<以下の記事を復刻します。テレビ局時代の思い出>
今やテレビなどでは「気象予報士」が“花盛り”である。若い女性から初老のオジサンまで毎日、天気予報を伝えている。中には気象予報の“花形”みたいな人もおり、注目を集めている。大いに結構なことだ。
この「気象予報士」というのは今から20年以上前に誕生したが、当時は“天気予報の自由化”と言われ、気象の民間業務がようやく拡大しようとしていた。その頃、私は某テレビ局に勤めていたが、できれば自前の「気象会社」をつくれないものかと考えるようになった。もともと天気予報が好きだったのである。
幸い、テレビ局というのは何でもやろうという所なので、フラワーショップでも美術館でも、また“サーカス”やオリエンタル急行を走らせることまでやっていた。要するに、放送外収入でもうければ良いのである(笑)。そんなこともあって、総合開発局の上司はこころよく私の考えを了承してくれた。
それから私は八方手を尽くしていろいろ調べ、気象会社設立へ向けて進んでいった。ウェザーニューズなど既存の会社を見学したり、電通などとも協議を重ねた。ウェザーニューズは今や世界最大の民間気象会社になっているが、当時はたしか“ピンポイント予報”を売り出して注目されていたと思う。
こうして気象会社に取り組んでいったが、私の“夢”は全国のコンビニエンス・ストアに天気予報の端末を設置することであった。そのための気象会社であり、十分に成算はあると思っていた。そして、いろいろ戦略を練ったあと、「電通」とも打ち合わせた上で新会社設立企画書を局の部長会に提示した。
ところが、部長会ではゴーサインが出なかったのである。企画に無理があると思われたのか、金がかかりすぎると見られたのか、認められなかった。私は社内対策をおろそかにしていたのだろう。社外とばかり協議を重ね、社内の説得や根回しを十分にしていなかったのだ。このあと、私は内々に説得工作を進めたが、反応は良いものではなかった。
しかし、気象会社設立は私の夢であり、必ず時代のニーズに応えるものと思って粘ったが、そのうち電通など外部の反応も冷淡になった。やがて私も諦めムードになり、会社設立の話は立ち消えになったのである。いま考えると自分に力がなかったわけで、惜しいチャンスを逃したと思う。ちょうどその頃、テレビ新局づくり(山形と高知)の話が持ち上がり、私はそれに夢中になっていった。
今や民間の気象予報は花盛りと言っても良いだろう。あれから20年あまり、冒頭に述べたように気象予報士が活躍し、いたる所に気象情報があふれている。時代はずいぶん変わったと思うが、もう一度生まれ変わることができるなら、今度こそ気象会社をつくってみたいものだ。見果てぬ夢だが・・・(笑)
最後に、ウェザーニューズの創設者で2010年に亡くなられた故石橋博良(ひろよし)氏の記事を、敬意をもって載せておきたい。⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%8D%9A%E8%89%AF