ちょいと、早すぎる刻限だとおもいながら、女将は白銀町まで足をのばした。
どうせ、まゆつば。
酔客の戯言をまにうけるなんざ、いかに商いなれしてないか、
自分のおぼこさぶりをまんまみせつけられるだけになるだろうと思いはする。
だけど、ひょっとして、ひょっとすると、本当に白銀町の大橋屋の隠居なるものかもしれない。
ちょいと、眉のつばがかわかないうちに、
ほんのちょっと、たしかめてみたって、かまわないじゃないかとも思う。
だから、無駄足にならないために、店の仕入れに足をのばすだけにした。
そうすりゃ、酔客のたわごとだったとしても、たばかれた気分をあじあわずにはすもう。
そんな理由で女将は朝早くから、白銀町の乾物屋をのぞきこんでいる。
「大橋屋?なんだい?ご隠居をたずねなさるのか」
乾物屋の親父は一元の客にも愛想がよい。
「いえ、そうじゃないんですよ。ちょっと、うちの店にきてくださったときに大橋屋の隠居だってご自分でおっしゃっていたものだから・・・」
「ああ。たいそうなかまえになって、さあ、これからだってのに、あっさり、息子に身上をゆずっちまって、隠居でございって、裏にすっこんじまってから、盆栽いじりとちょいと散歩がてらに酒をのむくらいになっちまったんだよなあ。その散歩のあて先があんたのとこだってことだったんだなあ」
どうやら、大橋屋の隠居というのは、実在する老人であるようだ。
だが、それが、女将の店にあらわれた男と同じ人間かどうかはあって、この目でたしかめてみるしかない。
「じゃあ、その松前するめを一束、もらっていこうかねえ」
「おお、こりゃあ、上物だよ。いい具合に白粉もふいてる」
袂から風呂敷をひっぱりだして、松前するめを一束つつみこむと、女将は何気ないふうにたずねあわせてみる。
「じゃあ、話ついでにそのりっぱなかまえの大橋屋をおがんでいこうかねえ。どこらへんにあるもんだろう?」
「ああ、もう、一町もあるけばすぐ右手にみえてくる。看板がな、大の字を板の端にほりこんであるよ。それで、おお、はし。ってしゃれてるんだ」
そうかいと礼をいって乾物屋をあとにする女将の胸のうちはかすかにうきたっている。
乾物屋の親父の口ぶりだと少なくとも、悪い人間じゃなさそうに思える。
これで、店にきた男が隠居でございであれば、道がひらけるかもしれない。
だけど、あんまり期待しちゃいけない。
はずんだぶんだけ、きおちってのはおおきくなる。
おそらく酔客の戯言。
それを確かめに行くだけ。
心にねんじながら、歩む女将の目に乾物屋の言った大の字の看板がみえてきていた。
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