『忘れられた人々』(ルイス・ブニュエル監督、1950年)について書いておきたい。
大都会メキシコの中で、取り残された貧しい人々の中の子供たち。
子供たちの溜まり場に、感化院を脱走したハイボが帰ってくる。
元々ここのリーダーであったハイボは、早速少年たちと、盲目の大道芸人カルメロの金入れを盗もうと策略するが、失敗する。
その腹いせに、お礼参りとしてカルメロを待伏せし惨々な目にあわせる。
ハイボは、自分が感化院の送られたのは、仲間のフリアンの密告のせいだと思っている。
そのフリアンを懲らしめるため、ハイボは少年ペドロと共に、フリアンの仕事場に向かう。
フリアンは否定するが、思い余ったハイボは、石と棒でフリアンを殴り倒してしまう。
後で、フリアンが死んでしまったことを知らされたハイボは、このことをペドロに口外しないよう約束させる・・・
この辺りから物語は、徐々にペドロを中心として動いていく。
幼い弟妹がいるペドロは、母親から、不良とつき合っているばかりだと邪慳にされる。
それでもペドロは、母親から愛されたいと希う。
そして、フリアンの死が絡んだ夢を見る。
悪夢を見るペドロの心情を表したイメージがシュールで、この場面が私には忘れられない。
思い出してみると、メキシコ時代のブニュエルの作品群は、今はなくなった劇場が、特集を組んでくれたりしてある程度は観ている。
だがこの作品は、それ以前に、どこかの映研サークルが催してくれた時に観ている。
ビデオもない時代だから、この頃自主上映は、どうしても観たい作品を観る方法としてとても貴重だった。
だからブニュエル作品は、それ以前の『アンダルシアの犬』(1929年)、『黄金時代』(1930年)、『糧なき土地』(1933年)もそのような形で鑑賞した。
でも、この『忘れられた人々』を観た時は、やはり強烈過ぎるほどの印象だった。
弱者が弱者をいたぶり、金を巻き上げる。
それを、盲人だけでなく下半身のない台車に乗っている人にも、子供たちは容赦なく、する。
この少年たちも、金がなければ生活に困り生きていけないのである。
それをブニュエルは、冷徹に映し出す。
この映画を観る者が安易な道徳観を振りかざしても意味を持たないだろうと、観ていてそのことに衝撃を受ける。
もともと善良なペドロが、入れられた更生施設で、所長から“希望と信頼”を得、未来に向かって一歩を踏み出す、その救いの場面。
皮肉なことに、そこに偶然に現れるハイボ。
その結果としての、ペドロとハイボの死。
殺風景なゴミ捨て場に、無機物な存在として捨てられるペドロ。
生まれてきて、ここまで生きてきたペドロの存在とは、一体なんだったのか。
彼が殺されても、時は、単に余計者がいなくなっただけの話として過ぎていく。
そのことをブニュエルは、この社会を批判も肯定もせずに、在るがままに映し出す。
この作品を観てしまったことによって、いつまでも忘れられない鮮明な映像として、ふっと今でも思い出すことがたまにある。
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