(以下の記事を復刻します。)
私が好きな「二木紘三のうた物語」の中に『夜霧のしのび逢い』がある。これが素晴らしい演奏なので、いつもうっとりと聴いてしまう。それはいいが、この歌の原曲は『La Playa』(スペイン語で“浜辺”という意味)だそうで、原詩はピエール・バルーというフランス人の歌詞を使っていた。
原詩を調べてみたら、これも『La Plage』というフランス語の“浜辺”がタイトルになっていて、中身は夏の浜辺をバックに愛を歌ったものである。日本語詞の『夜霧のしのび逢い』とは、ずいぶん趣きが違うのだ。
それはいいとして、原詩を追っていったらハッと気がつくことがあった。それは「私たちが愛し合った 美しい日々の跡を 波が消し去る」とでも訳したらいいのか、そういう詩が出てきたのである。(原詩・・・La vague efface l´empreinte des beaux jours de notre amour)
この詩はあの『枯葉』の原詩をすぐに思い起こさせた。 「別れた恋人同士の足跡を 海が砂の上から消し去る」とでも訳すのだろうか、そういう詩である。(原詩・・・La mer efface sur le sable les pas des amants desunis)
二つの原詩は、主語が波と海の違いはあるが状況が非常によく似ている。そこで思い出したのが、パット・ブーンが歌った有名な『砂に書いたラブレター』である。これの原詩も「The tide take our love letters from the sand」とか「Every wave that breaks over love letters in the sand」というもので、要するに「潮や波が、砂に書いたラブレターを消し去る」という意味だろう。
これら3つの歌に共通するのは、主語が波か潮か海かは別にして、浜辺の思い出や足跡、ラブレターなどを消し去っていくのである。日本にも浜辺、海辺を歌った曲は沢山あるが、概して叙景的であったり、あるいは浜辺や海辺での愛、恋を素直に歌うものが多い。
これに対して“欧米人”は、そこに波や潮の動きを絡ませて、足跡やラブレターが消えていくという“動態的要素”を加味させているようだ。
私は、日本人の美的感覚や感性は素晴らしいと思っている。しかし、欧米人の方も、物事を動態的にとらえる感性は見事なものではないか。日本人はどちらかと言うと、物事を静態的・受動的にとらえる傾向があると思うが、欧米人はより動態的・能動的な感性が働くのだろう。
いずれにしろ、以上の3つの歌は、波や潮の動きに絡ませて、消えうせる愛への切ない想いを歌った名曲である。欧米人の感性も見事なものだと思う。
なお、以下に「二木紘三のうた物語」より、3つの名曲を紹介しておきたい。
『夜霧のしのび逢い』・http://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/07/post_2895.html
『枯葉』・・・http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_93da.html
『砂に書いたラブレター』・http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_120a.html