理周は余呉にいる。
小さな浮御堂が余呉湖の端にたたずんでいる。
山は四方をかこみ、
大きな湖の北に位置する余呉湖をつつみかくしている。
琵琶の湖にくらぶれば、水溜りほどに小さな余呉湖を知るものは少ない。
清閑と水をたたえている湖は山の藍翠を映しこんで、漣さえ立てない。
時折、通り過ぎる一迅の風が湖面に銀色の皴をつくり、
なだらかなみどりを深くのみこむと、
静まり返った水面は一層藍が濃くなった。
「母上をここにおつれもうそうとおもっておる」
羅漢寺にいる賢壬尼は薬師丸の母親である。
「ここに?」
あまりにひっそりとしすぎておりはすまいか?
横笛の手を休めた理周は、怪訝そうに薬師丸を見た。
「京の都も殺伐としすぎていて、母上にはかなしそうだ」
きいたことがある。
京の都には子を喰らう鬼女があらわれると。
むろん。もともと、女は鬼ではない。
子供を山犬に食われたのが、元で女の気がふれた。
どこをどう、かくれるのか、鬼女をとらまえる事が出来ぬまま、
幾人の母親が、戻る事ない命に涙をからし果てた。
「羅漢の里でも・・・子を食われた」
「それで?」
悲しい菩提を供養するつもりだったのか?
鬼女の心をなだめたかったのか。
法要を象った式典がとりおこなわれた。
賢壬尼の心を慰める前に、この地に清浄を落とす。
賢壬尼が悲しい心残りをここで祈ってやる前に、
敷き詰める禊が雅楽奉納であった。
「そうなのですか」
賢壬尼は薬師丸の母であるが、
薬師丸をうみおとしたのは、本妻である琴音より随分先のことであった。
今、理周も賢壬尼と同じ運命を歩むかもしれない岐路に立っている。
判っていても、親子は同じ過ちをくりかえすものなのだ。
同じ過ちをくりかえして、
薬師丸は父の思いを、母の思いを解するしかないのかもしれない。
賢壬尼の立場はすでにお方さまであった。
あとから定められた婚儀の席に座った琴音が
賢壬尼という存在を知るわけもない。
むろん、そのときには賢壬尼はまだ賢壬尼ではない。
蓬(よもぎ)とよばれていたときく。
薬師丸の父の心を占めていた女性は、
また、実質上も、既に本妻の遇をえていた。
苦しんだのは琴音である。
が、もっと苦しんだのが蓬だった。
同じ女子。ゆえに女子の幸せがわかる。
この立場が逆であったら、どうであったろうか?
心一つで嫁いできた男に渡すものがない。
男が受取らぬ心を抱いて妻という名の傀儡に徹する苦しみは
いかほどであったことだろう。
蓬は、出家を決めた。
身をひいて、尼になり、薬師丸の父のさいわいだけを祈る。
この事が、長浜の人心を打った。
己のさいわいだけを祈る輩(やから)の多い中、
己の身を捨てた蓬は袈裟御前さながらとまで謳われた。
琴音こそが深く頭を垂れた。
母をなくし、残された薬師丸を嫡男とする。
これにあたわざることのなきよう。
心に念じこんだ。
やがて、蓬は名を賢壬尼とあらため、
薬師丸の元服を見届けると京の羅漢寺に身を移した。
それから十年余。
賢壬尼の京のすさびをおもう心痛があわれで、
薬師丸は居を移すように何度か言葉をかけた。
「余呉になら・・」
若き日に薬師丸の父に話された小さな湖が目に浮かんだ。
二人でひっそりといきるなら、余呉の湖さながら、
山々が二人をかくしおおしてくれるだろう。
成らぬ夢をそっと、口の端(は)にのせた薬師丸の父に
由縁の地であった。
「理周はもう何年になる?」
雅楽の席に座る幼い少女の横笛の音が澄んでいる。
横笛だけかと思った少女は次々と楽器を習得していったが、
相変わらず薬師丸は理周を呼んでは笛を確かめる。
寂しい笛の音が薬師丸の心に染み入ると
不思議な想いにとらわれた。
少女を笛の音ごと抱きとめてしまいたい。
幼いと言うべき頃からの理周をしっている。
この寂しさはなぜだろう?
そして、この寂しさに心が揺り動かされるのは何故だろう?
薬師丸藤堂戒実。
母の悲しみを知っている。
繰り返しては成らない過ちを戒める。
心を追っては成らない。
父の失態をくりかえしてはならない。
少女の寂しさを抱きとめては成らない。
抱きとめられない薬師丸ほど悲しい者はない。
寂しい笛の音は薬師丸の心に沈みこむように流れ出した。
諦めているはずの心がもたげてくる。
何度、煩悶を繰り返した事だろう。
「その寂しさごと渡しなさい」
口にだしかけた言葉を何度のみこんだことであろう。
繰り返しては成らない過ちを、
心のまに歩もうと薬師丸に決めさせたのは理周である。
「理周は父上にあってみたくはないのか?」
何度か理周に合ううちに、理周が抱えている生活もしった。
薬師丸に問われるままに母の死を、
寺の隅に一人で住みだした事も理周は話した。
薬師丸にふっと湧いた思いが、
薬師丸の底にある理周への恋慕を己が目にあからさまにさせた。
もし、理周の父の身分がわが事とつりあう者であれば、
理周を妻にむかえられるのではないか?
理周の答えは甲斐がなかった。
父は雅楽師であろうという答えは
薬師丸の心を実にむすぶものでなかった。
が、一旦見知った己の心を欺けるわけがない。
理周が欲しい。
理周に己の心を与え尽くしたい。
これが心を包む一巻。
たった一つしかない心をさらけ出せずに、薬師丸はさらに思い悩んだ。
何をしてやれる?
母のように、理周をお方様にしてみたところで、
理周がたどり着くところはやはり寂しさなのだ。
この物狂おしさは父の血がわかすのか?
恋慕の果てに父から受け継がれた血を疎みもした。
だが、賢壬尼は余呉になら行くといった。
賢壬尼の中には変わらず父を恋う想いがある。
母はそれだけでしあわせだったのではないだろうか?
ならば、もし理周がこの薬師丸をのぞむなら、
それはそれで、かまわないことであるはずだ。
理周の想いにかける。
何もかもを理周にゆだねよう。
そう決めると暗澹とした心が初めて晴れた。
「理周は・・・嫁にゆかぬのか?」
そろりと薬師丸の心がうごきだした。
余呉の湖(うみ)は静かな暗闇の中に在る。
湖のほとりの一夜の宿は大きな庄屋の家である。
理周の笛の音が途絶える事を仲間達は祈っていたのか?
それとも、途絶えぬことを祈っていたのか。
理周の笛の音は暗い湖面を渡り、水面(みなも)にただよいつづける。
笛の音はものうく。
夜の闇が深さを増してゆくだけだった。
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