『君と行く路』(成瀬巳喜男監督、1936年)を観た。
鎌倉の海岸にある別荘地に、天沼朝次と弟夕次、それに母親の加代が住んでいる。
朝次は会社勤め、夕次はまだ大学生である。
芸者上がりの妾だった加代は、亡くなった旦那からこの別荘を貰い受け、財産もあった。
すぐ近くの別荘には尾上家が住んでいて、その家族に娘の霞がいた。
朝次と霞は、相思相愛の仲であった。
だが最近、凋落ぎみの尾上家ではその危機を救うために、霞を北海道の資産家の老人に嫁がせようと考えていた。
しかし霞としては、一緒になる相手は朝次のほか眼中になかった。
そうは言っても尾上家では、妾の子とは一緒にさせられない、と朝次を相手にせず、そのため彼は霞との結婚を諦めていた。
そんな時、霞の友人呉津紀子が東京から、朝次から霞宛ての手紙を持って、電車で尾上家にやって来る。
たまたまその電車に乗り合わせていた夕次は、清楚な感じの津紀子を目にして一目惚れしてしまう。
家で監視状態の霞を、津紀子は手引きをして連れ出す。
久しぶりに会った朝次と霞は、夜の海岸を散歩しながら話す。
「僕は自信がなくなってしまった。僕は妾の子なんだ」
「私のお母さんだって酌婦だったわ、そんなことどうだっていいじゃないの」
「でも、正式な奥様になってるじゃないか。形式ってとっても大切なんだよ」
「ふたりが一緒になれなかった時の約束、忘れちゃったの」
「忘れやしないよ、ただ僕が死ぬ時は独りで死ぬんだ。誰にも知られない所で」
「じゃあいいわ、あたしも独りで死ぬから」
尾上家に霞の相手が結納に訪れる日。
尾上家の執事が朝次の家へやって来る。
執事は、「これをお返しするよう言いつかりました。そして、霞さまの手紙がありましたらお返しくださいますか」と、
朝次から霞に宛てた手紙の束を差しだす。
その手紙を受け取った朝次は、引き出しの中から霞の手紙を取りだして破り捨て、暖炉の火の中へ放り込んだ。
その日、霞は訪ねてきた津紀子に、朝次のもとに届けてほしいと手紙を託す。
訪問の津紀子に応対した夕次は、電車の中で見初めたその人が、霞の親友だったことを知り喜ぶ。
手紙を読んだ朝次は津紀子に、「弟の夕次とお付き合いしていただけませんか」と問い、彼女も同意する。
そして返事を催促する津紀子に、朝次は「返事はあなたがご覧になったとおりを言ってくださればいい」
「その前に、ちょっと出かけてきます」と、夕次と津紀子を残して出て行く。
その後、突然の電話で、朝次の自動車事故が知らされる。
そして数日後、家の者の目を盗んで津紀子の家を訪れた霞は、そこから出たあとの姿が見えなくなってしまう・・・
当然、朝次に自殺らしき事故があれば、それに関わる当事者たちはショックを受け、うろたえたり動転するはずと思うが、
この作品は肝心のクライマックスで、クライマックスとならず単なる物語として、すんなり進んで行ってしまう。
朝次の事故を知った霞も、どのような動揺があったか示されずに死んでしまう。
要は、ストーリーの結末が決まっているからそれに乗っかって死に、だから因習はむごいと言われても説得力がない。
折角いい情緒ある雰囲気の作品なのに、そこが残念だった。
しかし、冒頭から流れるテーマ曲のフランティシェク・ドルドラの『思い出』(スーベニール)。
【YouTubeより】
いつ頃からどのように馴染んだかは記憶にないけれど、この曲を聴いて懐かしさがこみ上げて来る。
それだけでも、儲けものをしたとこの作品に感謝をする。
鎌倉の海岸にある別荘地に、天沼朝次と弟夕次、それに母親の加代が住んでいる。
朝次は会社勤め、夕次はまだ大学生である。
芸者上がりの妾だった加代は、亡くなった旦那からこの別荘を貰い受け、財産もあった。
すぐ近くの別荘には尾上家が住んでいて、その家族に娘の霞がいた。
朝次と霞は、相思相愛の仲であった。
だが最近、凋落ぎみの尾上家ではその危機を救うために、霞を北海道の資産家の老人に嫁がせようと考えていた。
しかし霞としては、一緒になる相手は朝次のほか眼中になかった。
そうは言っても尾上家では、妾の子とは一緒にさせられない、と朝次を相手にせず、そのため彼は霞との結婚を諦めていた。
そんな時、霞の友人呉津紀子が東京から、朝次から霞宛ての手紙を持って、電車で尾上家にやって来る。
たまたまその電車に乗り合わせていた夕次は、清楚な感じの津紀子を目にして一目惚れしてしまう。
家で監視状態の霞を、津紀子は手引きをして連れ出す。
久しぶりに会った朝次と霞は、夜の海岸を散歩しながら話す。
「僕は自信がなくなってしまった。僕は妾の子なんだ」
「私のお母さんだって酌婦だったわ、そんなことどうだっていいじゃないの」
「でも、正式な奥様になってるじゃないか。形式ってとっても大切なんだよ」
「ふたりが一緒になれなかった時の約束、忘れちゃったの」
「忘れやしないよ、ただ僕が死ぬ時は独りで死ぬんだ。誰にも知られない所で」
「じゃあいいわ、あたしも独りで死ぬから」
尾上家に霞の相手が結納に訪れる日。
尾上家の執事が朝次の家へやって来る。
執事は、「これをお返しするよう言いつかりました。そして、霞さまの手紙がありましたらお返しくださいますか」と、
朝次から霞に宛てた手紙の束を差しだす。
その手紙を受け取った朝次は、引き出しの中から霞の手紙を取りだして破り捨て、暖炉の火の中へ放り込んだ。
その日、霞は訪ねてきた津紀子に、朝次のもとに届けてほしいと手紙を託す。
訪問の津紀子に応対した夕次は、電車の中で見初めたその人が、霞の親友だったことを知り喜ぶ。
手紙を読んだ朝次は津紀子に、「弟の夕次とお付き合いしていただけませんか」と問い、彼女も同意する。
そして返事を催促する津紀子に、朝次は「返事はあなたがご覧になったとおりを言ってくださればいい」
「その前に、ちょっと出かけてきます」と、夕次と津紀子を残して出て行く。
その後、突然の電話で、朝次の自動車事故が知らされる。
そして数日後、家の者の目を盗んで津紀子の家を訪れた霞は、そこから出たあとの姿が見えなくなってしまう・・・
当然、朝次に自殺らしき事故があれば、それに関わる当事者たちはショックを受け、うろたえたり動転するはずと思うが、
この作品は肝心のクライマックスで、クライマックスとならず単なる物語として、すんなり進んで行ってしまう。
朝次の事故を知った霞も、どのような動揺があったか示されずに死んでしまう。
要は、ストーリーの結末が決まっているからそれに乗っかって死に、だから因習はむごいと言われても説得力がない。
折角いい情緒ある雰囲気の作品なのに、そこが残念だった。
しかし、冒頭から流れるテーマ曲のフランティシェク・ドルドラの『思い出』(スーベニール)。
【YouTubeより】
いつ頃からどのように馴染んだかは記憶にないけれど、この曲を聴いて懐かしさがこみ上げて来る。
それだけでも、儲けものをしたとこの作品に感謝をする。
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