以前、「旧 神岡鉄道」の関係でついでに行った「野麦峠」ですが、その時はそのまま長野県側へ引き返しました。
しかし、その記事の最後に『「野麦峠」についてはまた行きたいと思います。今度は鉄道ネタから離れてですが・・・』・・・とあるように、今回は「あゞ、野麦峠」の舞台を訪ねました。
(当然、鉄道はありませんので車です。リッター180円台・・・高い!!でもこのままだと200円は確実なので・・・orz)
(当然、鉄道はありませんので車です。リッター180円台・・・高い!!でもこのままだと200円は確実なので・・・orz)
前回は、「旧神岡鉄道」を訪ねる関係で富山県から入りましたが、今回は長野県から入りました。
長野市→白馬村・・・・→松本市へ着きました。広域合併したので、野麦峠まで松本市です。
だいぶ遠回りしましたが・・・やっと「野麦街道」へ着きました。(左右の道がそれです)↓
この左側へ曲がります。
この左側へ曲がります。
しばらく行くと「旧 野麦街道(長野県史跡)」へ着きました↓
ここから野麦峠までの区間が当時のまま残っていました。
ここから野麦峠までの区間が当時のまま残っていました。
「旧 野麦街道」の説明がある看板です↓
この1300mの区間が、当時の面影を残しているのですね。
この1300mの区間が、当時の面影を残しているのですね。
隣には「あゞ、野麦峠」の一部分が載っている碑があります↓
この超ビンボケ写真・・お約束ですね・・(もう、あほかと・・・orz)
この超ビンボケ写真・・お約束ですね・・(もう、あほかと・・・orz)
さらに進むとこの看板が・・・↓
そして、車のナビを見てみたら・・・↓
距離的にはもうすぐ「野麦峠」です。
距離的にはもうすぐ「野麦峠」です。
「野麦峠」に到着しました。ここから「岐阜県高山市」になります↓
ここまでは「長野県松本市」でした。(双方とも『平成の大合併』でこのようになった)
ここまでは「長野県松本市」でした。(双方とも『平成の大合併』でこのようになった)
「野麦県立自然公園」とあります↓
ここから見る山の風景はきれいです。(乗鞍岳ではないようです)
ここから見る山の風景はきれいです。(乗鞍岳ではないようです)
ここで亡くなった「政井みね」さんとそのみねさんを背負う兄・辰次郎さんの像です↓
二人の像のアップです↓
「ああ、飛騨が見える」それがみねさんの最後の言葉でした。
(実際は、この峠から見えた野麦集落を見ての言葉だったとの事)
「ああ、飛騨が見える」それがみねさんの最後の言葉でした。
(実際は、この峠から見えた野麦集落を見ての言葉だったとの事)
この像の紹介なのでしょうか?(文字が消えかかっているので、わからない)↓
さて、ここに「峠の森」と言う看板を見つけました↓
さらに、前回での断念地点です。(ちなみに「みねの墓」とありますが、『碑』の誤りです)↓
ここで引き返したんだな・・・・
ここで引き返したんだな・・・・
しかし!!ここはやはり、「飛騨が見たい!!」との思いにかられ、展望台まで行く事に・・・
この急な石段を登ります↓
結構、登りましたが・・・まだ何も見えない・・・疲れた・・・orz
結構、登りましたが・・・まだ何も見えない・・・疲れた・・・orz
ついに、展望台へ・・・↓
休憩所と菩薩様でしょうか?
休憩所と菩薩様でしょうか?
その菩薩様です↓
みねさんだけではなく、この峠で命を落とした人たちへのメッセージでしょうか?
みねさんだけではなく、この峠で命を落とした人たちへのメッセージでしょうか?
また「峠の森」の看板です↓
近くに「政井みねさんの碑」がありました↓
これがそうです。
これがそうです。
一応、ズームにして撮影しましたが、文字が削れて読めませんでした↓
これも読めません。
これも読めません。
この碑について調べて見ました。
なんとこの碑の後ろには「贈 吉永小百合」と記されているとの事でした。(実際、確認できませんでした。風化してしまったのでしょうか?)
当初『あゝ野麦峠』の映画化は日活が早々と企画して、主人公のみね役にあの「吉永小百合」さんでした。しかも彼女自身、下見にこの地に足を運んだとの事でした。(結構、意気込みを感じていたのですね。今の女優にないものを持っていたのでしょう)
しかし、日活の企画はさまざまな理由(くわしくはよくわかりませんでした)で流れて吉永小百合主演は実現ませんでした。その記念に彼女がこの碑の資金を贈り、岐阜県の村がこの碑を建てたのだという。碑には昭和四十五年五月の日付けがあります。(兄・辰次郎さんも承諾したとの事)
なんとこの碑の後ろには「贈 吉永小百合」と記されているとの事でした。(実際、確認できませんでした。風化してしまったのでしょうか?)
当初『あゝ野麦峠』の映画化は日活が早々と企画して、主人公のみね役にあの「吉永小百合」さんでした。しかも彼女自身、下見にこの地に足を運んだとの事でした。(結構、意気込みを感じていたのですね。今の女優にないものを持っていたのでしょう)
しかし、日活の企画はさまざまな理由(くわしくはよくわかりませんでした)で流れて吉永小百合主演は実現ませんでした。その記念に彼女がこの碑の資金を贈り、岐阜県の村がこの碑を建てたのだという。碑には昭和四十五年五月の日付けがあります。(兄・辰次郎さんも承諾したとの事)
それから9年後の昭和54年に大竹しのぶ主演で映画『あゝ野麦峠』(製作:新日本映画)が公開されました。(なお、2008年現在もDVDはおろか、ビデオ化もされていません。版権などの問題が複雑にからんでいるのでしょうか?ぜひ、見てみたいですね)
話を戻しましょう。
近くに「合掌燈籠」がありました↓
実際、わかりずらい場所にありました。
実際、わかりずらい場所にありました。
自分は、てっきり「みねさん」が亡くなったのがここだと思って、ここから野麦集落を見ようとしましたが・・・↓
あぁ、飛騨が見え・・・ない!? あれ? |
実は、インターネットで調べて見ると「野麦峠」で亡くなったみねさんについてですが、「野麦峠」のどこで亡くなったのか?についていろんな説があるみたいです。
①「みねさんの碑」のあたり→実際、草木でそこからは見る事はできませんでした。
(もしかしたら、当時は整備されていて見る事ができたのかも?)
②現在の峠の近くにある「水準点」のあたり→場所的にはひらけていますが、①よりもなおさら見えないです。
③岐阜県側に進んだ「旧 野麦街道」(自動車進入不可)の途中にある地蔵堂付近
→今現在、そこからは見る事ができます。(しかし、峠の頂上よりはだいぶ下がったところですが)
(もしかしたら、当時は整備されていて見る事ができたのかも?)
②現在の峠の近くにある「水準点」のあたり→場所的にはひらけていますが、①よりもなおさら見えないです。
③岐阜県側に進んだ「旧 野麦街道」(自動車進入不可)の途中にある地蔵堂付近
→今現在、そこからは見る事ができます。(しかし、峠の頂上よりはだいぶ下がったところですが)
・・・時間があったら、調べてみます。
ここで断念し、引き返しました。途中で・・・↓
平成の大合併の前は「高根村」でした。(現:高山市)
平成の大合併の前は「高根村」でした。(現:高山市)
みねさんが亡くなったあと、兄の辰次郎さんは夜中に人目を避けるように「仏」となったみねさんを担いで故郷の河合村角川集落へ向かいます。(昼間は、納屋などを借りて、みねさんを置かして貰ったらしいとの事でした)
次からは兄がみねさんを担いで、故郷へつれて帰った足跡をたどっていきます。
(最終的には、みねさんが眠るお墓までいきます)
(最終的には、みねさんが眠るお墓までいきます)
とりあえず「その2・野麦峠を降りて」に続きます。それでは・・・
Written by トンマノマント |
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