風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

星へ還ってゆく

2018年02月12日 | 「新エッセイ集2018」

 

いままでに見た一番きれいな星は、標高1800メートルの山頂で見た星空だった。
きれいというよりも、すごいと言った方がいいかもしれない。星が幾重にも重なって輝く壁のようだった。手を伸ばせば触れることができそうで、それでいて無限に遠く澄み渡っているのだった。
星ではない何か、空を覆いつくしているもの、空そのもの。昼でもない夜でもない、もうひとつの、はじめて見る空だった。

夜に向かって山に登るな、という登山の鉄則は知っていた。
だが、当てにしていた麓の山小屋が雪崩で潰れていた。引き返すこともできない。そのまま山を越えることにしたのだった。
すでに陽も沈み、登るほどに夕闇が追いかけてきた。
山頂に着いたときは、すっかり夜になっていた。冷たい風が吹き抜けていた。無数の鈴を鳴らすような澄んだ響きが辺りに満ちていた。凍った草の葉先が触れ合って、ガラスのような音を発しているのだった。まるで満天の星と共鳴する天上の音楽だった。

体が急激に冷えたので、コンクリートでできた無人の非難小屋に入って風を避けた。
中は何もなく暗闇だ。四角いがらんどうの窓に、ぎっしり詰め込まれたように光っている星。充満しているのに空洞のような、異界の景色を見ているようだった。
懐中電灯で五万分の一の地図を照らし、目指す谷あいの山小屋の位置を確かめた。なんせ一面の雪だから、道があるかどうかもわからない。
自家発電が止まってしまわないうちに、山小屋にたどり着かなければならなかった。

斜面を下りはじめたら風もなくなった。
明るすぎるほどの星空に比べて、足元は闇。懐中電灯で照らされた所だけ、白い雪が浮き上がる。わずかに平らな部分を道だと推測しながら足を下ろす。浮き立ったような心もとない歩行だった。
積雪の表面に張った薄氷が、靴の下で細かく砕ける。その感触だけが、歩いているという実感だった。立ち止まると、砕けた雪氷の欠片が、せせらぎのような音をたてて闇の斜面を落ちていく。その響きはいつまでも鳴り止まない。目には見えない深い谷があるようだった。足を滑らせたら、どこまで落ちていくかわからなかった。

星空が美しすぎて恐かった。
山の鉄則を犯した自分は、すでに異界の宇宙を歩いているのかもしれないと思った。
無数の星が饒舌に瞬いている。しかし言葉を発するものはひとつもない。豊穣なのに静寂、ひしめき合っているのに孤独だった。
星々の異常な輝きと闇の地上。それは、ぼくがそれまで生きてきた世界ではなかった。生の世界から死の世界へ入っていくのは、容易なことかもしれなかった。気付かないうちに、その一歩を踏み出しているかもしれない。ふと居眠りをする。その程度のことなのだ。

どのくらい歩いただろうか、妄想の中を歩いていたら、遠くの暗闇の中に星がひとつだけ見えた。視界の底のほうに、空から落ちた星がひとつだけ光っているようだった。
あるいは自分は空を歩いていたのか。感覚がすこし狂っていた。人も光を発するということを認識するのに間があった。それは温かい色を発していた。人が生きている色だった。
その星を目指して、ぼくはまっすぐに歩いていった。

 


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4 コメント

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ほんものの星が (yo-yo)
2018-02-18 12:42:16
つゆさん
コメントありがとうございます。

広大な中国大陸での満天の星空との遭遇。
想像するだけでも素晴らしい光景ですね。
ぼくは初めての北海道旅行中に、層雲峡のホテルで
真夜中に見た星空も忘れることができません。
星がこぼれてきそうでした。

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中国は大興安嶺で (つゆ)
2018-02-18 11:38:34
渦巻きのようにして、列車は大興安嶺を越える真夜中、人に起こされ、窓から眺めた満天の星。
手を伸ばせば届きそうで。
やはり2千Mぐらいの山でしたでしょうか。見ただけ得と思っています。
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光のなかで (yo-yo)
2018-02-13 18:47:34
ムベさん
コメントありがとうございます。

この冬は寒くて、テレビなどでも大雪のニュースばかりで、
ついつい雪山のことなど思い出してしまいました。
闇の中では白い雪すら見えず、見えるのは光る星ばかりでした。
光るものも、灯火のようなものだと目印になりますが、
無数にあると、幻惑されてしまいますね。
ムベさんのように、縦横無尽に湧き出すホタルの光の中で浮遊する、
その感覚はロマンチックでもありますね。

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こんなことを思い出しました。 (ムベ)
2018-02-13 17:32:40
以前主人から聞いた話ですが、
深い高い山で仲間と仕事をしていたのですが、ある日帰りが遅くなり、懐中電灯も電池が切れて暗闇を戻らなければならなったそうです。
真の闇の中を、僅かに木が切られて星空が開けている下を選んで歩き続けたそうです。

私は、闇の中に無数に光るホタルを小さな橋の上で見た時、下から上から縦横無尽に湧き出す光の中で、自分も宙に浮いているような感覚に襲われたことがあります。あまりに美しいものはちょっと恐ろしくもあります。
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