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『雪崩』(成瀬巳喜男監督、1937年)を観た。
富豪の日下家の御曹司、五郎は一目惚れした蕗子と名古屋へ駆け落ちをした。
そして五郎は、名古屋のホテルまで迎えに来させた父親に、蕗子との仲を承諾させる。
五郎には、元々、相思相愛の幼馴染の弥生がいた。
五郎の両親は、病気がちの弟との二人きりの弥生を心配して家族同然に扱い、五郎との間のことも認めていたのだった。
五郎と蕗子は結婚し、駆け落ちから一年が経つ。
五郎は又、弥生への思いが高じてゆき、再び彼女と会うようになる。
そして父親に、「蕗子との結婚は間違いだったから離婚しようと思う」と言うが・・・
父親は、従順な蕗子のことを庇う。
「お前を信じている蕗子を、夫としてその責任を放棄するのか」
でも五郎は言う、「愛情もないのにこのまま生活し続けるのは蕗子のためにも良くなく、嘘の生活は出来ない」と。
父親は、「それは身勝手な言い分で、人間は社会生活をしているのだ」と言う。
弥生と一緒になりたいばかりの五郎は、彼女の弟が静養している鎌倉で密会を重ねる。
弥生はそんな五郎の気持ちに動かされても、「それでは蕗子さんが可哀想」と、彼の考えと必ずしも同じではない。
とうとう父親は五郎に、「自分の真実を貫くつもりなら、親の財力なしでやってみたらどうか」と通告する。
この言葉に、生活力のない五郎は、「嘘の生活を送ります」と折れる。
その後、五郎は蕗子を誘い、駆け落ちをした思い出の地名古屋のホテルに向かう。
蕗子は久し振りの旅行で喜んでいるが、実は五郎としては無理心中するつもりでいる。
その五郎が、時間が経つとともに、「何も自分まで死ぬ必要はない」と心変わりしてゆく。
心中を言われて、冗談だと思っていた蕗子は五郎が真剣なので、心を決める。
そして、その理由を言わぬ五郎に、弥生さんのためではないでしょうか、と静かに泣き崩れる。
素直な性格で、五郎や義父から物足りないとか愚直な嫁と思われていた蕗子は、
実は決してそうではなく、夫のなすことを知っていながら胸に秘め耐えていたことが明確になる。
しかし、五郎が弥生のことを否定すると、蕗子は疑った自分を責める。
その泣き伏す背中姿を見て五郎は、「死ぬなんてウソだよ」と言い切る。
この原作は大佛次郎の同名小説となっていて、脚本は成瀬巳喜男。
しかし作品の台詞が文学調過ぎて、生身の人間の言葉となっていなかったりする。
そればかりか、独白シーンを多用して登場人物の心理を描写しようとする。
その切り替え場面には紗を掛けるという懲りよう。
当時、新しい方法としてそれを編み出したかもしれないが、とても成功しているとは言えない。
内容的に言っても、まず冒頭、五郎と蕗子が駆け落ちしているが、省略されているせいで、その前段としての二人のいきさつがわからない。
それがわからないから、1年後、五郎がやっぱり弥生が良かったと夢中になっても、全然納得できない。
だから、そうなの、そうなのね、と言う程度で終わってしまう。
同年作の、前回観た『女人哀愁』と比べるとその出来は雲泥の差で、
会社の要請で作る作品の中には、その時分やっつけ仕事も案外多くあっただろうな、と想像させてくれる作だった。
富豪の日下家の御曹司、五郎は一目惚れした蕗子と名古屋へ駆け落ちをした。
そして五郎は、名古屋のホテルまで迎えに来させた父親に、蕗子との仲を承諾させる。
五郎には、元々、相思相愛の幼馴染の弥生がいた。
五郎の両親は、病気がちの弟との二人きりの弥生を心配して家族同然に扱い、五郎との間のことも認めていたのだった。
五郎と蕗子は結婚し、駆け落ちから一年が経つ。
五郎は又、弥生への思いが高じてゆき、再び彼女と会うようになる。
そして父親に、「蕗子との結婚は間違いだったから離婚しようと思う」と言うが・・・
父親は、従順な蕗子のことを庇う。
「お前を信じている蕗子を、夫としてその責任を放棄するのか」
でも五郎は言う、「愛情もないのにこのまま生活し続けるのは蕗子のためにも良くなく、嘘の生活は出来ない」と。
父親は、「それは身勝手な言い分で、人間は社会生活をしているのだ」と言う。
弥生と一緒になりたいばかりの五郎は、彼女の弟が静養している鎌倉で密会を重ねる。
弥生はそんな五郎の気持ちに動かされても、「それでは蕗子さんが可哀想」と、彼の考えと必ずしも同じではない。
とうとう父親は五郎に、「自分の真実を貫くつもりなら、親の財力なしでやってみたらどうか」と通告する。
この言葉に、生活力のない五郎は、「嘘の生活を送ります」と折れる。
その後、五郎は蕗子を誘い、駆け落ちをした思い出の地名古屋のホテルに向かう。
蕗子は久し振りの旅行で喜んでいるが、実は五郎としては無理心中するつもりでいる。
その五郎が、時間が経つとともに、「何も自分まで死ぬ必要はない」と心変わりしてゆく。
心中を言われて、冗談だと思っていた蕗子は五郎が真剣なので、心を決める。
そして、その理由を言わぬ五郎に、弥生さんのためではないでしょうか、と静かに泣き崩れる。
素直な性格で、五郎や義父から物足りないとか愚直な嫁と思われていた蕗子は、
実は決してそうではなく、夫のなすことを知っていながら胸に秘め耐えていたことが明確になる。
しかし、五郎が弥生のことを否定すると、蕗子は疑った自分を責める。
その泣き伏す背中姿を見て五郎は、「死ぬなんてウソだよ」と言い切る。
この原作は大佛次郎の同名小説となっていて、脚本は成瀬巳喜男。
しかし作品の台詞が文学調過ぎて、生身の人間の言葉となっていなかったりする。
そればかりか、独白シーンを多用して登場人物の心理を描写しようとする。
その切り替え場面には紗を掛けるという懲りよう。
当時、新しい方法としてそれを編み出したかもしれないが、とても成功しているとは言えない。
内容的に言っても、まず冒頭、五郎と蕗子が駆け落ちしているが、省略されているせいで、その前段としての二人のいきさつがわからない。
それがわからないから、1年後、五郎がやっぱり弥生が良かったと夢中になっても、全然納得できない。
だから、そうなの、そうなのね、と言う程度で終わってしまう。
同年作の、前回観た『女人哀愁』と比べるとその出来は雲泥の差で、
会社の要請で作る作品の中には、その時分やっつけ仕事も案外多くあっただろうな、と想像させてくれる作だった。
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