あっというまに、花から若葉の季節にかわった。
季節の足が速すぎるような気がする。
ぼくも早足だが、それでも追いつけない。季節と駆けっこするつもりはないけれど、なんとなく周りのいろいろな動きに、置いてきぼりにされている思いがする。引きこもりの春だから、仕方ないといえば仕方ないか。
季節の歩みが遅いと感じていた頃もあった。
その頃は若かったのだろう。先走っていたり慌てていたりすることが多かった。
速いということがなによりと、習慣づけられていたのかもしれない。せっかちといえばせっかちだった。
それが生来のものだったのか、それとも躾けられたものだったのかよくは分からないが、背後にいつも父の声がしていたことも確かだ。
「はよせえ、はよせえ(速くしろ速くしろ)」という父の声が聞こえてくる。
ぼくがのろまだったのか父がせっかちだったのか、どちらかだったのかもしれない。
何かをしようとすると、背後に父の声がしてくる。ぼんやりしていても聞こえてくる。ついつい何かをしなければと焦ってしまう。何かをやり始めると、早くしてしまえと尻を叩かれているような気分になる。
いつのまにか歩くのも速くなった。食べるのも喋るのも速くなった。
仕事をするのも速かったと思う。おかげで得をしたこともあるが損をしたことも多い。
会社で仕事をしていたときは、手早いぶん仕事量が増えて、いつも忙しくて疲れ気味だった。サラリーマンをやめ独立してからは、早くこなせた分はそれだけ収入が増えた。
大阪人はせっかちが多いから、速いということは仕事上は利点にも信用にもなるのだった。
大阪では「せえて、せきまへん」という言葉をよく使う。急ぐけれど急がない、といった矛盾した言葉だ。「せきまへん」の方を真に受けてゆっくりしていると、まだかまだかと催促される。
何事にしろ大阪では、せっかちになる環境は整っているのだ。
季節の移り変わりも、大阪では早足なのかもしれない。きっと地面の底から、地球のおやじが「はよせえ、はよせえ」と急かしているのだ。
そんなときは、空を見上げて深呼吸をする。
高い木の上にいる、ウグイスの声だけがのんびり聞こえる。
またウグイスの鳴く頃となった
けきょ けきょ
けきょ けきょ
どこかに
いい国があるんだ
山村暮鳥の「ある時」という詩を借りて、ヒグラシをウグイスに替えて作ってみた。
ヒグラシよりもウグイスの声の方が、いい国がすこしだけ近くにあるような気がする。今はコロナや黄砂にかすんで、春の国も遠いからね。
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コメントありがとうございます。
コロナのせいで、
見失うものや新たに見つかるもの、
いろいろあるみたいですね。
新しい時代の始まりになれば良いですね。