平成25年1月12日・13日、3連休を利用して、東海道53次の続きを行った。
運がいいことにこの2日間は、ウオーキングには絶好の日和であったが、次の日はあの大雪である。天は我らに味方したと胸の中で叫んだ。
今年初めの歴史探訪は、家康が掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻撃仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が、城をすっぽりと覆い隠し、攻撃できなかったという伝説が残っている、別名「雲霧城」と呼ばれている掛川城と家康が天下統一を果たしたことや歴代のこの浜松城主になった大名が重職である大阪城代や京都所司代・寺社奉行等に登用され、「はま松は、出世城なり、初松魚」とうたわれている浜松城に主に行く。
また、今回から、安藤広重が東海道53次の浮世絵を描いた場所を探して行ってみようと、計画時に話し合った。全部は難しいが、掛川の大池橋のところと天竜川の川越のところと浜松の馬込橋から浜松城や三方ヶ原を望んでいるところの3箇所に行ってみた。ほとんど面影を残していなかったが、唯一天竜川は、昔もこうして流れていたのだろう。川幅の長く、流れが速そうな、昔「あばれ天竜」といわれていたのがわかる風情であった。
では、順を追って、詳しく残しておこう。
今回はリッチに新幹線で、掛川まで行ってしまう。新横浜から約1時間30分で掛川に到着。富士山を見るために進行方向の右側に座り、見事な勇姿を拝むことができた。
まずは、掛川城である。
実は前回、掛川まで来て夕方になってしまって中には入れなかったが、今回はじっくり中に入って見ることができたし、スタッフの方にたくさん説明を聞くこともできた。
それに、将棋の対戦がこの城内の二の丸茶室であるということで、この日は特別に二の丸にある御殿(城主の公邸・藩の役所・江戸時代後期に再建された建物、日本に数箇所しか残っていない、そのひとつが川越城の御殿・重要文化財)でお茶が飲むこともできた。
いろいろなラッキーが重なった。
長い急な階段を上ると、掛川城入口につく。まず、そこにある井戸のところで、スタッフの方が、「雲霧場」の由来を話してくれた。
それにこの掛川城は復元した城で、昔と同じ位置に当時と同じように木造で建てられており、石垣も残っている。こういう条件を満たしたものだけが復元した城ということができるという。掛川城は日本の中でも珍しい城の一つであるとされる。
細君千代の内助の功で知られている山内一豊は、長浜城からこの掛川城に移り、関ヶ原の戦いの功績で高知城に移るまでの10年間、この城に住んで、天守閣や御殿を造ったとされる。また、高知城に行った時にも、この掛川城と同じものを造らせたという。高知には掛川町という地名があると言っていたが・・・
城の壁に鋭い棒が何本も出ている。これはしのびがえし(忍者返し)といって、忍びを入らせないためのものだる。
余談だが、山内一豊がこの掛川城に移ってきたのは、秀吉が小田原攻めで後北条を破た時、今まで北条が持っていた領土を家康に渡し、東に移らせた。家康が今まで持っていた土地は、それは浜松城にいた時に領土を拡大して持っていた駿河や遠江等の土地なのだが、秀吉に献上したという。そして、秀吉は有力な武将たちに掛川城は山内一豊に家康対策として城に入らせ守らせたということらしい。
また、関ヶ原の功績というのは、掛川城から10キロ位東に行ったところに久延寺(きゅうえんじ)という山寺がある。そこは関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉攻めの軍を大阪より進めてきた家康をもてなしたとされる。小山会議で、関ヶ原合戦を決めた家康が、東から東海道を西に戻ってくるときにも、露払い的な役割を行い、思ったよりも早く関が原に到着させたという。
細君千代は、ほんとできる人であったらしい。裁縫に長けていて、秀吉が聚楽邸に上がる時の着物を頼まれて縫って差し上げたとか節約を旨として、まな板がわりにおひつをひっくり返して使ったとかへそくり上手で夫に天下一品の馬を買ってあげたとか逸話がたくさんあった。
掛川城の内部の写真を貼り付けておく。
次に、御殿でお茶を飲もうということで行く。お茶を飲んでゆっくりしていると、さっきのスタッフの方がこちらに来られた、ずいぶん長くいたと感心して、またいろいろなことを教えてくださった。
武士の身分によって入れる場所がずいぶんと違うということがわかった。下っ端は中にさえ入れずに、土間で今日の仕事を聞いて、仕事に向かう。
また、お殿様がかごに乗って玄関に横付けされると、ドアが開く前に家来たちは中のところに並んでお迎えしなくてはならないから入口がいくつもあった。
畳を歩くときは、ふちは踏んではいけない。それは下から刀を刺すと、畳のところは突き抜けるが、ふちのところは固くて突き抜けない。だから私はあなたを信頼していますよという証で、畳のところを歩くのだという。
殿様や身分の上の方の方に謁見するときは、刀は右に置く。左に指すから左に置くとすぐ刀を抜くことができるから。
大名行列のお人形が飾ってあって、将軍は行列の真ん中あたりにいることが分かった。馬とかごの両方があった。また実際に使った長持ちが展示してあったが、これには衣装を主に入れているらしい。いつもきちんとした格好をしているわけではなく、普段着で歩いている時もあるらしい。お湯を沸かすやかんやご飯を入れるおひつもあった。でも戦では相手の武将の首を持って帰る入れ物になることもあると言っていた。
関ヶ原の戦いの資料も展示してあったので、貼り付けておく。
掛川城を出て、大池橋まで歩いて、安藤広重の浮世絵の場所を見て、また、掛川駅まで戻り、遅いお昼、桜えびのかき揚げそばを食べた。
掛川駅から豊田町駅に電車で行き、そこから天竜川を船でわたっている広重の浮世絵の場所へと行く。河川敷が広くて、ほんとに川の方に行けるのか、橋は渡れるのか心配しながら歩いたが、なんとかクリアできた。きれいな夕日も見ることができたし、広重もこの川岸で船が渡すのを見ていたのだろうと考えにふけることもできた。
長い橋を渡りながら、下の川を見たら、流れが速く渦を巻いていた。川幅が狭くなっている今でさえそうなのだから、昔はあんな華奢な船だから、命懸けだったところもあるのではないかと思われた。
天竜駅まで歩き、そこからはホテルの予約を取っている浜松駅まで電車で向かう。
ホテルといえば、千ちゃんがいつも予約をしてくれるのだが、また、一日間違え事件があったのだ。朝、余裕を持って駅についてコーヒーを飲んでいて何気なく、ホテルの予約表を確認したら、明日の日にちになっていたという。慌てて連絡して事なきを得たということを朝、顔を合わせるなり教えてくれたっけ。二人して、時間に余裕を持って行うとこういうことも訂正できるねと確認した次第である。よかった。よかった。だが、きっともう一回はあると思う。
あまりお腹がすいていないので、確か掛川城に行く前に、駅の観光案内所に行っていろいろなパンフレットをもらい、近くのお店にメロンパンが美味しそうに並んでいたので、また名物だというんで、食したし、桜えびのかき揚げそばもボリューム感があったし、お抹茶についていた和菓子も食べたのであまりお腹がすいていなかったのだ。なので、この日の夕飯は、コンビニでおにぎりやサンドイッチやサワーを買って軽くすました。板東英二が出ていない、私の好きな番組の一つである「世界ふしぎ発見」を見ながら食べたが、二人とも疲れたのか、目がトロリンとしてきた。早めに床に入る。
2日目。朝はゆっくりと待ち合わせて、朝食のバイキングに行く。バラエティ豊かな食材で、美味しかった。お決まりのように少しずつ全種類を食べてきた。ただ、ゆで卵は前回のホテルの方が美味しかったかな。
運がいいことにこの2日間は、ウオーキングには絶好の日和であったが、次の日はあの大雪である。天は我らに味方したと胸の中で叫んだ。
今年初めの歴史探訪は、家康が掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻撃仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が、城をすっぽりと覆い隠し、攻撃できなかったという伝説が残っている、別名「雲霧城」と呼ばれている掛川城と家康が天下統一を果たしたことや歴代のこの浜松城主になった大名が重職である大阪城代や京都所司代・寺社奉行等に登用され、「はま松は、出世城なり、初松魚」とうたわれている浜松城に主に行く。
また、今回から、安藤広重が東海道53次の浮世絵を描いた場所を探して行ってみようと、計画時に話し合った。全部は難しいが、掛川の大池橋のところと天竜川の川越のところと浜松の馬込橋から浜松城や三方ヶ原を望んでいるところの3箇所に行ってみた。ほとんど面影を残していなかったが、唯一天竜川は、昔もこうして流れていたのだろう。川幅の長く、流れが速そうな、昔「あばれ天竜」といわれていたのがわかる風情であった。
では、順を追って、詳しく残しておこう。
今回はリッチに新幹線で、掛川まで行ってしまう。新横浜から約1時間30分で掛川に到着。富士山を見るために進行方向の右側に座り、見事な勇姿を拝むことができた。
まずは、掛川城である。
実は前回、掛川まで来て夕方になってしまって中には入れなかったが、今回はじっくり中に入って見ることができたし、スタッフの方にたくさん説明を聞くこともできた。
それに、将棋の対戦がこの城内の二の丸茶室であるということで、この日は特別に二の丸にある御殿(城主の公邸・藩の役所・江戸時代後期に再建された建物、日本に数箇所しか残っていない、そのひとつが川越城の御殿・重要文化財)でお茶が飲むこともできた。
いろいろなラッキーが重なった。
長い急な階段を上ると、掛川城入口につく。まず、そこにある井戸のところで、スタッフの方が、「雲霧場」の由来を話してくれた。
それにこの掛川城は復元した城で、昔と同じ位置に当時と同じように木造で建てられており、石垣も残っている。こういう条件を満たしたものだけが復元した城ということができるという。掛川城は日本の中でも珍しい城の一つであるとされる。
細君千代の内助の功で知られている山内一豊は、長浜城からこの掛川城に移り、関ヶ原の戦いの功績で高知城に移るまでの10年間、この城に住んで、天守閣や御殿を造ったとされる。また、高知城に行った時にも、この掛川城と同じものを造らせたという。高知には掛川町という地名があると言っていたが・・・
城の壁に鋭い棒が何本も出ている。これはしのびがえし(忍者返し)といって、忍びを入らせないためのものだる。
余談だが、山内一豊がこの掛川城に移ってきたのは、秀吉が小田原攻めで後北条を破た時、今まで北条が持っていた領土を家康に渡し、東に移らせた。家康が今まで持っていた土地は、それは浜松城にいた時に領土を拡大して持っていた駿河や遠江等の土地なのだが、秀吉に献上したという。そして、秀吉は有力な武将たちに掛川城は山内一豊に家康対策として城に入らせ守らせたということらしい。
また、関ヶ原の功績というのは、掛川城から10キロ位東に行ったところに久延寺(きゅうえんじ)という山寺がある。そこは関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉攻めの軍を大阪より進めてきた家康をもてなしたとされる。小山会議で、関ヶ原合戦を決めた家康が、東から東海道を西に戻ってくるときにも、露払い的な役割を行い、思ったよりも早く関が原に到着させたという。
細君千代は、ほんとできる人であったらしい。裁縫に長けていて、秀吉が聚楽邸に上がる時の着物を頼まれて縫って差し上げたとか節約を旨として、まな板がわりにおひつをひっくり返して使ったとかへそくり上手で夫に天下一品の馬を買ってあげたとか逸話がたくさんあった。
掛川城の内部の写真を貼り付けておく。
次に、御殿でお茶を飲もうということで行く。お茶を飲んでゆっくりしていると、さっきのスタッフの方がこちらに来られた、ずいぶん長くいたと感心して、またいろいろなことを教えてくださった。
武士の身分によって入れる場所がずいぶんと違うということがわかった。下っ端は中にさえ入れずに、土間で今日の仕事を聞いて、仕事に向かう。
また、お殿様がかごに乗って玄関に横付けされると、ドアが開く前に家来たちは中のところに並んでお迎えしなくてはならないから入口がいくつもあった。
畳を歩くときは、ふちは踏んではいけない。それは下から刀を刺すと、畳のところは突き抜けるが、ふちのところは固くて突き抜けない。だから私はあなたを信頼していますよという証で、畳のところを歩くのだという。
殿様や身分の上の方の方に謁見するときは、刀は右に置く。左に指すから左に置くとすぐ刀を抜くことができるから。
大名行列のお人形が飾ってあって、将軍は行列の真ん中あたりにいることが分かった。馬とかごの両方があった。また実際に使った長持ちが展示してあったが、これには衣装を主に入れているらしい。いつもきちんとした格好をしているわけではなく、普段着で歩いている時もあるらしい。お湯を沸かすやかんやご飯を入れるおひつもあった。でも戦では相手の武将の首を持って帰る入れ物になることもあると言っていた。
関ヶ原の戦いの資料も展示してあったので、貼り付けておく。
掛川城を出て、大池橋まで歩いて、安藤広重の浮世絵の場所を見て、また、掛川駅まで戻り、遅いお昼、桜えびのかき揚げそばを食べた。
掛川駅から豊田町駅に電車で行き、そこから天竜川を船でわたっている広重の浮世絵の場所へと行く。河川敷が広くて、ほんとに川の方に行けるのか、橋は渡れるのか心配しながら歩いたが、なんとかクリアできた。きれいな夕日も見ることができたし、広重もこの川岸で船が渡すのを見ていたのだろうと考えにふけることもできた。
長い橋を渡りながら、下の川を見たら、流れが速く渦を巻いていた。川幅が狭くなっている今でさえそうなのだから、昔はあんな華奢な船だから、命懸けだったところもあるのではないかと思われた。
天竜駅まで歩き、そこからはホテルの予約を取っている浜松駅まで電車で向かう。
ホテルといえば、千ちゃんがいつも予約をしてくれるのだが、また、一日間違え事件があったのだ。朝、余裕を持って駅についてコーヒーを飲んでいて何気なく、ホテルの予約表を確認したら、明日の日にちになっていたという。慌てて連絡して事なきを得たということを朝、顔を合わせるなり教えてくれたっけ。二人して、時間に余裕を持って行うとこういうことも訂正できるねと確認した次第である。よかった。よかった。だが、きっともう一回はあると思う。
あまりお腹がすいていないので、確か掛川城に行く前に、駅の観光案内所に行っていろいろなパンフレットをもらい、近くのお店にメロンパンが美味しそうに並んでいたので、また名物だというんで、食したし、桜えびのかき揚げそばもボリューム感があったし、お抹茶についていた和菓子も食べたのであまりお腹がすいていなかったのだ。なので、この日の夕飯は、コンビニでおにぎりやサンドイッチやサワーを買って軽くすました。板東英二が出ていない、私の好きな番組の一つである「世界ふしぎ発見」を見ながら食べたが、二人とも疲れたのか、目がトロリンとしてきた。早めに床に入る。
2日目。朝はゆっくりと待ち合わせて、朝食のバイキングに行く。バラエティ豊かな食材で、美味しかった。お決まりのように少しずつ全種類を食べてきた。ただ、ゆで卵は前回のホテルの方が美味しかったかな。
ワクワクさんのお友達先生にも会っていて、
歴史散策仲間だという話を聞きました。
お城というと、こないださいたまから友達がきて、
岡山市を案内しました。
たまたま歴史に詳しいおじさんがいて、
お城の話をしてくれました。
岡山城は烏城といわれていますが、
城は譜代大名、黒は外様大名の城と
おおざっぱにわかれているといってました。
掛川城が、徳川の仲間、白。
といえども、私は黒いお城が好き。
このへんでいうと、山陰松江の松江城なんていいですよ。
それから、長野の松本城も趣あります。
またちょこっと訪れますね。
こちらは、たぶっちゃんの岡山ライフの様子です。
ではでは~
今から淵野辺へ・・・・
ワクワクさんのお友達先生にも会っていて、
歴史散策仲間だという話を聞きました。
お城というと、こないださいたまから友達がきて、
岡山市を案内しました。
たまたま歴史に詳しいおじさんがいて、
お城の話をしてくれました。
岡山城は烏城といわれていますが、
城は譜代大名、黒は外様大名の城と
おおざっぱにわかれているといってました。
掛川城が、徳川の仲間、白。
といえども、私は黒いお城が好き。
このへんでいうと、山陰松江の松江城なんていいですよ。
それから、長野の松本城も趣あります。
またちょこっと訪れますね。
こちらは、たぶっちゃんの岡山ライフの様子です。
ではでは~
今から淵野辺へ・・・・
たびたび失礼します。
家康を慕う「白」の城は
譜代大名が多い・・・
外様大名は黒の城。
さきほどのコメントを読み直して、間違いがあったので
訂正します。
またおじゃまします