無知の知

ほたるぶくろの日記

目から鱗が落ちた話し

2012-10-07 17:15:16 | 日記

子どもの教育に関することでつい先日はっとしたことがありました。最近10代の子どもたちが自分で人生を終わりにしてしまう事件が続いています。直接の関係はないものの私たち家族の近辺でもありました。子どもの学校や地区の教育委員会ではこれらの出来事への慌ただしい対応があります。小冊子を持って帰ってきたり、アンケートがあったり、臨時保護者会があったり。 

ただ報道やそのような学校の動きを見ながら非常に冷めた気持ちを持っている自分がいます。白々しい、という思い。

いじめのもっともよくあるパターンは

「グループを作って標的人物をいろいろな方法で排除すること」

しかしこれって現代日本のあらゆる年齢層、人間集団で行われていることだと思うのですが。

どの大人がどの口で「そんなことしちゃダメ」て言えるのか。 

とくにこの20年くらい私はこの集団行動パターンを非常に身近に経験し続けています。それ以前、1980年代くらいまではもっと個性や独自性、オリジナリティなどが重要視されたように思います。91年からしばらく私は日本にいなかったのですが、その後帰国して人々の表情の暗さにおどろきました。若い人々は総じて大人しく人々は他人をあれこれ評価したり逆に他人からの評価に常に気を配っていました。自分がどう考えるかよりも自分がどう見られているかに敏感になっていました。さらに個性を表すことを「わがまま」や「空気の読めない人」という表現でその個性を封じ込めたり非人間的な扱いをしているのを見聞きすることも多くなっていました。

さらに最近経済的にも逼迫してきたせいか社会はその傾向をますます強めているように思います。他人を心理的精神的に平気で追いつめる社会。その世の中の雰囲気を子どもたちはキャッチしているのでしょう。

こういう人間の潰し方というのはいつの世にもあるわけですが、もっぱら権力やお金に絡んだ特異な集団での出来事だと思っていました。ですから例えば職場でも幹部クラスや政治の世界などではこういうことが行われてきました。そういう戦いの世界なのですから皆さん覚悟を決めてその世界に生きるわけです。しかし今は家族内まで含め全ての人間社会にこのようなことが浸透してしまった。

確かに昔もそういうことはあったでしょう。小さなある村落で、ある家系で。しかしそれは大変非人間的な酷い話しとして伝えられたはずです。それが今は「当たり前」になってきているのです。これは社会全体の病理ではないかと思っています。

 

そんななか先日教育関係者の友人といじめの問題について少々意見の交換をしました。私が上記のようなことを話しますとその方は「やっぱり子どもをちゃんと教育することが重要」だと主張されました。子どもへのいじめの教育が今の社会では無理なのでは、という話しから始まったのですが「それでも大人を今から再教育はできないが子どもは教育できる」といわれました。

 

確かに。将来の社会は子どもによって作られる。何が人間社会にとって重要なことなのかをたとえ白々しく感じたとしても子どもに教えて行くことが唯一の根本的な解決法なのかもしれません。究極の偽善かもしれませんがあきらめず一生懸命やることが明日をつくるのでしょうね。