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いまの季節、空を仰ぐことが多い。
雨の気配が気になる。雨は嫌いではないが濡れたくない。
しかし、空気が適度に湿っているのは好きだ。
雨上がりの道を、カメやザリガニが這っていたりする。生き物の境界がなくなって、ひとも簡単に水に棲めそうな気がする。なにか原始の匂いが漂う。
いつも眺める山が、きょうは近い。
そんな日は雨が降る、と祖父がよく言っていた。
たぶん大気中の水蒸気が密になって、レンズのような役割をするのだろう。普段よりも山の襞がくっきりと見えたりする。山が近づいてくるのだ。
子どもの頃は、山が近づいてくるのが分からなかった。山はいつもの、不動の山にすぎなかった。
セミが鳴き始めたから雨はもう上がる、と、これは父の声。
それは夏の夕立の後だったかもしれない。
夕立の激しさもセミの喧騒も、太陽の暑さに負けまいと競い合っているようだった。
ぼくらは河童になって川で競い合った。水中でどれだけ息を止めておれるかで、勝敗が決まることが多かった。
子どもらは魚にでもなれると思ったものだ。
秋の夕焼け鎌を研げ、と再び祖父の声。
祖父は百姓だった。わずかな葡萄山と田んぼがあった。
空が真っ赤に焼けるのを見ながら、あしたは稲刈りだとばかり、黙々と鎌を研いだのだろう。
ぼくの父は、そんな家をとび出して商人になった。だからぼくは、田植えも稲刈りもしたことがない。
祖父も父ももう居ない。声だけが残っている。
雨の山と、セミの喧騒と夕焼け……。
そんなものが残されて、ぼくに明日の天気を教えてくれる。