦からわずか42日間後のことである。関東一の大豪族で、安房の国の大将であり、源義朝の義父にあたる上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)を味方に付けたことがその最大の要因だったという。
でも一番の要因は世の中の動きが彼を後押ししたのであろう。
話は変わるが、頼朝のことを調べていたら、吉野で義経と別れた静御前は鎌倉に連れていかれ、鶴岡八幡宮の若宮大路で、頼朝や政子の前で舞を踊る。その鼓を打っていたのが、何と曾我兄弟の仇であり、今は頼朝の側近になっている工藤祐経(すけつね)である。
最初の方で記述した「曾我兄弟の密命」で、従兄弟同志でありながら伊東祐親(石橋山で頼朝を挟んだ武将・石橋山合戦後伊豆に逃げ帰り、かって自分の手下であったが今は頼朝方になった武士に捕えられ殺される。)を、手下を使って討とうとしたが、一緒に鷹狩りに来ていたその息子、祐通(すけみち・曾我兄弟の父)を討ってしまった人物なのである。この兄弟は祐経を最初から仇としているのではなく、祐親が鎌倉のその辺に葬られているとか、いろいろな因果関係で最終的には頼朝憎しになっていく。
私が驚いたのは、こんなところに今読んでいる本の登場人物が出てきたことであり、やっぱり歴史はつながっているんだなーと感慨に慕ったところである。
さっき、岡山の父に大和田先生のワクワク日記を紹介しました。
それにしても多忙な中、すごいですね・・・。
3人の子育て、教員のプロ、そして趣味も充実して、かっこいいです。
それはそうと、友達の家で飲みながら、焼き物の歴史を話していました。
うちの父も日本史マニアで、小さいころからいろんな歴史的名所に足を運んでいたもので、本ではなく実際に見たこと、感じたこととして、日本の歴史は記憶に残っています。
たぶっちゃん
「曾我兄弟の宿命」やっと読み終わりそう。今討ち入りです。読み終わったら、またブログに載せるので、連絡します。
前作を引きずっているからなのか私は龍馬の時でさえそうでした。
今年の清盛もやっぱり同じ。
時代説明的なナレーションも多いしね。
でも画面に迫力有るし、清盛の若い頃に興味あるので、そのうちガッツリ食いつくんじゃないかな
ありがとう 本読んでみるね
これを読むと、頼朝が蛭が小島に流されてから、鎌倉に幕府を開いて、源氏の世の中になっていく、その間の時代背景が、よく分かるよ。京都の公家に自分の娘を嫁がせようとして、力をもっと強くしていきたいと願ったりとか、政権を取ろうと周りの武士たちは画策をねったりとか、まだまだ平穏ではなかったということがよくわかります。
平清盛見てる?どお、食いついている?
それはそれはびっくりだね
「曽我兄弟の密命」って作者はどなたですか?読んでみたいなぁ
敵でありながら見方してくれたり見逃してくれたり・・・やはり歴史に名を残す人物は魅力的でもあったのでしょうね