『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳(韓国語→日本語) 静かな事件4

2021-07-05 22:28:20 | 翻訳

☆☆ 趣 味で勉強している韓国語サークルで取り上げた作品を翻訳しました。営利的な目的はありません。☆☆

2017第8回 若い作家賞 受賞作品集から「静かな事件」

著者  : ペク・スリン

著者略歴: 1982年 仁川生まれ。2011年 京郷新聞新春文藝に短編小説「嘘の演習」が当選し登壇。

      2015年 若い作家賞を受賞。

「静かな事件」4

 時々、そこを通る時がある。以前立体交差があって窓のない売春宿が隙間なく並んでいた通りは、今は痕跡もなく高層建物でおおわれている。私たち家族はパワーシャベルが廃屋をつぶす前に引っ越しをして、その後しばらく私はその地域に行かなかった。猫小父さんのように最後には追われるように出て行ったその町の大部分の人々が、どこで、どんな姿で生きているのか私は知らない。しかし、多くの時間が流れてもたまにバスを乗り換えるために、今は空港鉄道が走るその町を歩いてみると、その頃のなんらかの場面が突然思い出されたりする。例えば死んだ猫を発見したその日の記憶のようなもの。

 ヘジはそのように去った。私たちはよく電話をしてたまに会ったけれど、だんだんほとんど会わなくなっただろう。ムホとふたりきりで会ったことはその後なかった。雪が珍しい地方で生まれ育った私は雪が毎日待ち遠しかったけれど、その年の冬は本当に雪が降らなかった。シベリアから下ってくる寒冷気団の影響で顔がえぐられるほどの酷寒が続いた。冬になると同一のチェック模様のブランド品のマフラーを一斉に巻いて、休みにはシンガポールへ、カナダへ語学研修に出発し、何よりも少しの自律学習は意味がないというように、塀を越えて逃げて行ってもいつも成績が私より良かった子供たちの間にいると、私は勉強に興味を失った。外国小説でも雑誌でも、ついには国語辞典まで、活字に飢えた人のようにどんな本もむやみやたらに、最初のページから終わりまで読みまくり始めたのはそのためだった。何かを読んでいる間ぐらいは誰とも話さなくても済んで時間がどんどん経ったので、私はそれが良かった。その日も日曜日だったけれど、学校の図書室に座ってジェームス・ジョイスやウジェーヌ・イヨネスコのような本を理解もできないまま読んで家に戻る途中だったのだ。厳しい寒さにすっかり体をすくめたまま、坂を上っているとどこかでざわめく音が聞こえた。

「喧嘩だ。」

 誰かが叫んだ。私は怖いけれど気になって声のするほうへ向かった。そこ、石油店の前には見物人が少し集まっていた。時々そのことを後悔した。そこに行ってはならなかったのに。しかし、私は好奇心に抑えられず、私の前をふさいだまま立っている小母さんたちの肩と肩の間に首を押し込んだ。そしてそこで殴られている猫小父さんを見た。

「あの人たちが猫に毒を食べさせたんだよ。」

 見物人の中の誰かが誰かにささやく声が聞こえた。若い男たちによって地面にたたきつけられた猫小父さんは曲げた腰をまっすぐに立たせて起き上がった。私は恐ろしかった。小父さんが死ぬかと思った。いつも充血して赤い目のせいで恐ろしく見えた小父さんの顔は一層ぞっとするようにゆがんだ。小父さんを殴っていた人たちは喧嘩をやめたいようだったけれど、小父さんは背を向けた彼らに向かって何度も飛びついてまた殴られた。なぜ誰もやめさせないのか? 私は焦る気持ちで周囲を見回した。眉をひそめながら見物している人々は大部分小母さんやお婆さんで男はちびしかいなかった。猫小父さんは何何と声を張り上げた。悲鳴ではなく何かを言ったのがはっきりしていたが、発音が不正確でわからなかった。私は不意に父が浮かんだ。父ならどのようにでもこの状態を解決できるだろう。私は振り向いて走った。普段使っていた道を迂回して家まで走った。私がそのように速く走れる人だということをその時まで知らなかった。家に曲がる路地に入るやそこには本当に死んだ猫がいた。家の前をしょっちゅう通っていた猫、口の周りにだけ星の模様で白い毛が出てヘジが星と呼んだその猫だった。死んだ猫を見たのはその時が初めてだった。猫は四肢を上に持ち上げたまま腹を見せてセメントの地面に死んでいた。目を開けた状態で冷たく硬直していた猫。私はかばんの中で鍵を見つけた。鍵が鍵穴に入らず、手が震えているのがわかった。

「お父ちゃん、お父ちゃん。」

 家に入るとふっと暖かい空気が私を包んだ。

 私の声が緊迫して聞こえたのは間違えなかった。父と母が同時に何事か驚いて部屋から飛び出してきたからだ。

「お父ちゃん、お父ちゃん。猫小父さんが殴られている。」

 その後、詳しいことは記憶にない。私はおそらく泣きながら父に目撃したことを説明したようだ。小父さんの顔がどんなに腫れていたか。彼の体が足蹴にされてどのように丸まってからまたようやく伸びたか。そして血が、血がどのように流れ落ちたかについて。父は私の話を全部聞けば服を着こんで外へ飛び出すだろうと思った。警察を呼んで、人々を呼んでどのようにしてでも状況を解決してくれるだろうと。しかし驚いたことに父は私の話を聞いたのに母に、「この子に水を持ってきてくれ、息が切れそうだね」と言った。そして私のほうを眺めながらこのようにゆっくり付け加えただけだ。

「顔がこちこちに凍っている。暖かいオンドルの焚口に行って体をちょっと溶かしなさい。」

 後で知ったことだけど、再開発推進が遅れることに対するうっぷん晴らしで、毒物を注入した鶏肉を町のあちこちにまいておいたのは、賛成派の中の誰かだった。数十匹の猫がそれを食べて路地のところどころで死んでいった。父はそれを既に知っていたのだろうか。ひょっとすると、父は性格的に喧嘩に加わりたくなかっただけかもしれない。父はただ家族のためにソウルに来ただけで、そんな葛藤を経るようになるとは想像もできなかったはずだから。しかし、奇妙にも私は母が渡してくれた水をもらって飲んでも、されるまま部屋のオンドルの焚口に布団をかけて座っていながらも、涙が止まらなかった。しばらく泣いてうとうと眠っていたが、腫れあがった目をようやく開けた時は既に真っ暗な夜だった。私は起き上がって座った。頭が割れるように痛かった。父と母はもう寝たのか家の中は静かだった。そのように、暗い部屋の中で重い目をぱちくりさせて、しばらく座っていたが、どんな理由からなのか突然家の前で死んでいた猫を埋めてやらなければと思った。それは本当に奇妙な思いだった。私は一度も猫を触ってみたことがなく、まして何かの死体を埋めてみたことはなかったから。しかし、どこにどのように埋めなければならないかもわからず、着ていた服のうえにパーカーをひっかけた。猫は冷たい地面にまだそのままいるだろうし、そのように放っておくことはできなかった。人々がただ見物だけしていた猫小父さんを思い浮かべ、居間に入っていった父の後姿と、私の顔をしきりに撫でながらひと眠りしなさいと、私をとんとんたたいた母を思い浮かべた。私はパーカーのジッパーをあげた。父や母が目覚めるかと思って電灯をつけず、手探りで居間を出ながら、猫をハンカチのようなものでくるんで空き地の横の花壇に埋めてやればいいじゃないか、そんな風に考えた。かなりいい考えのようで、気分が一層よくなった。しかし、玄関の前に立つと急に寒気を感じた。ドアの隙間から冷たい風が入ってくるようだった。夜になったので外は昼より気温が下がっているだろう。数日間零下15度前後の酷寒が続いていた。私は靴箱から運動靴を取り出すために玄関に踏み出した。玄関の床に裸足でつくと、思っていたよりずっと冷たく身震いした。猫がまだそのままいることはいるだろうが、あまりに薄い服を着たようだと思った。実は誰かが既に移してしまったかもしれないので、私たちの暮らしていた家の玄関ドアの上の部分には外を眺めることができるように、丸くガラス窓がでていた。室内との温度差のためにガラス窓に水蒸気が立ち込め、外は何も見えなかった。私は運動靴を踏み潰したまま窓を手のひらでこすった。猫の死体がまだ路地に捨てられているけれど、ひとまずこっそり確認して出るつもりだった。手の跡にそって透明になった冷たいガラス窓に額をじっと当てた。

「まあ。」

 その瞬間我知らず感嘆の声が飛び出た。窓の外には巨大な雪片が降っていた。羽根のように柔らかい雪片が、瀝青色の暗闇を一層塗った隣の家の屋根の上にも、屋上の上の味噌甕台や坂の下の方の葉の落ちた枝ばかりの木の上にも、静かに。どんなに美しかったか。それは本当に生れてから一度も見たことがない巨大な雪片だった。さらさら雪。淡雪。小雪。国語辞典で発見した無数の単語でも形容することが充分ではなかった雪片。それほど息が詰まる光景をそれ以前にもそれ以後にも見たことはなかった。そして冷たいガラス窓に額を付けたままそうしてしばらく立っていた。踏み潰した履物のうえにソックスもはかず、つま先立ちをしたままで。振り返ってみると、それが私の人生の決定的な一場面ではなかったかと思う。将来、私は生涯このように、出ていくことができず、ただドアの取っ手を握ったまま、窓の外をしきりにのぞきこむという、取るに足りない人生を生きるようになるだろうという事実を暗示しているから。しかし、その場面の意味を理解するようになったのはとても遠い後日のことで、その時私は窓の外に降り落ちる美しい雪片をただ眺めているだけだった。すべてのことをすっかり忘れてしまって、家々にぶらさがってはためいている赤い旗の間に真っ白な雪片が降り落ちる風景を。ただうっとりとして。

(終わり)


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