マルセル・カルネ監督のデビュー作品、『ジェニイの家』(1936年)を観た。
うら若いダニエルは、付き合っている青年から、彼女の身許を調査したところ芳しくないから婚約を破棄したいと言われる。
そのことに同意したダニエルは、6年ぶりに、ロンドンからパリの母親の許へ帰る。
ダニエルと再会した母親ジェニイは、喜びながらも一抹の不安がついて回る。
それは、取り仕切っているナイト・クラブ「ジェニイの家」が買春も絡んでいるため。
ジェニイは、なんとかダニエルに仕事のことは悟られまいとして・・・
ジェニイには年下の愛人リュシアンがいて、彼に夢中である。
ある夜、こっそりとクラブに訪れたダニエルは、母の仕事内容を知ってしまう。
それと同時に、トラブルに巻き込まれたダニエルは、たまたまリュシアンに助けられる。
恋に落ちるリュシアンとダニエル。
ただ本人たちが知らないことは、
リュシアンにとって、ダニエルはジェニイの娘であるということ。
ダニエルにとっては、リュシアンが母親の愛人であるということ。
そして、ジェニイもふたりの間柄を知らない。
まず、ジェニイ役のフランソワーズ・ロゼーが、中年の女性の情念を湧きたださせて凄い。
そもそもこの映画は、ロゼーの夫ジャック・フェデーがイギリスに招かれて『鎧なき騎士』(1937年)を監督するあいだ、
ロゼーが、自身の主演する作品のためにフェデーの助監督だったカルネを推薦したという。
だから、ロゼーあっての映画。
そのラストのロゼーが、またいい。
人生において、分別もなくがむしゃらに物事を突き進むことは、それはそれでいいとしても、
やはり、中年以降の人間としては、そこをグッと自制して自分が引き下がる。
そこにあるのは、絶望に近い虚無感であり喪失感だとしても、物語の中のジェニイは、それをこらえて、また明日からも生きていこうとする・・・
これは、ひとりの男をめぐる親子の恋愛感情の物語であるが、みえてくるのは、人としての純粋な感情表現の発露そのもの、そのように思う感慨深い作品であった。
うら若いダニエルは、付き合っている青年から、彼女の身許を調査したところ芳しくないから婚約を破棄したいと言われる。
そのことに同意したダニエルは、6年ぶりに、ロンドンからパリの母親の許へ帰る。
ダニエルと再会した母親ジェニイは、喜びながらも一抹の不安がついて回る。
それは、取り仕切っているナイト・クラブ「ジェニイの家」が買春も絡んでいるため。
ジェニイは、なんとかダニエルに仕事のことは悟られまいとして・・・
ジェニイには年下の愛人リュシアンがいて、彼に夢中である。
ある夜、こっそりとクラブに訪れたダニエルは、母の仕事内容を知ってしまう。
それと同時に、トラブルに巻き込まれたダニエルは、たまたまリュシアンに助けられる。
恋に落ちるリュシアンとダニエル。
ただ本人たちが知らないことは、
リュシアンにとって、ダニエルはジェニイの娘であるということ。
ダニエルにとっては、リュシアンが母親の愛人であるということ。
そして、ジェニイもふたりの間柄を知らない。
まず、ジェニイ役のフランソワーズ・ロゼーが、中年の女性の情念を湧きたださせて凄い。
そもそもこの映画は、ロゼーの夫ジャック・フェデーがイギリスに招かれて『鎧なき騎士』(1937年)を監督するあいだ、
ロゼーが、自身の主演する作品のためにフェデーの助監督だったカルネを推薦したという。
だから、ロゼーあっての映画。
そのラストのロゼーが、またいい。
人生において、分別もなくがむしゃらに物事を突き進むことは、それはそれでいいとしても、
やはり、中年以降の人間としては、そこをグッと自制して自分が引き下がる。
そこにあるのは、絶望に近い虚無感であり喪失感だとしても、物語の中のジェニイは、それをこらえて、また明日からも生きていこうとする・・・
これは、ひとりの男をめぐる親子の恋愛感情の物語であるが、みえてくるのは、人としての純粋な感情表現の発露そのもの、そのように思う感慨深い作品であった。
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